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杉田庄一ノート76 昭和20年3月19日、『九州沖航空戦』、三四三空出動その2

  3月19日早朝、343空の3隊の中で最後に離陸して呉上空で集合を終えた菅野中隊は、呉方向を目指してきたアメリカ軍の戦爆連合編隊と遭遇する。アメリカ軍は30機ほどの戦闘機を先導に、数個梯団の艦爆の編隊が続いていた。前日の偵察写真で見つけた柱島泊地の戦艦『大和』などが目標だった。菅野中隊は21機、編隊を組んだままの第一撃を加え、そのまま各区隊ごとに分かれて乱戦になる。さらに単機になっての空戦が続き、その後、続々と着陸してきた。搭乗員からの報告が入ってきて詳細が次第にわかってきた。大戦果だった。

 一番早く帰隊したのは杉田だった。午前8時30分過ぎ、下記のように報告する。「戦闘301隊は戦闘407隊と合流できず、東方に進撃中に、四国中部で呉に向かう敵編隊と遭遇した。敵後上方の有利な位置から攻撃に入り、先頭の菅野大尉がまず一機を撃墜、後続機も各自追撃戦に突入した。菅野大尉は後ろから攻撃を受け、搭乗機が火災をおこし、落下傘で降下した。隊長が降下した後も各自よく奮闘して敵機を多数撃墜した。」
 杉田は2機撃墜していた。素早く発進し、素早く空戦し、素早く戻るのが杉田の信条だった。

 敵発見から約4時間経った午前9時半、ほとんどの敵機は松山上空から去っていった。松場秋夫少尉は汗だくの上半身で片足を引き摺りながら源田司令に報告した。敬礼すると頬にも熱傷を負っている。「グラマンは紫電改の敵ではない。容易に敵の後に食込むことができる。20ミリ機銃4挺の威力は絶大で、照準さえ良好ならば、一撃で敵をノックアウトすることが可能である」という主旨だった。報告を終えると、少尉は再び敬礼し、介添えを受けながら退いていった。

 この日、343空はグラマンF6FおよびチャンスボートF4U合わせて48機、カーチスSB2C4機、地上砲火でもF4Uを5機を撃墜していた。圧勝ではあったが343空にも未帰還機が出ていた。戦闘407隊長の林大尉や戦闘301隊長菅野大尉も一時未帰還機となっていたが、林大尉は岩国基地に緊急着陸、菅野大尉は落下傘での脱出で無事が確認された。戦闘407隊は未帰還者は7人、戦闘701隊は4人。最も激しい戦闘をした戦闘301隊の未帰還は久保典義一飛曹、日光安治上飛曹、井上伊三郎中尉の3人だった。

 日光上飛曹は、たまたまその日に北海道から姉が訪問してきていて割烹『喜楽』で待っていたが、とうとう会うことができなかった。甲飛10期同期生の笠井氏らが脱柵して戦死を伝えたことは、以前のnoteに書いた。

 同じく『喜楽』に新婚の井上中尉が間借りをしていた。夫人はこの日、朝から空襲警報の中、棚をつっただけの仏壇に向かって無事を祈っていた。ろうそくが倒れたので胸騒ぎをした夫人は隊に問い合わせたが、不時着したらしいとだけ伝えられた。3〜4日後、いつまでもごまかせなくなったが菅野大尉は戦死を伝えられず、「おい柴さん(柴田正司少尉)、行ってくれ。いやか。そんなら宮さん(宮崎勇少尉)、お前いけ」と逃げていたという。戦死が伝えられた夫人は悲嘆し、涙、涙、涙だったと故郷に帰るのを見送りにいった『喜楽』若女将の今井琴子さんは語っている。

 杉田の報告にあったように、菅野直大尉は敵弾によって右翼の補助翼を吹き飛ばされるが、そのまま戦闘を続け1機を撃墜する。さらに追撃中に後方の敵機に撃たれ、出火したので落下傘で脱出した。今治市郊外の農地の木にひっかかって助かったが、オイルと火傷で顔の判別ができないうえ、当時の男性としては珍しく髪の毛が長かったので米兵と間違われる。竹槍をもった農家や国防婦人会の人たちに囲まれてしまったが、「俺は敵でない、日本人だ!」と千人針の腹巻きを見せてわかってもらえた。顔中を包帯でまかれ、連絡を受けた基地からの自動車でもどってきた。やけどで顔が真っ赤になっていて、待っていた笠井たちに、「隊長、すぐに医務室へ行きましょう」「いやいかん」「行きましょう」とのやりとりのあと無理やり連れていかれる。もう医務室にはまともな薬もなく白い粉のチンク油を顔に塗られた。包帯をまけといわれてもいやがり、白い顔のまま指揮所にもどった。
 「隊長、ずいぶんと色白なハンサムボーイになりましたね」とからわれたが、
 「顔の皮が引きつって痛いから俺を笑わせるな」と元気だった。

