見出し画像

杉田庄一ノート75 昭和20年3月19日、『九州沖航空戦』、三四三空出動その1

 1月から2月にかけてアメリカ軍機を想定した訓練にあけくれた343空であるが、この間、アメリカ軍(連合国軍)もじりじりと本土に近づいていた。343空には剣部隊という命名がなされた。編隊でのフォーメーションを敵が本土に来る前に仕上げるには4月いっぱいまではかかる。それまで待てないだろう、アメリカ軍の侵攻は予想以上に早い。各戦闘隊は訓練のピッチをあげていた。

 1月9日、連合国軍はフィリピンのルソン島に上陸する。ヨーロッパでも連合国軍がドイツを追い詰め、ヒトラーはベルリンの総統地下壕から指揮をとるようになっていった。2月4日はヤルタ会談が開かれ、連合国の首脳たちは対日本戦の詰めだけでなく戦後処理についても話し合いをはじめていた。2月16日には硫黄島の戦いが始まる。当初は台湾から日本への侵攻が考えられていたが、これまでの南方やフィリピンでの日本軍との戦闘経験から、降伏しない相手との戦いでは犠牲が多くなることが予想され、島嶼伝いに日本本土を目指すよう変更された。もし、硫黄島が落ちるとサイパンから飛び立っていたB-29の中継基地になり、日本本土全てが爆撃を受ける対象となる。硫黄島は激しく抵抗していたが、いつまでねばれるかという状態だった。あらためて制空権の奪取が使命の343空の役目が重要になってきた。

 硫黄島の攻防が始まった2月16日、牽制のためもあったと思われるがアメリカ軍の機動部隊艦載機による最初の本土空襲が関東や東海地方であった。25日にも再び関東地区を襲った。その後はしばらく鳴りを潜めるが次の作戦準備に入っていた。次のターゲットは、瀬戸内海西部や九州地方一帯が予想され、各部隊は警戒を強めていた。

 3月13日早朝、343空に警戒警報が発令される。この日の当直飛行隊の戦闘407隊は、林隊長の指揮下40機で上空哨戒を行う。ところが、編隊飛行中に同じく警戒態勢に入っていた戦艦大和を含む連合艦隊から高射砲による誤射を受けた。編隊の周囲に高角砲弾が作炸裂するが、幸い林隊長機は砲弾破片による損害だけで済んだ。そのころ瀬戸内海柱島泊地で連合艦隊は出撃待機をしていた。アメリカの機動部隊が本土近くに接近しているが、すでに攻撃に出る燃料はなかったのだ。また、日本軍機が大量に編隊飛行していることも珍しかったこともあった。

 3月17日、硫黄島守備隊が玉砕する。5日間で制圧する予定だったアメリカ軍は、栗林忠道中将指揮下の硫黄島守備隊の激しい抵抗にあい、1ヶ月かかってようやく制圧する。この硫黄島の戦いで日本軍は19,900名の戦死者および行方不明者を出す。アメリカ軍も戦死者6,821名、戦傷者21,865名を出し、太平洋戦争最大の激戦となった。硫黄島が落ちると同時に343空も厳戒態勢に入った。いよいよアメリカ軍の機動部隊が襲ってくることが確実になったのだ。

 3月18日。アメリカ軍機動部隊が日本近海までせまり九州南部の航空基地群を空襲した。まずは、基地航空隊を叩き制空権を得ようという戦略だった。この日は鴛淵大尉を総指揮官として三飛行隊72機が出動する。杉田区隊も「ニッコリ笑えば必ず墜とす」と刺繍の入ったそろいの紫マフラーをして出撃する。一番機杉田上飛曹、二番機笠井上飛曹、三番機宮沢二飛曹、四番機田村飛長という搭乗割だった。『紫電』および『紫電改』の大編隊での出動は壮観であったが、会敵できずに終わった。しかし、これまでのアメリカ軍の攻撃パターンから一両日中に再び来襲することが予想され、臨戦体制が続いた。「本日、巡検なし。明日の食事、戦闘配食」という伝達があり隊全体は緊張のまま夜を迎えた。

  3月19日午前0時過ぎ、まずは仮眠明けの整備員が列線に並ぶ担当の機の整備を始める。1機につく整備員は最低6名。松根油をまぜたガソリンを満タンにし、酸素瓶2本をセットする。20ミリ銃4挺の給弾ベルトに200発ずつ装弾する。弾丸は徹甲弾、炸裂弾、焼夷弾の3種で、組み合わせは搭乗員の好みに合わせてセットされた。希望が多かったのは炸裂弾、焼夷弾だったという。風防のガラスを拭いて機体の整備が完了する。 灯火管制下、懐中電灯の明かりで最後の点検にあたる。

