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杉田庄一ノート80 昭和20年5〜7月「大分基地の343空」

 国分基地もB-29による爆撃が続き、基地整備員からも戦死者が出ていたことから基地移動を考えなければならなくなった。その頃、アメリカ軍は日本軍による相次ぐ特攻攻撃『菊水作戦』に手を焼いていた。実際の被害もさることながら、自爆攻撃をかけられる兵たちの恐怖心も大きかった。ちなみに『菊水作戦』だけで日本海軍機は940機、日本陸軍機は887機が特攻を実施した。3000名以上が特攻で戦死している。そこで、B-29による戦略爆撃を一時中断し、基地航空隊を集中的に叩く戦術作戦に切り替えた。そのため九州地方・四国地方の飛行基地は連日B-29による爆撃を受けることになる。

 343空は4月25日いったん松山基地に戻って態勢を整え、4月30日に大村基地に移動する。紫電改搭乗員を養成訓練するための戦闘401隊が徳島基地にいたが、これを松山に戻した。戦闘部隊は去ったのに松山基地ではその後もB-29からの爆撃が続き、多くの犠牲者を出す。

 この頃に鹿屋基地近くで陸海軍合同会議が開かれた。この会議で菅野は角田中学校の同級生だった森田禎介大尉と会い、その夜は旧交をあたためた。森田大尉は、菅野が中学時代とあまりに違うことに驚いた。中学時代は文芸誌に詩を投稿するようなおだやかな文学青年だった菅野が精悍で引き締まっており、飲みっぷりのよさや、粗野な態度で『与太者』のような姿だった。しかし、何気なく口にした『オレも長いことはないんだ』という言葉が妙に心に残ったという。

 4月30日、343空の戦闘301隊、戦闘407隊、戦闘701隊が大村基地に移動する。沖縄への特攻を行う『菊水作戦』を支援する進路啓開作戦や九州工業地帯へ来襲するB-29の迎撃が続く中、九州西方海面に出没する大型哨戒機の掃討する任務も付け加わった。連日の任務が重くなる一方であり、成果もあがらなくなって、菅野はいらだっていた。途中から343空に加わってきた松村正二大尉とケンカまがいのやりとりを志賀飛行長の前でしてしまうこともあった。B-29への迎撃では、前上方背面攻撃の成果が出てきたが空中分解と思われる事故も起きていた。志賀飛行長も自分で試してみたところ、効果中に激しい振動を感じ、降りてから調べると補助翼の羽布がはがれていた。操縦者だけでなく機体にもきわめて厳しい負荷をかけていたのだ。

 5月5日もB-29の編隊が北九州工業地帯への空爆のために来襲した。343空は鴛淵大尉の指揮下で迎撃にあがった。戦闘407隊の市村吾郎大尉の区隊は前上方背面攻撃によりB -29に編隊攻撃をかける。2回目の攻撃のあと4番機の柏谷欣三飛兵長は退避が遅れたのかB-29の右翼にあたって紫電改が空中分解する(地元民が見ていたと言う碇義朗氏の説をとる)。柏谷飛兵長は落下傘で脱出するが頭蓋骨骨折で死亡していた。B-29は、その後も25kmほど飛行し、大分県武田市上空で力尽きて墜落する。ワトキンズ機長は、部下をつぎつぎと落下傘で降下させながら最後に脱出した。11人全員が落下傘降下したが、民間の警防団に囲まれ1人は拳銃で自殺、1人は暴行を加えられた後行方不明、2人は竹槍や草刈り鎌などで襲われ撲殺され、7人が捕虜になった。

 また、指宿成信少尉の区隊3番機の栗田徹一飛曹の攻撃を受けたB-29も機速が落ちて止まらず、豊後水道に炎上墜落する。このB-29からも5人が落下傘で脱出していたが、1人が重症を負っており同日夜に死亡。4人が捕虜になった。

 2機の捕虜のうち8人が九州大学医学部に送られた。この九州大学医学部に送られた捕虜8人は生体解剖の実験台になった。生きたまま内臓を取り出されたり、血と海水を入れ替える実験に使われたのだ(九州大学生体解剖事件)。残る捕虜のうち2人は、他の日に捕虜になった6人とともに某女学校校庭で斬首された。情報収集のために東京に連れて行かれたワトキンズ機長だけが生き延びた。戦後、この事件は大きな問題になり裁判が行われた。軍関係者2名と九州大学関係者3名が絞首刑になっている。昭和52年(1977)の5月5日、地元民らにより慰霊碑「殉空の碑」が建立されている。遠藤周作の『海と毒薬』は、この事件を取り扱っている。

 5月末に療養所から笠井上飛曹が戻ってきた。軍医に泣きついて許可をもらい戻ってきたのだ。菅野大尉に、「おう笠井、帰ってきたか。よし、じゃあいっぺんお前、そこ走ってみろ」と言われて走ろうとするが、痛くて走ることができなかった。「お前なんだ、走れないのに戻ってきたのか。そんな足の悪い奴が飛行機に乗れるか!」と再び療養所に戻された。こんどは雲仙の小浜病院というやはり温泉施設のついた療養所だった。復帰するのは6月に入ってからで、ようやく紫電改にも乗れるようになる。しかし、7月になると燃料や潤滑油の備蓄も少なくなり、本土決戦用に温存するということになった。そのため敵機が来ても2回に1回あるいは3回に1回しか迎撃できなくなる。

 思うように回転が上がらないので、出撃から帰った時に笠井氏は整備員に尋ねる「このエンジンは馬力が出ないので調べてくれ」と言うと、「燃料が不足しているので、今日は松根油を混ぜた」と返事があった。松根油というのは、松の切り株を乾留することで得られるテレピン油で航空燃料として使えるということだった。当時、全国各地で松根油作成のため大変な労力をかけて集められていたのだ。しかし、黒煙が出てプラグが汚れ、排気温度も上がり、エンジン性能は著しく低下した。

 343空が大村基地に移ってから二ヶ月が経とうとした6月22日、二代めの戦闘407隊の隊長林啓次郎大尉が戦死する。そして7月24日、杉田の代わりとしてようやく着任した武藤金義少尉も最初の出撃で戦死した。同じ日に、戦闘701隊の隊長鴛淵孝大尉が戦死する。この日に未帰還になったのは6機で、そのうちの1機が昭和53年(1978)11月に愛媛県南宇和郡城辺町(現南愛南町)久良湾の海底で見つかっている。現在、愛南町の山の中に『紫電改展示館』が建てられて保存されている。343空に関する資料や笠井氏が寄贈した「ニッコリ笑って撃ち落とす」のマフラーが展示されている。

  7月24日の戦闘に笠井氏も参加しているが、数日前に隠してあった100オクタンのガソリンを発見し、そのガソリンを使って操縦したのだそうだ。馬力が全然違っていつもよりスピードが出たという。

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