 このときの経緯から、343空の搭乗員は軍艦旗マークを飛行服の左腕にぬいつけることになる。落下傘降下する搭乗員を民間人が袋叩きにして殺してしまう事件は実際におきていた。関東方面の首都防空戦で、落下傘降下したのに、米兵に間違えられて撲殺された日本人搭乗員もいた。その頃から他の航空隊でも軍艦旗マークがつけられるようになる。また、この後に起きたことであるが、紫電改が撃墜し落下傘降下したB-29の搭乗員の捕虜を九州大学で生体解剖するという悲惨な事件も起きている。民間人に植えつけられた鬼畜米兵のキャンペーンが、集団パニックを起こしたのだ。

 『本田稔空戦記』(岡野充俊、光人社)によると、ラバウルで活躍した本田稔氏も、この日は343空の戦闘407隊の区隊長であった。実際に戦闘をおこなった本人による迫力ある記述なので、少し長いがそのまま記述する。
「『全機発進』エンジンの音がひときわ高くなると、鴛淵大尉機を先頭に各隊いっせいに滑走をはじめた。
 轟々と響く爆音が、ようやく開け渡った瀬戸内の空に力強く拡がって行った。今五十数機にのぼる編隊が砂煙をあげて次々と離陸していく様は、かつてガダルカナル攻撃のためラバウルから出撃したあの日の感動と緊張を再びこの身に覚えたのである。
 短時間のうちに全機上空で編隊を組み終わった。維新隊と天誅組は鴛淵大尉誘導のもとに隊形を整え、敵を迎え撃つため全速上昇、高度五千メートルで待機した。
 春霞のような雲が少しかかっていたが、海上は晴れて視界は良好であった。今や我々は祖国の頽勢挽回をこの一戦にかけて、集合場所である今治上空に向かって迎撃態勢を整えていた。その時右下方に機影を発見した。と同時に
 「アラワシ、アラワシ、敵発見、攻撃用意」
と、隊長機から指令があった。敵は数十機の編隊で我々の約千メートル下を北北西に向け呉軍港をめざしている。続いて「攻撃開始」の合図と共に「紫電改」三十三機は隊長機を先頭に、敵グラマンの編隊に真っ向から攻撃をかけた。・・・かつて比島ではこのF6Fに苦戦をした。今その宿敵グラマンF6Fが、あのときと同じ濃紺のいでたちで現れたのである。今度は貰うぞ!とばかり全機いっせいに接敵。五百、二百、百。「それっ」紫電改の二十ミリ機銃四門がいっせいに火を吹く。次の瞬間、私がねらいをつけたグラマンはパッと白い煙を吐いた。と、翼が飛散し空中分解を起こして墜ちていった。「紫電改」の火力のすごさをものがたる見事さであった。同時にもう一機が黒煙を吐いているのが私の視野に入った。列機の誰かが撃ったのであろう。一降下すると敵の編隊は乱れ、やがて彼我入り乱れての乱戦となった。敵味方の曳航弾が激しく飛び交う中を私の区隊はがっちりと編隊を組んだまま二度目の攻撃を加えようと態勢を整えた。
 よく見ると小癪にも敵四機編隊が攻撃態勢に入っている。全く同位である。ここは鍛えた腕のみせどころとばかり激突寸前まで接近し、敵の機銃が火を吹くと同時にいっせいに体をかわし、小まわりのきかないグラマンを一旦やりすごし急反転、わが方の態勢を有利にもち直して敵に追撃をかけた。この時は敵を後上方から襲う形にたり、最も優位な姿勢であった。再び「紫電改」四機。十六門の二十ミリ機銃弾が逃げる四機のグラマンを追いかける。
 やがて後部の二機から黒煙が流れ出し機首を下げて突っ込みはじめた。この第一編隊はどうしても叩きのめさねばならないと執念を燃やしていたので、さらに逃げる二機を執拗に追いかけ、うしろの一機に尾翼から前方へ胴体をなめるように銃撃を加えた。これはくるりと横転したかと思うと次の瞬間、錐もみ状態となって墜ちていった。残る一機も誰かが撃ったとみえて派手に煙を出したなと思ったら、パッと黒い塊が墜ちて行った。パイロットの落下傘であった。
 さて次は!
 と思って新手の敵を探したが見当たらない。一応わが目を疑ったほどだが、その時上空にあるのは味方ばかりであった。
 わずか十分足らずの戦闘であった。こうして第一波約三十機のほとんどをたたきのめすことができた。」
 このあと、第二波になる主力攻撃隊との空戦になる。乱戦の中で燃料がなくなり、弾薬もつきた本田氏は、敵の隙をみて基地に着陸した。本田氏は、その後も戦闘407隊で戦い続け、広島と長崎の原爆を上空で目撃するという稀有な体験をした。戦後は、航空自衛隊でテストパイロットを務め、令和3年(2021)10月3日、98歳で没した。

