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「一粒の麥」のころ

 「一粒の麥」というのは、私が学生時代から二十代の終わり頃まで参加していた文藝同人誌である。確か大学の留年が決まって新年度が始まった頃に創刊号を出し、それから八年ばかりの間にようよう十号を刊行した末にお仕舞いになった。同人は私の大学の同級生で現在は文藝評論家となっている小川榮太郎君と、小川君の高校時代からの親友であった慶應大学のS君との三名で、そこに同じ大学の文学部にいた連中や私の悪友である東大文学部の無頼学生たちも折々寄稿していた。

 当時はバブル景気の真っ最中で、文学青年や無頼派学生などというのは全く時代錯誤の絶滅危惧種だったのだが、我々はむしろそれを誇りとし、矜持ともしていた。積極的に時代に背を向けることをダンディズムとして、また倫理として自らに課してもいた。その倫理に従って無論大学には行かず、金もないのに毎夜酒を飲み歩き、夜を徹して野暮な文学談義を真剣に戦わしたりして悦に入っていた。私は仲間には加わらなかったが、東大の諸君は無頼派を気取って新大久保辺りに立ちんぼのロシア女を買いに行ったりもしていて、ボードレールばりの陋巷趣味と頽廃・堕落を実践していたと言えば、この一群の青年の気風をいくらかは感じて貰えるだろうか。何しろ当時の若者風俗といえば、高級ブランド品で身をくまなく飾り、週末は青山や六本木で遊び、恋人の誕生日を高級ホテルの特別ディナーで祝うというのが当たり前の時代だったのだ。

 野暮で時代錯誤と言えば、「一粒の麥」なる同人誌のネーミングも全く野暮で時代錯誤的である。なぜこんな名前にしたのかを私はおぼろげにしか記憶していないのだが、元来は大学二年か三年のある時期に、同じ学部で大江健三郎氏を敬愛していたU君の発案で始めた、西洋思想の古典的文献を輪読する会がその起源であったと思う。小川君と私もその仲間に加わっていた。哲学や思想というものが一向にお歯に合わない点で実に気が合っていた我々が、U君の提案に乗ってそんな勉強会を始めた心境は、今となってはよく分からない。小川君は大江氏を軽蔑していたし、当時の文学部などはバブルにどっぷり浸かったノンポリ学生が圧倒的多数を占め、多少勉強熱心な少数派はことごとく左派寄りの文化リベラルとニューアカデミズムの徒で、U君もその御多分に洩れずニューアカにかぶれた文化リベラルだったのに対し、小川君は当時ほぼ孤島の珍獣と言ってよい保守・伝統主義のウルトラ・ライトだったから、こんな勉強会は最初からうまく行くはずもなかったのである。

 ともあれ、そうした勉強会と並行して、文学徒たる気概を示すべく同人誌を立ち上げようという計画が持ち上がり、誌名を考える段になってU君が提案したのが「一粒の麥」であった。その元になったのはジイドの小説だったかドストエフスキーだったか、いずれにせよU君好みの文化リベラル的な甘いヒューマニズムと、三者共通の古めかしい文学青年的志向が、何となく一致したところに生まれたネーミングであったように思う。

 その後、同人誌創刊に向けて三者が各自論文を書くことになり、私も初めて評論文らしきものを書いた。平和論を批評したもので、人類の平和を保証するものは社会制度や法律ではなく、個人の心の平和を達成することなしに世界平和の実現はないといった、甘く幼稚な、青年らしい理想論を述べたものだったと記憶している。(その原稿はU君に渡したっきりになり、その後すぐに私も忘れてしまったから今は手元にない。)U君や小川君は書いたのか、書かなかったのか、はっきりしないうちにいつの間にか同人誌発刊は沙汰止みとなった。

 西洋思想輪読会は、確かデカルトの『方法序説』から始め、小川君は最初の二、三回に参加していたがすぐに来なくなった。私はさしたる興味もなく、ただ始めたからには続けようというだけの消極的気分から、大学の豊中キャンパスのある待兼山へのちょうど登り口にあった我が四畳半の下宿にU君を迎え、二人きりで輪読を続けた。デカルトの後はカント、プラトン、アリストテレス、マルクスなどを読んだと思う。『資本論』の第一巻を読み終えた辺りで、何となくもうよかろうという話になり、このささやかな西洋思想研究会はお仕舞いになった。今の我が身を省みて、この読書経験を通じて身に染みた養分となったものがあるとはまるで思えない。青年時の義務的な教養主義などというのは所詮そんなものであろう。

