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杉田庄一ノート79 昭和20年「343空国分基地へ移動」

 4月16日、杉田の戦死した翌日、『菊水3号作戦』が発令され、鴛淵大尉の指揮下で戦闘301、戦闘407、戦闘701の3隊36機が喜界島方面に出動する。途中、3機が引き返し33機となる。喜界島上空高度6000mでF6Fの迎撃隊16機と遭遇する。この日は各隊の連携がうまくいかなかった。その上、無線電話も不具合を起こした。一方、アメリカ軍機はすぐさま応援を要請し、すぐに援軍がきた。林隊長機の増槽が落ちず、敵に追いまくられ、編隊の動きがバラバラになり343空は敗北を喫した。F6F撃墜3機に対して343空の損害は自爆未帰還機が9機、不時着1機であった。鴛淵大尉は、帰着後、大地に寝転がって目をつむっていた。鴛淵大尉の隊から6機の損害を出していた。残る3機の損害は林大尉の列機だった。隊長を守ろうとしたのかもしれない。林大尉も愕然としていた。

 前のnoteに書いたが、基地では杉田と宮沢の火葬がされている最中に攻撃を受け、P-51のロケット弾を受けて杉田の遺骸は吹き飛ばされてしまう。343空にとって、最悪な日が続くことになった。

 源田司令は、343空の基地を第一国分飛行場に移すことにする。鹿屋基地は特攻の発進基地で、毎日のように国内から特攻に行く機が参集し、そして、出撃していく、悲しくもあわただしいプラットフォームと化していた。情報の混乱や遅滞が避けられず、ここに常駐することが危険だった。杉田や宮沢がやられたのもそのせいだと源田司令は感じていた。4月17日に国分基地に移動をする。戦闘隊の移動は素早い。身一つで飛行機に乗ってその基地へ降りればそれで終わる。そのあとを整備兵や事務屋さんが追っかけて行くことになる。

 ところでその日(17日)の早朝7:00、移動の前に喜界島上空の啓開作戦も昨日に引き続き行われていた。紫電改全34機が鹿屋基地を発進した直後に笠井上飛曹の乗機がエンジンが止まり、飛行場エンドの小山に激突する。笠井氏は、重傷を負うが生命は取り留めた。足を骨折しており、霧島の海軍療養所で治療を行うことになった。風呂に入って足を揉めと軍医大尉に言われ、旅館の部屋で足を揉んでいると窓の外から国分基地から沖縄に向かう紫電改が見えた。

 国分に移動した二日目の4月18日、基地はB-29の爆撃を受ける。戦闘407隊の列線上に爆弾が落ち、整備兵や工作兵が戦死、重軽傷を負う。菅野大尉は空襲の際に防空壕に入らず、指揮所の椅子に座ってB-29の動きを見ていた。それを見た林大尉も、負けじと同じく椅子に座って上空を見ていた。このB-29は、特攻基地を叩こうというアメリカ軍の作戦行動であり、今後も基地空襲が予想された。343空では、さっそくB-29攻撃対策の研究が行われる。3人の飛行隊長のうち、大型機への攻撃経験があるのは菅野大尉だけである。杉田とともに開発した前上方背面攻撃で大型機を何機も落としている。当然、この攻撃法を主張した。鴛淵大尉も林大尉も、この危険な攻撃法に逡巡する。かつて菅野大尉の攻撃したB-24よりもB-29は性能が向上している。防御力も攻撃力も上回っているはず。結局、結論はでないままに終わった。

 4月20日、B-29が来襲したが1機も落とすことができなかった。『温厚隊長』と部下から慕われ冷静なはずの林大尉が悔しさのあまりか菅野大尉とやりあう。以下は、『最後の撃墜王』(碇義朗、光人社)からの抜粋。
 「もし明日も撃墜できなかったら、俺はもう帰ってこない!」(林)
 「そんなにまでするひつようないじゃないですか。運が悪くて墜とせない時は仕方がない。また次の機会ということもあるでしょう」(菅野)
 「いや、君はそれで気がすむかも知れんが、俺にはどうしても我慢できんのだ。」(林)
 そういって『一機もおとせなければ帰ってこない」と繰り返す林に、菅野もいささかむっとした。
 「林さんがそれほどまでにいわれるなら、そうされたらいいでしょう。その代わり、私も墜とせなかったら帰ってこないことにします・・・・・・

 数日前に菅野は杉田を亡くし、林も自分を守ろうとした列機3人を失っている。やりきれなさを身中におさえていたのだろう。気持ちを表に出さない林だから、よけいに「B-29を墜としてやる」という気持ちを昂らせていた。普段は熱情に走る菅野大尉だが、逆にこのときは冷静になっていた。夜になって林の言動に不安を感じ、志賀飛行長にことの顛末を話に行く。志賀飛行長の報告を受けて、源田司令も林大尉を自室に呼んで考えすぎないように諭した。

 4月21日、早朝からB-29が九州南部に侵入してきた。この日も鴛淵大尉の指揮下で3隊が出動する。林大尉の率いる区隊3機は、国分基地近くでB-29の編隊を発見し、攻撃をしかける。この日、林隊長は列機と離れ1機でB-29の編隊に突っ込んでいき、集中砲火を浴びながらも接近、攻撃し続けて撃墜する。しかし、林の『紫電改』もエンジンに被弾、垂直尾翼の一部は吹っ飛んでいて高度を下げて行く。折口海岸近くの海面に不時着するも、すでに計器盤に頭を突っ込んでいて頭蓋底骨折で死亡していた。