 夜明け前、アメリカの機動部隊の航空母艦9隻からに艦上戦闘機と艦上爆撃機が出撃した。日の出の太陽をともに日本本土に向う。第一機動群の目標は、呉軍港と停泊している艦艇、および周辺飛行場である。第二機動群の目標は、神戸港と鳴尾や伊丹など阪神一帯の飛行であった。呉軍港、柱島泊地には戦艦『大和』『榛名』、空母『天城』『龍鳳』『海鷹』、軽巡洋艦『大淀』が停泊していた。

 松山基地では徹夜で幹部職員は警戒をし、入電する情報をもとに分析をすすめていた。午前4時、偵察第4隊員は搭乗員整列をして橋本敏男隊長の指示を受ける。橋本隊長は幹部職員として徹夜明けだった。敵艦上機群の発見という命令を受け、『彩雲』のエンジンが一斉に始動し、爆音と振動が基地全体を包む。同時刻、戦闘機搭乗員に起床命令が下される。午前5時、「搭乗員整列」が告げられる。各飛行隊の搭乗員は救命胴衣を身につけ、皮の飛行帽をかぶり、黒革の半長靴を履き、襟には絹のマフラーを巻いて戦闘指揮所前に整列する。源田司令が指揮所に立って檄を飛ばした。

「今朝、敵機動部隊の来襲は必至である。わが剣部隊は、この敵機をむかえ撃って痛撃を与える考えである。目標は敵戦闘機隊だ。爆撃機には目もくれるな。一機でも多くの敵戦闘機を射落とすように心掛けよ」

 爆撃機の撃墜に追われていた本土防空戦とは異なる訓示であるが、対戦闘機を目的として設立した戦闘部隊であり、そこに集中させることで突破口を開こうという戦略であった。司令の訓示のあと、副長や飛行長から指示があり、その後は列線の搭乗機で待機となる。午前5時45分、偵4の『彩雲』3機が、南の空に飛び立つ。

 そのあと、上空哨戒任務のために7機の『紫電』が飛び立つ。山田良市大尉指揮の701隊の3機と市村五郎大尉指揮の407隊の4機である。全機発進するまで、基地の上空哨戒任務にあたる。

 午前6時50分、偵4の1機から緊急電が入る。
 「敵機動部隊見ゆ、室戸岬の南30浬」
 すぐに命令が下った。
 「敵大編隊、四国南岸を北上中」
 足摺岬の電探(レーダー)や他の偵察機からも情報が入る。
 敵との距離は約80浬、源田司令は「全機発進」の命令を下し、Z旗をマストにあげさせた。(Z旗掲揚は、日本海海戦にちなんだ『皇国ノ興廃此ノ一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ』という意味の伝統の命令)

 戦闘701飛行隊の16機、戦闘407飛行隊の17機がまず飛び立った。最後に戦闘301飛行隊が飛び立つ。最後の一機が飛び立ってからしばらくした7時10分ごろ、「上空に大編隊」と報告があり、数10機の敵編隊が呉方向に飛んでいくのが目撃される。鴛淵大尉からも報告が入る。「鴛淵一番、鴛淵一番、敵編隊飛行場上空、高度4000」・・・グラマンF6Fが30機ほど攻撃隊本体の先陣として到着していた。高度3000メートル付近で空中戦が始まる。地上からも、戦闘の様子や撃墜された飛行機が錐揉みになっていく様子を見ることができた。翼端をみると角ばったグラマンが落ちていくのがわかる。堕ちていくのがほとんどグラマンであり、地上では大喝采であった。

 杉田区隊四番機だった田村恒春氏が『三四三空隊誌』にこの時の様子を書いている。
 「三月十九日。搭乗員起こしと共に飛行服に身を固め杉田区隊の『ニッコリ笑えば必ず墜とす』の紫のマフラーを襟元に締め、隊舎を出ると、暗い中轟々とエンジンの試運転の爆音が聞こえてくる。整備員の方々の御苦労に感謝しながら飛行場に走る。搭乗員全員集合がかかり、源田司令の訓示、続いて志賀飛行長の敵情報告があり、我が三〇一飛行隊は剛勇菅野隊長の指示、注意を受け機上待機のため海岸線に列線を引いた、搭乗機に向う。私の搭乗機は「A-一三」号機であった。
 本日の登場割は一番機ベテラン杉田庄一上飛曹、二番機横島敏上飛曹、三番機宮澤豊美二飛曹、四番機田村恒春飛長でした。何時もは二番機に、私が信頼し親しみを持っている次兄のような笠井智一上飛曹なのにと、残念だと思う気持を胸に機に乗り込む。発進態勢をとり機上待機する。十分くらいたった頃突然レシーバーに英語がペラペラ入ってくる。水晶発振器を盗まれたのか、周波数が同じなのに驚くと共に、敵さん来たなあコンチキショウと気合が入る。数分後前期発進の命令が飛び込んでくる。」