 それから二年余りが過ぎ、バブル景気で空前の就職売り手市場を謳歌した同級生らを尻目に、私も小川君もめでたく大学を留年し、上述の如き反時代的気概を身をもって表明した積りであった。そうして、あり余る時間を使っていよいよ文学に全身全霊を注ぐべく、文藝同人誌の立ち上げを小川君が提案した。当時せっせと書き溜めていた詩の発表場所を欲していた私も、一も二もなくこれに賛同した。確か平成三年のことである。誌名をどうするかという話になり、かつて発刊を待たず幻となった「一粒の麥」のネーミングが復活採用されたのだが、どうしてそうなったのか。とにかく書いたものを発表したいという気にばかりはやっていた我々は、雑誌のネーミングになぞほぼ無頓着で、そんなことに考えを労すること自体が面倒だったのではないかと思う。

 その間、同人二人ではいかにも貧相だと思ったか、小川君が年来の親友である東京在住のS君に声をかけ、執筆には無関心ながらも温容で付き合いのいいS君を半ば強引に同人に加え、同人三名で創刊の運びとなった。誌面の大半は小川君の批評文とエッセイが占め、私は自作の詩数編と評論一篇、S君がやはり評論一篇を載せた。それだけでは目次の体裁上あまり景気がかんばしくないので、外部からの寄稿も加えようということになり、私が仲良くしていた同じ学部のT嬢に寄稿を依頼し、詩を一篇寄せてもらった。偉い人の原稿もあると良いだろうということで、私が形式上属していた英文学ゼミの指導教官で、英国詩研究の泰斗だった藤井治彦教授に恐る恐る寄稿を依頼したところ、先生は快諾して下さり、大英文学者福原麟太郎との交遊についての随想を寄せていただいた。

 こうして目次の体裁は一応整い、中身については無論小川君も私も自信満々、これで天下を併呑するかのごとく意気軒昂だったが、雑誌の編集・製作に関しては両人とも全く無知であり、そもそも金がないのだからまともな出版物など作れる道理がない。その製作工程は町内会の会報だってこんな作り方はしないだろうという、恐ろしく素朴、粗雑、野蛮なものだった。原稿をワープロ両面印刷で打ち出したものが「原版」で、これをコピー機でコピーするのが「印刷」工程。表紙はベージュ色の模造紙を折り曲げたもので、本文をこれにホチキスで綴じて一丁上がりである。

 もっとも、表紙のイラストだけは見事なものだった。我々の共通の友人であった医学部のK君の手になるもので、ちょっとボッティチェリの「ヴィーナス誕生」を連想させるような姿態で野に立つ全裸の美少女を、鮮麗優美に描いたものだった。やや愁いと翳りを含んだ少女の表情が実に印象的だったのだが、我々の粗雑な印刷、要は原画を表紙用の模造紙にコピー機でコピーするだけという野蛮な工程により、K君の繊細な描線は全く台無しになり、少女の表情も判別し難いものになってしまった。

 それでも懲りることなく、気の優しいK君はその後の何号かを通じて「一粒の麥」の表紙を耽美的な美人画で飾ってくれた。名門灘高校出のエリート医学生だったK君はガリ勉型にはほど遠い繊細な芸術家肌で、ピアノをよくし、絵も巧く、耽美・抒情的な少女漫画や今でいうボーイズラブ漫画の走りなんかを耽読していた。医者の息子なので金回りも良いため我々にしょっちゅう飲み代をたかられていたが、苦笑し呆れながらも辛抱強く付き合ってくれていたのは不思議なことである。

 ともあれ創刊号は出来上がり、その報告のため久々に大学に顔を出し、藤井先生にお会いして、先生が知人への贈呈用としてかねて所望されていた五部だか十部だか、出来たてほやほやの冊子をお渡しした。先生は喜び、その代金に色を付けて「これで、皆でビールでも飲みたまえ」と一万円を下さり、その金で小川君と私は意気揚々と祝杯を上げた。表紙を担当したK君も同席して然るべきだったが、確かその席にはいなかったと思う。同人であるS君も当然その祝いの席に参加する資格があったが、遠隔地の東京在住であるため、小川君も私も全く意にも介さず、飲みしろを二人占めにしたのだった。

