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杉田庄一ノート63 昭和19年マリアナ沖海戦

 昭和19年6月11日、アメリカ海軍の機動部隊艦載機がサイパン・テニアン島への空襲を開始する。連合国軍はビアク方面での戦いを継続せず、ここでも日本側の予想をこえ、いきなりサイパン島へ上陸するための準備攻撃であった。日本軍連合艦隊は、『第三次渾作戦』を中止して艦隊をヤップに戻し、6月13日に『あ号作戦』を発令する。6月15日にはアメリカ海兵1師団と歩兵3師団が上陸を開始する。日本軍側は守備隊約2万9千名で迎え撃ち、水際での壮絶な戦いが繰り広げられる。

 サイパン島は東京から南南東2400km離れた北緯16度、東経145度の地点でマリアナ諸島のなかでグアム島についで大きい島である。南北23.2km、東西10.4kmで島の中央にタポーチョ山(標高490m)がある。海辺の東側は砂浜と一部断崖、西側は珊瑚礁にかこまれたジャングルになっており、南側にアスリート飛行場がある北側は断崖でバナデル第二飛行場が設営中であった。南洋興発株式会社が広く甘薯畑をつくっていて精糖工場もあった。また南洋庁もおかれており、民間人とチャモロ族で2万人くらいが生活していた。日本軍は、陸軍の守備隊が第43師団を主とした3個連隊、独立混成第47旅団、戦車第9連隊、独立山砲第3連隊、独立工兵第7連隊で約2万5千名が配備されていた。海軍は中部太平洋方面艦隊司令部、第6艦隊司令部、第5根拠部地隊、第55警備隊、横須賀第一特別陸戦隊の約6千名が駐留していた。司令部員等をのぞき守備隊として布陣したのは陸海合わせて約2万9千名となる。

 サイパン島での戦いが始まると同時にアメリカ機動部隊と日本連合艦隊とのマリアナ沖海戦(日本軍側の作戦名は『あ号作戦』)が始まる。『あ号作戦』は、「アメリカ軍機動部隊を日本海軍機動部隊および基地航空隊をもって殲滅する」という作戦である。アメリカ軍機の航続距離のとどかない遠方から、長距離飛行が可能な日本軍機で攻撃をかけようという作戦(アウトレンジ作戦)である。しかし、この年の3月31日に古賀連合艦隊司令長官の乗った二式大型飛行艇が台風で遭難し、機密文書がアメリカ軍の手に渡ってしまう(海軍乙事件)。この機密文書の中に『あ号作戦』のもとになった『新Z号作戦』があったのだ。アメリカ軍は暗号を解読し、『あ号作戦』の大筋はすでに承知していた。

 『あ号作戦』とか『渾作戦』とか『新Z号作戦』とか、日本軍の作戦名に統一性がなく、『あ号作戦』も時代を違えて二つあって混乱するが、あえてこのような作戦名をつけていたと言われている。統一性をもつことによって意味が生ずるのを避けるためである。

 6月15日、連合艦隊が出動する。布陣は、囮となる戦艦群と主力空母群の二段構えで、アメリカ軍艦載機の航続距離外から航続距離の長い日本軍機で攻撃をしかける計画である。アメリカ軍は日本軍の出動情報をつかみ追尾していた。囮部隊は、戦艦4隻(大和、武蔵、金剛、榛名)と軽空母3隻(千歳、千代田、瑞鳳)である。その後ろ100浬に大型空母3隻(大鳳、翔鶴、瑞鶴)と小中型空母3隻(隼鷹、飛鷹、龍鳳)の主力部隊が控えていた。艦載機だけで450機をそろえ、基地航空隊はマリアナ、西カロリン、パラオ、ダバオに650機を用意していた。しかし、これは作戦上の数値データだけで、艦載機の搭乗員は発着艦がやっと可能な程度の訓練しか終えていない未熟者ばかりだった。また、基地航空隊は『あ号作戦』前の航空戦で消耗していたこととマラリアやデング熱で搭乗員が動けなかったことで、実際にアメリカ軍がサイパン島に上陸した時、アスリート飛行場に駐留していたのは261航空隊(虎)、343航空隊(隼)、523航空隊(鷹)、1021 航空隊(鳩)で約100機であった。