 「敵発見」の第一報をいれた偵察第4隊の『彩雲』4号機も壮絶な戦いを行なった。機長は偵察員の高田満少尉、操縦員は遠藤稔上飛曹、電信員は影浦博上飛曹の3人が載った『彩雲』は、敵を発見し第一報を入れた後エンジンが不調になる。「ワレ、エンジンフチョウ、ヒキカエス」と無電が入るが、その後も敵の情報を入れてくる。「サラニ、テキ、サンコヘンタイ、ミユ・・・」、次々と新たな敵編隊がやってきていたのだ。高田機は敵編隊と接触を続け、刻々と情報を打電していた。7時40分頃、「ク・ク・ク・・・・」(われ、交戦中)の電信。エンジン不調のまま、敵機に囲まれたのだ。「遠藤がんばれ!」「離れろ、逃げるんだ」と無線を聞いていた者がどなる。「ワレ、トツニュウス」・・・3秒後に発信音が切れた。スピードが出ないまま逃げきれないと判断し、敵2機を巻き込んで自爆したのだ。地上からもその様子が目撃された。墜落したのは高知県高岡郡東津野村の山中であった。二日後に行われた調査報告で、40機、20機、40機の3群の敵戦爆連合編隊に囲まれ、集中砲火を受けた高田機が、離脱困難と判断し、白煙を吐きながら東方から敵編隊に突入、体当たりで2機を巻き添えにしたことがわかる。戦後、昭和49年に地元の方たちによって『三魂の塔』が建立された。今も慰霊碑と『彩雲』の特徴である長い主脚が備えられた『三魂の塔』を見ることができる。

『源田の剣 改訂増補版』(高木晃治・ヘンリー境田)に、このときアメリカ軍の戦闘機隊長だったコナント隊長の戦闘報告が載っている。
 「ホーネットのVBF‐17飛行隊は、日本軍戦闘機隊の強力な反撃を受けて目標の岩国に到達できず、コナント隊長は挫折感をもって帰艦した。同隊の戦闘報告は、『かつて経験したことのない恐るべき反撃を受けた』と述べ、対戦した相手戦闘機搭乗員の力量についてつぎのように高く評価している。
『この大空中戦に参加した当飛行隊員のなかでも戦闘経験の深いパイロットの意見では、ここで遭遇した日本軍パイロットは、東京方面で出遭ったものより遥かに優れていた。彼らは巧みに飛行機を操り、甚だしく攻撃的であり、良好な組織性と紀律と空中戦技を誇示していた。彼らの空戦技法はアメリカ海軍のそれとそっくりだった。この部隊は、戦闘飛行の訓練と経験をよく積んでいると窺えた』

 さて当日、19日の晩、宿舎にいた田村は「タムタム!」と杉田に大声で呼び出される。空戦のときに、杉田から離れてしまったので怒られるのかなと覚悟していくと、「タム、よくやった!」と煙草(光)をもらう。おそらく杉田の頭にあったのは、自分の初陣だろう。B-17を体当たりで墜としたものの飛行機を壊してしまい、怒られるものとビクビクして報告した時に、司令から褒められて一升瓶をもらったというエピソードだ。

 空戦の翌日、杉田は行きつけのいっぱい飲み屋『のんべい』に区隊の列機3人を連れていく。『のんべい』は、道後松ケ枝町の坂を降ったつきあたりにある。そこでは田村氏へと真逆の対応を笠井氏にする。
「こら笠井。昨日はなんだ。そんなに戦争が怖いんだったら、もう俺の列機から外す。空戦を腹痛で休むような卑怯者は搭乗員をやめろ!」と怒りつける。笠井氏は、わんわん泣いてあやまったという。腹痛で休んでいた予科連の教員室には出撃命令は伝わらなかったことを杉田も知っていた。そんなことは関係なく、空戦に参加したかしないかだけで真っ向から怒られたのだ。しかし、反面、杉田も笠井氏に大きな期待をかけていたし、残念な思いは笠井氏と同じだった。田村氏も宮沢氏も編隊全員が同じ思いであり、しこりを残さないで始末をつけた杉田流のやりかただったのだろう。笠井氏は、戦後も参加できなかった悔しい思いを引きずってはいたが、杉田におもいきり怒られたという決着をつけることができた。

 3月24日、連合艦隊司令長官から感状が授与される。
 「昭和20年3月19日、敵機動部隊艦上機ノ主力ヲモッテ内海西部方面ニ来襲スルヤ松山基地ニ邀撃シ、機略ニ富ム戦闘指導ト尖鋭果敢ナル戦闘実施トニヨリ、タチマチニシテ敵機六十余機ヲ撃墜シ全軍ノ士気ヲ昂揚セルハ、ソノ功顕著ナリ。ヨッテ、ココニ感状ヲ授与ス。」 

 大戦末期、アメリカ軍機動部隊を震撼させた大空戦であった。 



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