 それから程なくしてぷらりと藤井ゼミに顔を出したところ、藤井先生から「石村よ、お前さんはなかなかいい詩人だな」とのお褒めを頂いた。これは、私の生涯に受けた最も値打ちの高い讃辞であったと言っていい。何しろ、西洋文学に冠たる英国詩を広範にまた深く熟読研究し、通暁しておられた藤井先生の言う“詩人”とは、チョーサーであり、シェークスピアであり、スペンサーであり、ダン、ミルトン、ポープ、ブレイク、ワーズワース、コールリッジ、シェリー、キーツ、バイロン、テニソンらのことである。先生のご父君もやはり英文学者で詩人の竹友藻風であった。先生は学生を喜ばせるような褒め言葉を口にされる人ではなく、むしろ英国流のシニカルで辛辣な警句を微苦笑交じりに漏らすのが常であり、私も先生に褒められた経験などそれまで一度もなかった。その藤井先生に詩人であると認められたことは、当時誰からも得難いお墨付きを得た気がしたし、今もってそうである。現代詩壇(そんなものがあるとして)のどこの誰にどう評されようが、仮にそれがどれほどの讃辞であろうが、当時藤井先生に頂いた評価以上の重みや価値は、私にとってはないに等しいのである。

 その後、「一粒の麥」は同人誌としてはまずまず順調に号を重ねた。何せ大学に行かない気楽な留年生で時間はあり余っていたから、毎夜酒を飲んで文学と音楽談義に耽っていても執筆に割く時間はいくらでもあり、費用の掛からぬ手造り雑誌を出すための素材は溢れるほどあったのだ。

 とはいえ、読者は少なかった。粗末な手造り雑誌を書店の流通に乗せる術もそのコネも無論なく、文学部内や他学部の友人、東京の無頼学生諸君などの間で細々と頒布されるのが関の山であった。それでも小川君は東京の大手出版社や彼がこれと見込んだ作家や評論家らに、毎号を熱心に送り付けていた。私も中身には自信があったが、出版物としての体裁の余りなお粗末さに気後れする所があり、そんなことをしたってどうせどこにも相手にはされず、無駄骨折りではないかと半ば冷やかに見ていたのだが、念ずれば通ずか、怖いもの知らずの文学青年の気迫に感じるところがあったのか、程なくして福田恆存氏、遠山一行氏のような思いもかけぬ大家たちから感想を貰い、交流するようになったのは、ひとえに小川君の信念と努力の賜物であったと言っていい。

 当時の我々は小林秀雄、河上徹太郎、中原中也、富永太郎らの一群に代表される我が国の近代批評、近代詩の本流(と我々は見なしていた)の、現代日本における正統継承者を自ら任じていた。それぞれ平成の小林秀雄、平成の中原中也たろうとし、その資格があるのはこの日本に我々だけであると自負してもいた。今振り返れば夜郎自大嗤うべきだが、その満々たる気概に応じ、自身の作に課す峻厳なリゴリズムも苛烈を極めていたことは確かであり、そうした文学への態度は当時も今も、ともあれ稀有なものだったとは言える。その気迫が、実際に小林、河上らの正統継承者であった福田氏、遠山氏にも何かしら、通じたのだろうか。

 福田氏からは懇切な感想と共に、我々が当時用いていた正統仮名遣い(所謂「旧仮名遣い」)にあった誤りを丁寧に指摘し、解説する手紙を貰った。しばらく後になってのことだが、小川君に福田氏が直接電話をかけてきたこともあった。「ぜひ直接会ってお話ししたいが、近年体の調子がすぐれず思うに任せない。申し訳ない」との話だったと聞き、福田氏のような老大家が、我々のような海のものとも山のものともつかぬ文学青年にそこまでの気遣いを示してくれるのか、と驚いたことを記憶している。

 遠山氏からは「今ではすっかり失われてしまった、ほんものの批評の営みがあると感じました」といった感想を頂戴したのを記憶している。当時の論壇文壇、出版界は、お粗末な体裁と時代錯誤な近代批評・近代詩の夢を追う「一粒の麥」を眼中にも入れてくれなかったが、小川君と私にしてみれば、当時我々が希少な本物の文学者として尊敬していたごく少数に属する両氏が真摯な感想を寄せてくれたことで、大いに我が意を得た心境だったのである。

