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杉田庄一ノート74 昭和20年3月、『紫のマフラー』

 昭和19年の12月末、笠井氏ら甲飛10期の同級生たち(日光安治、宮本芳一、佐藤精一郎)は初めて松山市内に外出したときに、松山城近く大街道にある料亭『喜楽』の看板をみつけて飛び込みで入る。『喜楽』はすき焼き専門の料亭だったが、戦時統制下で店はやってなかった。しかし、笠井氏らは弁当として弁当箱にパンを一斤を持参していており、お茶だけもらうつもりだったのだ。すでにどの店に行っても食事は取れない時代であった。出てきた若女将の今井琴子(旧姓大西)さんから、「お茶くらいだったらなんぼでもあげるよ」と言われ中に入れてもらった。店のテーブルを借りて、フィリピンでの特攻の話をしていたら、今井さんも話にはいってきて、菅野ら343空の士官たちも『喜楽』に出入りしていることがわかる。『喜楽』は料亭の営業ができないので閉じていたが、自宅の方の空き部屋を下宿として貸し出していた。301隊の柴田正司少尉夫妻も2階の空き部屋に『下宿』にしていたので、菅野たち士官が訪問していたのだ。そんなことで、今井さんは笠井氏らに、まだ空いている部屋を『下宿』として利用するといいと提案する。

 海軍における『下宿』というのは少し説明が必要である。基本的に軍隊は、日常生活をすべて基地あるいは艦の中で共同生活となる。上下関係が厳しい階級社会であり、休日となっても行く場所がなければ休んだことにならない。そこで、帝国海軍では海兵団に入団した時から、休日になると基地あるいは艦から離れてゆっくり羽を伸ばす場所として民間人の家を借りた。それが『下宿』であり、『下宿』に行くことを海軍らしく『上陸』と言った。大概は気の置けない同期の仲間と一部屋を借りて、休日の1日あるいは半日を好きなように過ごしたのだ。

 さて、『喜楽』は単なる『下宿』に収まらなかった。菅野隊長も杉田区隊長も、他の隊よりも厳しい訓練を行うが、訓練のあとは飲んで歌って自分を発散することを良しとしていた。グアムやフィリピンでの戦場でもそうだった。『喜楽』は自然と301隊の搭乗員たちの溜まり場となっていく。今井さんに会いたいために隊員たちは基地から7kmある道を駆け足で通うようになる。そのうち、他の隊や松山基地に併設されてた予科練の連中も『喜楽』へ来るようになった。予科練生は、さらに若く15〜6歳である。中には上官から制裁を受けて顔がアザで黒ずんでいる者もいる。街の銭湯に行くとアザだらけの尻をかくして入るとか尻が痛いので横向きにしか寝られないなどと話していた。それにくらべ301隊は上下関係を気にせずに、菅野隊長をかしらにいつも飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。そして、杉田のどじょうすくいが定番となっていた。今井さんも手に入りにくい肉を用意して、すき焼きをごちそうするなど、今井家総出で301隊のめんどうをみた。ようやく手に入れた材料でおはぎや赤飯などをふるまうこともあったという。隊員たちも今井さんを母のように、姉のように慕い、「かあちゃん」とか「奥さん、奥さん」と甘えた。そのとき実は今井さんは20歳だったし、多くの隊員たちは18歳前後だった。菅野隊長が23歳、杉田が20歳で今井さんと同じ歳。戦時下のそれも押し詰まった時期、社会全体の空気がきわめて緊張していた中での交流だった。しかも、12月の暮れから1月頭にかけて、訓練で5人が続けて殉職していた頃からである。

 昭和56年に発行された『三四三空隊誌』に今井琴子さんの載せた「三四三空の皆様」という文があり、当時の思い出を語っている。

 「その頃は、三四三空の方々にとって尊い命懸けの青春であったように、私にとっても同じ世代を生きてきた青春がございました。当時私は一児の母でしたから、私宅にこられた方がたは皆さん私より年下だと少しも疑わずにいましたのに、この間はじめてお聞きしましたら、故菅野大尉や故日光上飛曹まで私よりも年上だったとは、本当に驚きました。お姉さんぶっていろいろ言ったことを恥ずかしく思います」

 「菅野大尉殿、貴方が宮分(宮崎分隊士)の結婚式の時、私に『奥さん、俺にもかあちゃんをみつけてくれ』と申されましたね。つぎに上陸してこられた時にも、玄関で飛行靴を脱ぎながら同じことを言われました。私も本気でそのうちにいい方をお世話しなくては、と思っていました。
 でもすでに時間のないことを知らなかったのです。何も恐れぬ豪快な隊長が『ゆっくり畳の上でくつろげる家庭が欲しい』と思われたひと時があったことも…。愛するものが欲しいと思われたことも、未練を残すものはいらぬと思われたことも偽らぬ正直なお気持ちだったと思います。」

 「日光上飛曹さん、貴方も戦死の二、三日前に家にいらした時、一歳二ヶ月になる私の娘をあやしながら『奥さん。俺はかあちゃんは貰わないよ』と言われましたね。 私は『何故?』と愚しい質問をして『いやあ、若い後家さんつくるの可哀そうだからね』と答えられたのに、まだしつこく『そんなこと言わないでお嫁さんもらわんといかんよ、子孫を残さんとならんでしょうが。私がいいお嫁さんを探してあげますからね』とまで言ってしまいました。そのときどうして『好きな人がいるのと違う?』と推測ってあげなかったのでしょうか。今なら言えることを、若いといいながら心の中を思い計ることもできなかった私のぼんやり…。貴方の手帳を見せていただいて申訳なさに泣けて泣けて胸が痛みました」