  2〜3日後、この日もB-29が来襲した。菅野大尉指揮下で343空は邀撃にあがる。林大尉への仇討ちのように菅野大尉は編隊突撃でB-29を墜とす。その様子を、林隊長の代わりとして戦闘407隊を率いることになった市村五郎大尉は見ていた。そのときのようすを『343空隊誌』に書いている。

 「菅野指揮官機より攻撃開始の無線電話とともに、『ハヤテ ハヤテ 上空支援に残れ』と、戦闘四〇七に指示があり、ただちに落下増槽を投下、味方編隊の上空をバリカン運動で支援を開始した。
 これと同時に菅野機を先頭に、B-29編隊の直上方から矢のような突撃に入るのが確認されたが、つぎの瞬間B-29の一機がまるで高速度撮影のフィルムをスローで見るように右のエルロンのヒンジが一つはずれて飛び散り、同時にあの大きなB-29がゆるやかに大きなきりもみ状態で落下して行くではないか。本当に二十粍機銃の一撃がこれほど威力のあるものかと確認したことはない。この光景は、三十五年経た今もなお昨日のことのように眼底に焼きついて離れない。」

 高速度で差し違えるような前上方背面攻撃は確実に大型機を堕とすことができるが、だれでもができる技ではない。すれ違い様0.5秒で撃ちながらすり抜けることができなければならない。退避が遅ければ体当たりになるし、早ければ敵に撃たれることになる。戦闘301隊はそれを編隊で行えるところまで練度を上げていた。菅野隊長についていける若手を育てたのは杉田だった。

 宮崎勇氏は『還ってきた紫電改』(宮崎勇、光人社)の中でB-29についての攻撃法について書いている。

「(1)ひとつは、真っ正面のやや上方から突っ込んでいって銃撃し、相手の下へすり抜ける。
 (2)もうひとつは、マーシャル方面で、B17やB25に対してとった方法で、
   ・正面のやや上方から接近して行く
   ・背面(宙返り)になった姿勢で、相手の操縦席を真上から銃撃
   ・最終の射撃角度を六十度にして、自分は相手の機体の脇を下へすり抜ける
 という手順である。手順といっても、相手もこっちも向かいあって飛んですれちがう間だから、それこそ一瞬の勝負だが。
 いずれにせよ、今で言えばウルトラC級の練度が必要とされるむずかしい技である。また、B29がこちらの動きを察知して、機首をヒョイと右か左に振れば、この銃撃はカタスカシをくうわけで、相手がどちらへ旋回しても捕捉できるよう、二機で向かってゆく方法もとった。
 私自身は、自分ひとりでB29を撃墜した記憶はない。それこそ、チームワークで何度もしつこく攻撃しなければ、墜とせる相手ではなかったと思う。
 B29が高高度で侵入してくると、そこまで紫電改が上昇してさらにその上に位置をとるのも、きわめてむずかしいことであった。」

 この(2)の方法が、前上方背面攻撃のことである。文中、宮崎氏はB25と書いているが、これは他の記録からもB24の誤記だと思われる。

 4月18日から5月11日までに、だいたい二日おきに来襲したB29が総計およそ1000機以上に対して、紫電改は延べ120機が出撃、12機を墜としたと宮崎氏は記述している。

 B29の爆撃手ウイルバー・モリス氏の証言(NHK資料)も宮崎氏は紹介している。
「彼らの攻撃は猛烈だった。
 上空から、まっすぐ、われわれに向かって逆落としに突っ込んできた。
 十二機編隊のB29の場合、一機あたり六門、あわせて七十二門の機銃が火を吹く。たちまち『弾の壁』ができてしまうんだが、彼らは、そこを突き抜けて攻撃してきた。
 大変な勇気だ!
 あまりに接近してくるので、搭乗員の顔がはっきり分かったほどだ。
 素直に言うがーーーあんなに勇敢なパイロットはほかにいない。
 彼らは、信じがたい確率に、自分を賭けていた。」

 国分基地に移ったものの連日爆撃を受け、環境は悪化して行った。そこでさらに4月30日には、長崎県の大村航空隊まで迎撃基地を下げた。あいかわらずB29相手の戦いが続けられるが、7月に入ると『紫電改』の補充がうまくいかなくなる。製作していた川西航空機の工場が5月、6月と空襲を受けたのだ。

 その頃、武藤金義少尉が横空から転勤してきた。坂井三郎少尉との交換をようやく横空も受け入れたのだ。源田司令による個人名をあげての異例の人員補充である。『海軍航空隊始末記』(源田實、文春文庫)に経緯が記されている。

 「通常搭乗員の補充について、部隊としては、人数とか練度に関しては希望を述べるが、個人名は中央当局の裁量に依存していた。杉田君の場合、私が特に後任者の個人名まで考えた理由は、菅野直という稀に見る闘魂を持った飛行隊長を、むざむざと殺したくなかったからである。彼は勇猛果敢な攻撃に終始し、戦果もまた大であった。だが彼が充分に働き得るためには、その列機にあってこれを援護するものに優れたパイロットが居なければならない。杉田上飛曹と菅野大尉とは離すべからざるものであったのである。」




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