 とはいえ、福田氏や遠山氏が見込んでくれたのは、何より両氏の関心領域である文芸批評、社会批評で小川君が両氏の厳しい目に適う立派なものを書いていたからで、私の貧しい埋め草の雑文にはそうした力はなかった。私の方でも、散文は自分の本分ではないし、福田氏や遠山氏が近代詩にも現代詩にもさほどの関心を持っていないことはわかっていたので、そのことを特段気にはしなかった。それとは別に、自分は自分で満を持して現代詩壇に名乗りを上げようと一応考えてはいた。

 しかし、現代詩を軽蔑・黙殺し続けていた私には詩壇のコネなど皆無で、詩のサークルや同人も何ひとつ知らなかったし、そもそもあっても仲間に加わる気などさらさらなかった。となると詩誌の新人作品欄への投稿だけが取っ掛かりである。今の日本で詩と言えるものを書いているのは俺ひとりだ、との自負があり、新人なんてしゃらくさい、大した詩人でもない選者ふぜいにあれこれ利いた風なご指導を頂くなど阿呆らしさの極みではないかと思ったが、そうして尊大に構えてはいても内心はどうにかして世に認められたいのであるから、最初の投稿で選者と詩壇を即座にひれ伏させるぐらいの意気込みで、詩誌に投稿することにした。またしても夜郎自大、嗤うべしである。

 もっとも、「一粒の麥」創刊に先立つ数年間、私は本当に命懸けの積りで、自分でこれは確かに詩であると言えるものが書けるか、書けないなら即座に死ぬというくらいの覚悟で日夜全身全霊を打ち込んで研鑽を重ねたのである。ちょうど昭和が終わり世が平成に入った頃、小林秀雄の『ゴッホの手紙』を読んで異常な感銘を受けた私は、真に自分の求める線を得、色彩を得るために自らのすべてを賭け、恐るべき狂気の発作と死ぬまで闘い続けたゴッホの言葉を、毎夜を徹して繰り返し読み、心に刻んだ。それまでに自分が詩と称して書き散らしていた稚拙・陋劣で甘ったるい書きものは、ごみくずにも及ばない無価値なものだと感じ、ゴッホが日々瞬刻、文字通り命懸けで理想の線、色彩を求めたように、自分も狂気の業火に身を燃やし尽くしても悔いはなし、というくらいの覚悟で、ほんものの詩を書こうと志したのだ。

 虚仮の一念ではないが、当人としては命懸けの研鑽の結果、ようやくこれなら詩と呼ぶに値する(その基準は実際リゴリスティックな、高いものだったのだ)作品を書いたと自分で認めることができるようになった。それが平成二年の終わり頃で、それから程なくして「一粒の麥」を創刊し、それに先立つ数年間、誰にも作品を見せることなく研鑽してきた成果を満を持して人目に晒したわけである。創刊号所載の一篇をここに引いておく。

    転生(メタモルフオゼ)

 聖女の遁走(少年は青ざめた光素(エーテル)を吸ふ!)

 絶対零度、結晶する神慮の諧調(アルモニイ)。
 緑青を嚥(の)んで少年は霊廟に翔ぶ。

 鬱血する薔薇(さうび)は終(つひ)に氷と成るか、
 (かがやかなる不滅を図(はか)れ!)
 裸形の宝石は地軸に寄せる……

 夜来の風神は極地の聖戦を伝導(つた)へ、
 大気荒びて光源を目指(まなざ)す。

 やはらかな憧憬は死に絶えた――海鳥(とり)に生(な)れ!

 三十年も前に書いたものなんて今読んでいても自分の作品という感じがせず、却って他人の作品を純粋に詩として眺めているようだが、作品の出来不出来はともかく、今の自分にはこういうものは書けない、という気がする。詰屈とした漢語の多用、恣意的なルビの振り方など青臭い気負いが鼻に付くし、抒情もひとりよがりの感が拭えない。技巧という点でも今の私の眼にはかなり粗笨なものに見える。それでも、今の自分にはこういうものは書けない、という感に打たれるのである。言葉に込めた気迫の硬度と密度が違う、とでも言うのだろうか。ただ若書きと言って済ませられないもの、只ならぬものを今改めて見て感じるのである。

 こんな詩を書いていて、山籠もりから降りてきたばかりの宮本武蔵よろしく研鑽の結果を世に問い、試したい気が満々の青年が、ようやく発表の場を得て大いに水を得た魚となってはいても、それだけで満足できるわけがない。かくして道場破りならぬ詩誌への投稿へと至ったわけである。