  横島上飛曹は、2月に 343空に編入された『紫電』隊の戦闘402から転じたばかりで、田村氏はまだ一緒に飛んだことがなかった。田村氏も館山の252空から343空に転勤してきたのが12月下旬で、すでに横須賀で『紫電』や『紫電改』の慣熟訓練を受けていた同僚・先輩から遅れてのスタートだったので、2月下旬ごろ初めて区隊編成が発表されたとき杉田上飛曹の区隊四番機に指名されて驚いた。杉田の名前は撃墜王として知れ渡っていたからだ。以来、杉田、笠井の両先輩から編隊訓練の指導を受けてきており、ふだんから兄のように慕っていた二番機笠井上飛曹と組んで呼吸が合っていただけに、せっかくの初陣に笠井がいなかったことを非常に残念と思ったのだ。田村氏の記述を続ける。

 「早くも七〇一飛行隊が離陸開始。続いて四〇七飛行隊、我が三〇一飛行隊が最後である。
 もうもうと上がる砂煙りの中離陸位置に着くと同時に、菅野隊長を先頭に杉田区隊、柴田区隊が一斉にスロットルレバーを入れ、一糸乱れぬ編隊離陸を敢行する。脚を収めながら今日こそは大空で死ぬんだと決意する。(三〇一飛行隊の機数は五区隊から六区隊二十数機と記憶する)
 編隊は海に向かって飛び上がりそのまま高度をグングンとって行く、ベテラン一番機杉田上飛曹が時々列機を振り返ってくれる。心強い思い。高度七百米ー八百米くらいで右旋回しながらさらに高度をとって行く。間もなく高度三千米くらいになった頃、菅野隊長の敵大編隊発見の落ち着いた声がレシーバーに入る。隊長機を見ると敵機の方向に機首を向けバンクを降り、二十粍の試射をしながら敵機の位置を知らせてくれる。まだ敵機影は小さい。我が一番機杉田兵曹が手信号で「カウルフラップ全開」、「OPL点灯」、「空戦フラップ切替え」、「二十粍の試射」を指示してくれる。四機一斉にスロットルの発射レバーを握る。銃口覆の布を破って弾丸がダダーと飛び出す。高度四千米をこえる。私は最初敵機発見の時、先にあがた七〇一飛行隊、四〇七飛行隊の味方機ではないかと半信半疑な気持であったが、そんな気持も一瞬にして吹飛んだ。視界に入る敵機の数が余りに多く(二百機から三百五十機)蜂の大群の形容がぴったりだったからです。高度五千米をこえる敵機は呉の方向に飛んでいく。
 隊長機が敵機(四千米)を追いながら左旋回をする。高度五千五百米になったと思ったら隊長機が急降下して行く。我が一番機杉田兵曹が「ハナレルナ、ツイテコイ」の手信号を送ってくる。風防越しに左手を上げ答える。隊長機が四千米くらいで五百米くらい下のグラマン艦爆かアヴェンジャかわからないが護衛している二十機から三十機のグラマンF6Fに向かっていく。敵機との距離が五百米、三百米、二百米と詰まって行く。敵機も編隊を崩さずまだ飛んでいる。距離が百五十米、百米に近づく。青色の機体に白い星のマークが見える。さらに近づく。「OPL」から敵機がはみ出し一部しか見えない。敵機が気付き反撃態勢に移る瞬間、菅野隊長を先頭に編隊を組んだまま突撃開始。距離が五十米ー二十米、敵の搭乗員の白いマフラーが風防越しに見える。スロットルレバーの発射把手を握る。ダダーと二十粍四門が火を吐くと同時にF6Fの右翼が眼前で吹飛ぶ。」

 その頃、笠井氏はそのような動きを知らず、朝から激しい下痢で予科練教官室で寝ていた。343航空隊のある松山海軍航空基地のすぐ北側に松山海軍航空隊があり、昭和18年入隊の予科練甲飛第13期と14期の一部が訓練を行なっていた。航空搭乗員の急速な拡大が必要になり、2万人に増員されたため松山にもその一部が入っていたのだ。笠井氏はまだまだ若手の甲飛10期であるが、杉田の下で激戦を戦ってきておりすでに区隊長候補になっていた。松山の予科練では教員が不足しており、若手でも実力のある笠井氏は臨時教員の兼務命令を受け、日中は杉田区隊として編隊空戦の訓練を行い、訓練後は予科練宿舎に戻り教員として日常生活を送っていたのだ。

 その日の朝、敵機来襲の報に「これはいかん!」と飛び起きて飛行場まで走ったが、すでにグラマンが基地上空に達しており、地上掃射を行なっていた。地上にはおとりの木製『紫電改』が置いてあったが、ロケット弾と機銃で掃射されていた。本物の『紫電改』はすべて上空に上がっていて乗ることができなかった。せっかくこれまで数ヶ月かけて編隊空戦の訓練をしてきたのに本番に参加できなかった。笠井氏は一生の不覚と残念がる。杉田も猛烈に悔しかったのだろう。翌日、杉田は怒りをぶつけ、笠井氏がわんわん泣くというエピソードがあるが、詳細は後日。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?