 ちなみに基地航空隊として再編成した第一航空艦隊(一航艦)第六十一航空戦隊は、当時、マリアナ地区基地全域で定数750機、実動370機という記録がある。サイパン島の100機以外にテニアン、ロタ、グアム島に121航空隊(雉)、263航空隊(豹)、521航空隊(鵬)、761航空隊(龍)、321航空隊(鵄)、341航空隊(獅子)で合計270機だ。

 日本軍の基地航空隊は、残存戦力を集めてアメリカ艦隊に対する反撃を15日以降、連日実施していた。6月17日、263航空隊もサイパン島のアメリカ軍上陸部隊への攻撃に参加する。午前11時にガドプス飛行場から発進、ペリリュー島上空で編隊を組み、ヤップ島経由でサイパンに向かう。このとき様子を、笠井智一氏は『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)の中で次のように記述している。

 「ヤップ島から三時間ほど飛行し、眼前のサイパン島がいよいよ近づいてくると、指揮官機の胴体下から増槽が落とされ、それを見た全機が一斉に増槽を投下した。通常は空になっても増槽をつけたまま飛行するが、つけたままだと風圧が変化するので、どうしても飛行機の動きが鈍くなる。だから戦闘になれば増槽を落とすのだ。
 大きな編隊を組んで長距離攻撃に出た人にしかわからないと思うが、敵に襲いかかる前に編隊が一斉に増槽を落とし、その何十という数の増槽がくるくる周りながら落ちていく様を見ながらカウルフラップを全開にし、速力を上げていくといつも鳥肌が立った。私も落下索を引くとコトンと音がして増槽が落ちていった。敵機の見張のため首を四周にめぐらす。極度に緊張して失禁した。敵がいつ襲ってくるがわからないから下を向く暇はない。最初は生暖かい感触が太ももあたりにじわりと広がったが、高度四千メートルではあっという間に冷えた。
 サイパンにいよいよ接近すると、テニアン島との間の狭い海峡に、三日前に上陸作戦を開始した敵の上陸用舟艇がびっしりと集結しているのが眼下に見えた。ものすごい数で海が真っ黒に見えるほどだった。
 敵集団の上空に辿り着いたときは、たまたま敵戦闘機はいなかったが、敵艦戦からは対空砲火が猛烈に撃ち上がってきた。爆撃を敢行する飛行機を援護しながら一緒に降下し、降下後は私も舟艇に向かって無我夢中で機銃掃射を行なった。
 十五分、あるいはもっと短い間だったかもしれないが、弾を撃ち尽くして上昇のためにいったん後ろを向くと、突然、後上方からグラマンが私の零戦に軸線を合わせたまま急降下してきた。敵機は直前まで機銃を撃たなかったので、私はまったく気がついていなかった。『しまった!』と思ったが、瞬間的に操縦桿を左に一杯倒し、左足でフットバーをガタンと蹴とばして垂直旋回、敵の弾を逸らしながらなんとかその場を退避した。敵舟艇への機銃掃射にばかり気を取られて後方への注意を怠っていたら、あのとき私はグラマンに撃墜されていたかもしれない。」 

 その後、笠井氏はチャートを見ながら不安の中を単独飛行し、なんとかグアム島に帰ることができた。

 6月18日、日本の機動部隊は40機以上で索敵を行い、昼過ぎにアメリカの機動部隊を発見する。すかさず空母から攻撃隊が発進するが、このままだと帰艦は日没をすぎることから攻撃を中止し、すぐに戻るように攻撃命令を撤回する。攻撃隊は爆弾を捨てて帰艦したが、夕闇の中、搭乗員の未熟練のため満足に着艦出来ず、数機が事故で失われる。搭乗員の練度の足りなさと、アウトレンジからの攻撃という司令部の発想の「詰めの甘さ」が露呈することになる。アウトレンジ戦術は小澤治三郎司令長官が戦前から研究していた戦法であり優れたものであった。しかし、その意を組んで動かす現場の力がすでになかったことを司令部がどの程度把握していたか、・・・諸説ある。
 一方、日本艦隊を追っていたアメリカの潜水艦は、日本の機動部隊を見失ってしまう。