 当時、書店の文芸誌コーナーに通常置いてある現代詩の代表的な雑誌と言えば思潮社の「現代詩手帖」と青土社の「ユリイカ」で、新人作品欄の選者も現代詩界では指折りの大家たちが務めていた。どちらに投稿するかだが、「現代詩手帖」は選者を見て止めた。選者は無論現代詩を代表する詩人のひとりだったが、当時の私にはそんなものは何の値打ちもなく、愚劣な詩人もどきとしか見ていなかった。その選者が選んだ新人作品を見ていよいよ気分が悪くなり、こんな奴に俺の詩が読めるわけがない、と確信した。さて、その選者は誰であったのか。今は思い出せない。

 対して「ユリイカ」の選者は大岡信氏であった。「大岡か、書く詩は大したことはないが、まずまず一応詩は読める方だからよかろう」というのが、この尊大な青年詩人の下したご託宣であった。こうして傲然と胸を反らせ、鼻を鳴らして、その実は大いに意気込んで、同誌の投稿欄に選り抜きの自信作を送ったのである。これまた、夜郎自大嗤うべし。

 そして入選作が掲載される号の発売日、私は息せき切って書店に向かい、当月の「ユリイカ」を書棚に見付けて引き抜き、すぐに「今月の新人」のページを開いた。作品は載っていた。当然である。選評は何と言っているか。そんなもの、驚嘆と絶賛に決まっている。そう思って選評の欄に目をやると、たった一行、「独善的な表現が目に付くが、詩句に勢いがあるところを買う」と、至極あっさりとした評が記されていただけであった。

 その瞬間、大岡ごときが何を言うかと総身が震える程の怒気を発したのを覚えているが、興奮はその一瞬だけで、すぐに失望に変わった。大岡でもこの程度か、と力が抜ける思いがした。大岡でこれなら、何が詩なのかわかる人間などもう今の詩壇の中にはいないのだ、と暗澹たる気分になった。こう書いていて我ながら吹き出しそうだが、当時のこの青年の失望は紛れもなく本物で、救いのない、深いものだったのだから、笑うべきではないのかもしれない。

 私はその雑誌を静かに閉じ、レジに行って代金を払い、下宿に持ち帰った。そうして再び「今月の新人」のページの選評欄を開き、筆を取ってそこに「承知」と書きなぐって雑誌を閉じ、書棚に差し込んだ。その後一年以上、詩誌への投稿はしなかった。失望の深さゆえか、それとも揺るぎない自信が揺らぎ、それを自分で認めたくなかったからか。後者が本当のところだろうが、それも今の自分が見てそう思えるというだけで、それが真に正しいのかどうかはわからない。当時の自分より、年齢を経た今の自分の方が実際に智慧深く、物が見えているのか。そう問いかけてみても答えは簡単には出ないのである。

 さて、くだんの投稿作品をここに引いてみよう。「一粒の麥」の、確か第二号に掲載したものだと思う。

    かなしみ

 プラタナスつめたい樹蔭を美しい自転車は往き、
 清潔な恣意に結ばれる純銀のプリズム。
 僕は音階のゼスチユアに四肢を曲げやがて跳ね、
 獣のやうにすれ違ふ智慧たちをのこらず捉へた。
 初夏一瞬の全智の擦過
 あらゆる物音はものうくいりまじり、
 祈りの身振りで一葉が落ちる。
 稀薄な宝石ジヤスミンの目眩(めくるめ)くただよひよ……
 雲に近い街に住んで孤独を数式のやうにまとめ
 かなしみは雨滴の可憐な軌跡を辿る。
 その質量と密度は少年の掌で測るべきか――僕は疑ふ!
 風は僕のすべての名前を想ひ出し告げるだらう。
 ひととき 五月のひと日 そのひとときのあはれ
 僕は立ち去り 僕は忘れる。

 今改めて見直してみて、当時の大岡氏の評はまず真っ当なもので、他に言いよう、褒めようもなかったと納得されるのだが、そう感じるのは私が年季を積み、それなりに智慧が付いたからか。当時の私に聞いてみたい気がする。「お前はうかうかと年を重ねたがために愚かになり、物も見えなくなったのだ」と言われるかもしれない。老人は本当に若者よりも賢いか、分別があるか。経験は人間を本当に賢明にするのか。むしろ心身を劣化させ、鈍く愚かにするだけではないのか。今のお前がその証明だ。青年の私は、五十の坂を超えた私にそう言い放ちそうだ。そして、今の私に、そうではないと確信をもって言い返せる気はあまりしないのである。

