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杉田庄一ノート24:宮崎勇さんの記録その5<苦戦の中の零戦>〜「還って来た紫電改」(宮崎勇・鴻農周策)

 杉田庄一は編隊空戦に徹底的にこだわって区隊訓練を重ねていたことが343空時代の列機であった笠井さん(二番機)や田村さん(四番機)が証言している。また、大村航空隊で教員をしていたとき、練習生に対して坂井三郎さんが空戦の講話ばかりしているのに対し、自分は実際に空中に上がらせての編隊訓練を重ね、訓練方法に確執があったという話もある。1機対1機の格闘戦から編隊空戦に変わったことを杉田は戦いの場から学んでいた。

 日中戦争から太平洋戦争の前半を戦い抜いたベテラン搭乗員は、空戦の技法を極めて生き延びて来た者が多い。零戦は搭乗員の思がままに飛べる操縦性の良さがあり、それがまた格闘戦の技法を磨く搭乗員とよくマッチしていた。しかし、それは1000馬力エンジンの時代までであった。1940年からの欧州航空戦によって個人技による敵をかわして後ろにつく格闘戦からスピード重視の編隊空戦に変わっていったのだ。飛行機のスピードも600km/h以上、急降下時は700km/h近くまで速くなりプロペラ機の限界に近くなる。零戦ではそのスピードは出せない。少しでも軽くして操縦性を高めるために骨組みにあたるパーツには強度ギリギリまで穴が穿たれていた。そのスピードに機体が耐えられなく空中分解してしまうのだ。日本海軍では、零戦に変わる次期戦闘機が遅れ零戦で戦い続けなければならなかった。グラマンF4Fやバッファローなどの同時代戦闘機と戦っているときは圧倒的に強かった零戦もグラマンF6FやF4Uコルセアなど次代の戦闘機とは速度や高度ではかなわなくなるが、そのような時にようやく紫電改が登場する。無骨で大型の紫電改に対して、「ようやくグラマンと戦える」と喜んだ搭乗員と「こんな小回りの効かない大型の戦闘機では戦えない」と思った搭乗員と二通りの思いがあった(紫電改には自動空戦フラップがあり、実は思った以上に小回りが効いたそうである)。後者の意見の代表が坂井三郎さんであった。紫電改では零戦のような「ひねり込み」ができないというのがその理由である。

 ラバウルではB24やB17などの大型爆撃機との戦いを零戦は強いられた。大型爆撃機が編隊飛行してくると死角のない機銃群をかいくぐって近づかねばならない。対戦闘機のような格闘戦の技能は通用しなくなる。スピードの劣る零戦は、なんとか優位な高度から降下することで速度をつけて一撃離脱で攻撃した。それが前上方からの垂直攻撃であるが、杉田はこの練習中にB17と遭遇し、ぶつかるまで接近して初陣の戦果をあげることになる。「垂直攻撃法」については別にまた項をおこすことにする。

 また、それまで3機で編隊を組んでいた日本海軍もアメリカ軍のような4機編隊に変更する。その4機編隊をいち早く横須賀航空隊での練習生時代に宮崎さんは学んでいた。また、その練習をつんでいたからこそ前線の252空に派遣されたと宮崎さんは考えていた。252空は4機での編隊空戦に切り替えるがなかなかうまく行かなかった。宮崎さんは零戦の限界と空戦の変化について、『還って来た紫電改』の中で次のように記している。

 「米軍のF4F戦閟機が編隊空戦で向かってくると、零戦はしばしば苦戦に追い込 まれた。『編隊空戦』は、ニ五ニ空が特訓を重ねたうえでラバウルに派遣されてきたはずだったのではあるが、実戦ではなかなか、それを生かせない。
 『ニ機の単位(ペア)を崩すな』と注意されて出撃するものの、実際の戦闕では、ともするとバラバラに動いてしまう。
 というのも、空戦で全体のぺースを決めるのは、やはり支那事変以来のベテラン搭乗員である。歴戦の勇士が、自分の経験を生かして単機で格闘戦をして、敵を擊墜しようとする傾向が出てしまうのである。
 海軍航空隊の得意技だった『ひねりこみ』という技術も、場面によっては、空戦の障害になったのではないだろうか。これは、宙返りをする途中で機体をひねって、グル—ッとまわるべき円形を途中でカットするような形で敵機のうしろから切りこんでゆく戦法である。
 このワザは、 ひところ、大きな威力を発
したので、その訓練を徹底的にやった。それが体にしみこんでいるから、『ひねりこみ』をやる単機単位の攻擊になってしまう。
 戦闘機乗りの『気性』というか、独立心の強い、いわば一匹オオカミかたぎの戦闊機乗りが、当時はとくに多かった。それが『個人技』につながり、チームプレ—にはなじまないという傾向にもなったと思う。」