 日光上飛曹には、故郷北海道に許嫁のような幼馴染がいた。二人はお互いに気持ちは通じていたが、デートはおろか、手紙のやりとりもひかえていた。ただ、手帳には思いを書いていたのだ。日光上飛曹が戦死した日、たまたま北海道から日光上飛曹(甲飛10期)の姉が松山基地に訪ねてきていたが、会えないまま『喜楽』で待っていた。日光上飛曹の同期生たちは、相談した結果本当のことを知らせようということになり、笠井氏が「本日、未帰還になりました。」と伝えた。涙をこらえて「ああ、そうですか。わかりました」と姉はうなづいた。二日後に、北海道に戻る日光上飛曹の姉を見送るため同期生たちは無許可で基地を抜け出した。その時の写真が残っている。

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 「井上中尉殿。貴方はいつも静かに縁側の籐椅子に腰掛けていらしたわね。可愛くってやさしい新妻のことを最後まで心配していらして戦死の二、三日前に『奥さん、お願いがある。実は家内が妊娠しているらしいので婦人科に連れて行ってほしい。もし自分が出撃したときは、田舎に連れていってくれませんか、お願いします。」とおっしゃいました。私は全部お引き受けしますよと申し上げましたね。それだけは安心してくださったと思います。…」

 井上伊三郎中尉は京都大学出身の予備中尉だった。新婚まもないまま松山に来て、新妻も付いてきていた。戦死後すぐに、井上中尉の妻は琴子を訪ねて礼を言って別れた。平成7年、48年後に今井さんのところに井上中尉の息子の柴田浩通さんが訪ねてくる。「あのお腹の中の子供だった今井中尉の息子さんか、井上中尉とそっくりや」・・・。これも、実際の映像も残されていて後述する南海放送の映像としてYouTubeにあげられている。

 今井さんは杉田の思い出も語っている。多くの若い搭乗員にとって神のような存在だった杉田であるが、宴会になると元気いっぱい座を盛り立てていたことがうかがえる。

 「元気よくってどじょうすくいの上手だった杉田さん。三十幾年ぶりに道後温泉で開かれた新撰組(301隊)の戦友会の席上で、出席されていた貴方の弟さんを貴方と間違えてしまいました。貴方だったらもっとお年をとられているはずでしたのにねえ。あわてものでしょう。」

 昭和20年正月に笠井氏らが訪ねた時に今井さんからマフラーをつくってあげると申し出をうける。以下は、笠井氏の書いた経緯である。

 「『ところであなたたち、紫電っていう飛行機に乗っているやなあ。紫電といったら紫の電気でしょ。それならマフラーを紫電にちなんで紫にしない?』
 『え、マフラーつくっていただけるのですか?それはありがたい。そやけど奥さん、マフラーは絹やないといかんのですよ』
 『なんで?』
 『火が出たら(火と熱を防ぐために)マフラーを顔と頭に急いでこう(ぐるりろ)巻くんですよ。普通の木綿地やったら(操縦席内に)火が出たときに燃え移ってしまう』
 『あっ、そう。わかった。私、絹の生地を持っています。嫁入りのときに持参した白無垢の着物があるから、それでマフラーをつくってあげる。三〇一飛行隊のみなさんに提供するわ』とこともなく言った。

 今井さんは、白無垢の生地を6尺の布地四十数枚に切り、染物屋で紫色に染めた。さらに、その紫のマフラーに隊員たちの気に入った言葉を刺繍することにした。四月には343空は九州に進出することなっており、刺繍を一人でしていては間に合わない。そこで私立済美高等女学校(現済美高等学校)に頼むと女学生が刺繍を手伝ってくれることになる。搭乗員たちはそれぞれ『必勝』『攻撃』『勝利』など勇ましい言葉を選んで刺繍してもらった。杉田区隊の四人は、杉田の好きな言葉である『ニッコリ笑へば必ず墜とす』にした。

 この『ニッコリ笑へば必ず墜とす』の紫のマフラーは、笠井氏が戦後も大事にしまっていた。昭和53年に引き上げられた紫電改を展示するために作られた「紫電改展示館」(愛媛県愛南町)に現在は展示されている。先年、訪ねたときに実物を見たが、色が褪せてはいたが70年以上も経っていると思えなかった。また、いろいろなお土産品にも刻印されていてちょっと驚いた。

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 この今井さんと三四三空301隊との交流は、戦友会に呼ばれたり元隊員が訪ねたりと戦後も続いた。今井さんは平成8年に亡くなられた。

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 愛媛県の南海放送では、過去に何度もこの今井さんと三四三空三〇一隊との交流をとりあげて、特別番組を作っている。最近では令和元年(2019)に終戦企画南海放送ラジオ&YouTubeドラマ「紫電改 君がくれた紫のマフラー」を放送している。登場人物は杉田上飛曹、日光上飛曹、そして今井さんの三人である。もちろんYouTubeで見ることができる。一昨年(2020)は、この「紫電改 君がくれた紫のマフラー」を原作にしてミュージカルも作られて上演されている。松山市の人たちがやさしいからといって菅野大尉は基地に決めたのだが、松山市では今も三四三空を忘れずに語り続けている。大切なことだと思う。

愛南町公式ホームページ
http://www.town.ainan.ehime.jp/kanko/sightseeing/asobu/shidenkai-tenjikan.html

紫電改 君がくれた紫のマフラー
https://www.youtube.com/watch?v=NEoKkh4_YOA



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