 翌年の「ユリイカ」の新人作品の選者は北村太郎氏だった。戦後の「荒地」派を代表する存在で、私は現代詩人の大半を軽蔑しつつも「荒地」派の詩人たちにはそれなりの敬意を払っていた。「北村なら、まあ悪くはない詩人だからよかろう」と懲りもせずにまた例のご託宣を下し、作品を投稿した。これも掲載されたが、北村氏の選評は「いくつか疑問のある詩句があるが、何度か読み返すと抒情の質に捨てがたい良さがあります。今は数多く書くべき時期だと思いますが」といった感じのものだったと記憶している。今思えばしごく妥当な観察であり、また新進の詩人への心遣いに満ちた言葉でもあったのだが、当時の私は再び深く失望した。というより、失望する気力すら失い、投稿への意欲、詩壇に名乗りを上げんとする意欲を失ったのであった。以後、私は詩誌への投稿をしなくなった。(今に至るまでそうである。)

 話が前後したが、創刊から二年ほどの間に「一粒の麥」は順調に七号を発刊した。ページ数も号を追うごとに増え、内容も充実していた。小川君は旺盛な執筆意欲を存分に発揮し、新たな構想を得ては連載ものの評論をいくつも始めていた。(もっともそれらの連載は概して二回を超えて継続することはなく、すぐに新たな別の構想へと移っていくのが常ではあったが。)現代詩壇との関わりを諦めた私も、自らの詩を問う場はここにしかないのだと覚悟を固め、ますます作品の研鑽に没頭し、進境は大いに深まった。今、詩の一読者としての眼で読み直してみてもなかなか立派だと思える作品がこの時期にはいくつかある。読んでくれ、感想をくれる人間は小川君と東京の無頼派諸君ぐらいのものだったが、これだけのものを書いていれば、いつかどこかで評価される日が来るだろうとの確信に揺るぎはなく、現状の無名・不遇もさほど気にはならなかった。

 やがて、小川君も私も留年生活に区切りを付け、揃って大阪を離れて上京することとなった。東京生まれの小川君にしてみればホームグランドに帰る心境だったろう。私にしても、真に文学仲間と言える人間が小川君以外には皆無だった大阪に何の未練もなく、東京での新展開に大いに希望を膨らませていた。この同人二名の上京を機に、我が「一粒の麥」も、カラー模造紙にコピー印刷ホチキス留めという“手造り”時代の幕を閉じたのだった。

 上京後の我々は、これを機にいよいよ文学の世界に一旗を上げるのだと意気込んでいた。となれば、もう今までの粗末な手造り雑誌ではお話にならない。拠点が東京に移ったことで、それまでは遠隔地からの細々とした寄稿のみだったS君も本格的に加わり、どこに出しても恥ずかしくない体裁の出版物を製作する計画が進んだ。創刊時には私ともども無知な素人だった小川君は、今や堂々たる編集人としてその旺盛な企画力と実行力を発揮した。少部数の印刷を安く引き受けてくれる印刷屋を見付け、装丁の担当者として、彼の許婚者の友人でグラフィックデザインをやっているH嬢をスカウトしてきた。題字を書いてくれる書家までいた。小川君、S君の高校時代からの友人で、千葉県の高校で書道の先生をしているS女史である。こうした新戦力の活躍で、見違えるように立派な装丁の雑誌となったのが、新生「一粒の麥」第八号だった。文芸同人誌としては異例の300ページにも及ぶ堂々たる一巻である。

 この号で特集されたのは、同人三名が共通して敬愛していた指揮者のセルジュ・チェリビダッケで、幻の指揮者、最後の巨匠として当時のクラシック界では異様なカリスマ的存在だった。カラヤンに代表される戦後クラシック音楽のプチ・ブルジョア的教養主義と商業主義を真っ向から否定、痛罵するその反時代的風貌と、演奏会での超絶的な音楽体験は、「一粒の麥」に集った三人の青年たちにとっては滅びゆく西欧人文主義の最後の生き残りと映っており、単なるご趣味の音楽鑑賞の対象ではなく、文芸批評の巨大なテーマであったのだ。