 「ひねりこみ」とは空中戦の戦法の一つで、宙返りの頂点あたりでスロットルを絞りエンジン回転を落として失速状態を作り、横滑りから斜め旋回をして反航状態にする技術である。日中戦争時から操縦性の良い96艦や零戦などの戦闘機で技術を磨いた日本の搭乗員が得意としたが、職人技のようにそのワザは先輩から教えられることはなく、見て盗むものと言われていた。剣豪の時代を意識していたのかもしれない。しかし、総力戦の空中戦では、それでは通じない。

 『空戦に青春を賭けた男たち』(野村亮介ほか、光人社)の中に記載されている柴田武雄元海軍大佐の『私が編み出した必墜「旋転戦法」事始め』という文がある。柴田さんによると「旋転戦法」(ロール戦法)と「ひねり」(ひねりこみ)の二つの空中戦の戦法が「支那事変」(日中戦争)の実戦の場で生み出されたのだという。このうち「旋転戦法」は柴田さんが昭和11年頃に先輩の秘術(おそらくひねり)を研究しているときに思いついたとしている。クイックロールからの失速を利用する旋回法で身につけるのは容易で、これを「改正・空中戦闘教範草案」におりこみ普及を図ったという。「ひねり」は、昭和4年に小林己代次元大尉(操練九期)が十式艦戦で天覧での空戦訓練時に宙返り頂点で失速をしてきりもみ状態から立て直したときに偶然できてしまったのだという。しかも映画撮影されていた。その後、練習を重ねてワザとしてできるようにする。実際の日中戦争での空中戦でこのワザを使う搭乗員が「ひねり」という呼称を使い出したのだという。この二つの詳細な違いを柴田元大佐は対照表にしている。そして、坂井三郎さんの『大空のサムライ』で零戦の「左ひねりこみ」は有名になった。プロペラ回転の方向が影響して、左へのひねり込みが強力に回り込めるのだそうだ。ベテランになるとひねり込みのタイミングが神業のように調整され、またそれがベテランの証のようになっていたという。

 元零戦搭乗員池田一彦さん(予備学生)が2015年の7月にインタビューに応えてひねりこみを説明するシーンがYouTubeに載せられている。
 「海軍独特の空戦の仕方があってね、ひねりこみっていうんだ。こういってね(手に持ったモデル機を急上昇させる)、ここで(逆さまになったところで)エンジンをしぼるんだ。そして、おもいっきり左脚を踏んで、方向舵、操縦桿を斜め後ろに引く、そうするとツーッとスピードが落ちて、今度は反対に踏み込むと敵の後ろにつくんだ。そういうのをひねりこみって言うんだ。ひねりこみの練習ばかりずっとやっていた。そのひねりこみもね、ラバウル帰ってきた連中、下士官なんかとやると必ず負けるんだ。微妙な何分の一かのタイミングでエンジンを緩めるとか操縦桿を動かすのが違うんだな。

 さて、杉田が「ひねり込み」をどこで会得したのかの記述はいろいろ資料を探すが出てこない。しかし、杉田が教える「ひねりこみは」が分かりやすくすぐに会得できたという。杉田は、昭和17年12月の初空中戦から翌年1月にかけて連日の空戦で協同撃墜を重ね、2月になると単独撃墜を伸ばすようになる。当時は3機編隊での空戦で、第一撃は協同で敵に向かうがその後は個別空戦に入っていった。この時期、実戦の中で個人空戦のワザを身につけたようだ。昭和19年、大分空で教員として指導していたとき、同じく教員だった坂井三郎さんが自分の空戦の話を延々とするのに対し、自らが模範飛行を行って無駄な説明はせず、練習生に実際に飛行させながら指導を行なったので練習生は「ひねりこみ」もすぐに覚えられたという。

 ところで、杉田が本領を発揮するのは編隊空戦技法である。その頃アメリカ軍が取り入れていた「サッチ・ウィーブ」という空戦技術への対処法を実戦の中で研究していた。空戦のあと、基地に戻ると必ず列機と反省会をおこなっていたという。杉田は、「サッチ・ウィーブ」をエンドレス戦法と呼んで、1機を追っているともう1機が必ず現れることを指摘しいる。「サッチ・ウィーブ」はジョン・S・サッチ海軍少佐が編み出した空戦法で、2機を単位(エレメント)として機織り(ウィーブ)のようにお互いがS字を描くように旋回を繰り返す。それまでの隊長機を列機が支援するのではなく、お互いが支援し合う方法で効率的な防御と攻撃が可能になる戦法である。1機を追い詰めたと思ったとたんにもう一機に撃ち落とされる日本機が続出し、杉田は列機に十分に警戒するよう指導していた。杉田は優位な高度を常にとるようにしていたが、敵が優位な高度のときには急降下で引き離し、低高度で垂直の格闘戦に持ち込むような戦法をとった。常に高速で戦いをすませ、いち早く離脱する。一撃離脱を編隊で徹底的に訓練したという。他の区隊よりも編隊空戦を徹底的に練習したと笠井さんや田村さんは述べている。また、普段は絶対に怒ることのない杉田であったが笠井さんが編隊を離れて個人撃墜したとき、本気で怒られたと述懐している。笠井さんは、自分が生き残れたのは杉田による徹底的な編隊空戦の訓練のおかげだとも話している。


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