 6月19日、日本艦隊を見失ったアメリカ機動艦隊はグアム島の日本軍基地航空隊の殲滅を先に進める。そのとき、ヤップ島から移動してきた日本の基地航空部隊がグアム島に集結していた。午前8時30分ころからの激しい空中戦の末、グアム上空の制空権はアメリカ軍が掌握した。 
 日本の機動部隊も早朝7時半からからアメリカ機動部隊にむけてそれぞれの母艦航空隊を発進させる。洋上を2時間から3時間くらいかけて各隊はアメリカ艦隊へ到達、攻撃を開始する。ところが、アメリカ軍は新兵器レーダーで日本軍艦載機の動きを察知していた。また、レーダーで得た情報を分析し戦況判断を行うCIC(戦闘指揮所:Combat Information Center)が、どの空母にも備わっていた。このCICのシステムは現代でも戦闘で最も重要な位置をしめるが、マリアナ沖海戦で初めて始められたのだ。CICの指示によりアメリカ軍艦載機が待ち構えていた。しかも、アメリカ軍はこのときVT信管という新兵器も装備していた。このVT信管は、電波を発信しドップラー効果を判断して命中しなくても標的近くで爆発するしくみをもっていた。アメリカの艦船から日本機にむけてのVT信管による対空砲火は、著しい効果をあげた。やっとの思いでようやく到達した日本軍機は、バタバタと撃墜されていしまう。のちに『マリアナ沖の七面鳥撃ち』(Great Marianas Turkey Shoot)と名付けられる悲劇となってしまう。
 8時10分、潜水艦アルバコアが空母「大鵬」を発見し、魚雷を一本命中させる。11時20分、潜水艦カヴァラが空母「翔鶴」を発見、魚雷を四本命中させる。「翔鶴」は午後になって沈没する。「大鵬」も損傷を受けていた格納庫に航空燃料が充満し、攻撃機帰還の際の火花で引火、大爆発をおこして沈没する。

 6月20日、日本機動部隊は朝から索敵を開始するがアメリカ機動部隊を発見できず、13時30分の敵機来襲の警報で撤退を開始する。このとき補給艦や護衛駆逐艦などに通知をせずに置き去りにする。15時40分になってようやくアメリカ機動部隊は日本軍機動部隊を発見する。アメリカ軍では帰艦が夜になるのを承知の上で216機の攻撃隊を発進させる。6月18日の日本軍機が引き返したのと真逆である。アメリカ軍艦載機は17時30分に日本艦隊を攻撃し、空母「飛鷹」が沈没。空母「瑞鶴」、「隼鷹」、「千代田」などが損傷した。夜間での帰艦となり、アメリカの攻撃隊は不時着や着艦失敗などで80機が失われた。

 6月21日、『あ号作戦』は中止となる。

 日本軍側の損害は、正規空母3隻沈没、その他多くの艦船が沈没および損傷する。航空機は476機が失われた。航空搭乗員は445名、艦乗組員は3000名以上が戦死等で失われた。アメリカ軍の損害は、艦船の一部が損傷を受けたが沈没はなかった。航空機の撃墜は43機、未帰還および不時着が87機である。航空搭乗員の戦死は76名、艦乗組員の戦死は33名。
 日本の機動部隊は飛行機と搭乗員のほとんどが失われ再起不能となった。基地航空部隊も壊滅した。一方的なアメリカ軍の勝ちであった。以後の日本海軍は戦闘力をほぼ失い、わずかに残った航空機をかき集めて特攻隊を編成することになっていく。

 この間、グアム島基地で杉田や笠井智一氏は連日、同島上空でグラマンとの邀撃線を続けていた。しかし、次第に稼働機は少なくなる。新人の甲飛10期生たちは稼働する零戦をベテランにゆずり、地上待機となる。基地への爆撃で戦死する者も出たが、笠井氏はかろうじて生き延びる。

 6月28日、とうとう稼働機がなくなり、搭乗員だけでも脱出ということになる。輸送のために、サイパン爆撃の後の一式陸上攻撃機が3機強行着陸する。穴だらけになっていたのを急遽整備した滑走路であったため1機は着陸に失敗する。残る2機に5名の生き残り搭乗員が便乗し、ペリリュー島に脱出する。それがグアム島最後の飛行機による脱出だった。

 しかし、杉田はその5名に入っていなかった。グアム基地に残ったのだ。それには理由があった。・・・今回は、ここまで




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