 特集では、三人の中でもことのほかチェリビダッケ愛の深かったS君が入手困難な内外の資料を丹念に集め、克明な考証を施した略伝と年譜が白眉であったと思う。小川君はチェリビダッケによるベートーヴェン「運命」の演奏を取り上げ、数十ページにも及ぶ圧巻の分析と批評を発表した。私はヴァレリー、河上徹太郎、遠山一行氏に倣ってプラトンばりの対話篇スタイルを用い、自由な批評的幻想曲を展開することを試みた。音楽の専門知識がなく資料の収集や考証にも怠惰な私は、むしろ開き直って自由な遊び/演奏(プレー)を通じた純粋批評を目指したのだ。この対話篇は、詩以外に自分が書いたものの中では今でも気に入っているもので、いくらかの文学的価値のある唯一のものだろう。書いていて非常に愉しかったことを覚えている。

 発刊後、例によって小川君が駆け回って販路を探し、いくつかの店舗で置いてもらえることになった。書店だけでなく大規模なCDショップのクラシックコーナーも含まれていて、むしろそこでよく売れた。中でも当時新宿にあったヴァージン・メガストアでは、初回委託分が即座に売り切れ、追加注文が来るほどの「大反響」だった。その店舗で最終的に200部以上は売れたと記憶している。それもひとえにチェリビダッケ人気のおかげだったのだろうが、無名の青年三人の文藝同人誌としては異例の快挙であったことは間違いない。全国紙でも紹介された。贈呈本を受け取った産経新聞の論説委員某氏が、コラムで「一粒の麥」とその同人たちへのオマージュを書いてくれたのである。後で振り返れば、これが「一粒の麥」の短くささやかな絶頂期であった。

 この成功に気をよくした同人たちは、続く第九号で「戦後の論争」と題する特集を組み、今度は音楽畑ではなく文学と社会評論の分野への本格的な殴り込みを図った。福田恆存、清水幾太郎、花田清輝、大岡昇平、篠田一士、吉本隆明らが関わった戦後論壇の代表的論争を取り上げるというなかなか興味深い試みで、同人三名それぞれの論考も相当に読み応えのある力作であったのだが、反響は乏しく、売れ行きは無残なものだった。この挫折が、今にして思えば「一粒の麥」の寿命を早める決め手となったのだ。

 細かい経緯は忘れたが、ここらでもう「一粒の麥」にひと区切りを付け、新しい同人体制で新しい雑誌を立ち上げようという話が持ち上がった。金のかかる本格的な出版物を年に一回という形ではなく、もっと頻繁に出せるものにすること、広く執筆者・参加者を募ること、といったことがその主な理由であったか。しかしその辺の私の記憶はあまり定かではない。私は「一粒の麥」をお仕舞いにすることに積極的ではなく、新雑誌に本当には関心がなかったからだろう。しかし、頑として拒絶するほどの強い気持ちもなかった。自分はただ詩を書いて載せているだけで、雑誌の内容面の充実にも販売の拡充にも何ら貢献できていないという引け目もあった。終わるのも仕方がない、という心境だった。

 こうして「一粒の麥」のフィナーレを飾るべく、第十号では我々同人の精神的な「師」であった福田恆存氏の特集を組むことになった。福田氏は既にその数年前の平成六年に逝去されており、遅ればせながら追悼号の意味も込められていた。上京後、小川君は福田家や福田氏の担当者だった文藝春秋社の寺田英視氏との交友を築いていたので、特集を組むに当たってご遺族の協力を仰ぐことができた。その用件で小川君と寺田氏が大磯の福田邸を訪問するのに私ものこのこくっついて行った。福田夫人は故人の貴重な遺品を我々に披露して下さり、そのいくつかが最終号のグラビアページを飾った。福田氏の書、掛け軸、未公開写真といったものである。

 中でも貴重だったのは、福田氏が属していた文士仲間の親睦会「鉢の木会」の、酒席風景を写した未公開ショットである。福田氏、三島由紀夫、大岡昇平、中村光夫、吉田健一、神西清といった戦後文学史上の巨人たちが和気藹々と談笑しながら酒杯を傾けている構図は、顔触れの豪華さもさることながら後年のそれぞれの運命や関係を考えると一際感慨深いものがあった。

 こうした身に余るような協力を受けたことで、また愛着深い「一粒の麥」に有終の美を飾らせるべく、我々も奮い立って執筆・編集に励み、充実した内容となった。雑誌の体裁、内容の質量ともに過去最高のものだったと思う。その巻頭言で小川君が終刊の辞と新雑誌の創刊宣言を述べ、名実ともに「一粒の麥」は幕を閉じた。

 新体制の雑誌名は「神宴(シュンポシオン)」と命名された。というか、私がその名前を提案したのだが、その趣旨も理由もまるで覚えていない。上述の「一粒の麥」終刊の辞の中で小川君がその趣意や意気込みを記していたはずだが、手元にないので確かめようがない。ともあれ、私は当初からこの新雑誌に関心も愛着も乏しかった。

 新雑誌はB4版の紙を二つ折りにして両面印刷したものを数枚重ねるというパンフレットみたいな出版物で、また安価な手造り雑誌に戻ったことになる。表紙もなく、1ページ目に題字があってそのすぐ横に記事が載っている。ページは二段組みで文字も小さい。ちょうど文学全集に付いてくる月報のような体裁だと言えば分かり易いか。新人の執筆者も何人か参加したはずだ。いずれも小川君がスカウトしてきた若者たちである。内容面では、本格評論よりも時評、レビューの類が中心になっていたと思う。若手が参加しやすいようにということ、現代社会へのコミットメントを増すこと、そんな意図があったのかと思う。

 私はこの「神宴」に詩作品を掲載しなかった。二段組みのパンフレット雑誌に詩は似合わないというのが、当時同人諸君に説明した主な理由だったと思うが、本当にそうだったか。それは嘘ではないが表面的な理由で、この新雑誌の在り方、性質そのものが何とはなしに“詩”を疎外しているように私には感じられたのだ。そのことに別段怒りや焦燥を覚えはしなかった。もう詩は用済みで、お呼びではないのだ、それも仕方がなかろうという感じだった。

 この「神宴」が何号続いたか、全く覚えていない。自分が何を書いたかもまるで記憶にないし、それらの原稿も手元にない。残しておこうという気さえなかったように思う。それくらい、この新雑誌への私の関心や愛着は乏しかった。

 それでも、詩作は続けた。唯一の発表の場も今はなく、といって出来上がった作を周囲の文学仲間に見せることももはやなく、かつての研鑽時代に戻ったようにひとつひとつの作に没頭した。進境は深まり、会心の作がいくつも書かれた。これほどのものを自分は書けるようになったかと思った。そして、自分のほかこの世の誰も、これだけの詩があることを知らないのだと思うと、何か痛快な、いい気味だという気分だった。これだけのものを書いたのだから、もう思い残すことはないだろう。これで死んでもよいのではないか。そんな静かな心境にもなった。

 こんな、物書きとしてまた表現者として不健康な状態が長く続くわけがない。詩作の数は徐々に減っていった。「一粒の麥」終刊の翌年、一九九八年に長編一篇を含む十三篇。一九九九年は八篇、二〇〇〇年は九篇、二〇〇一年には四篇にまで減り、二〇〇二年、二〇〇三年には遂に一篇も書いていない。そして二〇〇四年にわずか一作を書いて、私の詩作は以後十二年間、途絶する。

 結局、この詩人にとって「一粒の麥」喪失のダメージは大きなものだったのだ。当人が気付かなかっただけで、ささやかではあっても発表の場があること、わずかな数であっても読者がいることは、何よりも掛け替えのない創造の支えであったのだ。

 それと時期を同じくして私の人生も著しく暗転した。逃亡するように海外へ移住し、その後ここには書きたくも、思い出したくもないような辛酸を舐めた。俺は生まれ変わったのだ、新しい人生を歩むのだと自分に言い聞かせていたが、要するにそれは、自分はもう死んだのだと自分に告げているのと同じだろう。「一粒の麥」の死とともに、この詩人も死んだのである。

“一粒の麥もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし”

 これは聖書ヨハネ伝の有名な一節で、同人誌「一粒の麥」の名は無論この聖句に由来する。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で重要なモチーフとして使われており、我々が直接のインスピレーションを受けたのはそちらである。いかにも、己の理想に殉じて悔いなし、といった青年の自己陶酔的なヒロイズムをくすぐりそうなモチーフだが、今の私にはキリスト教的な(キリスト的な、ではない)きれいごとの偽善にしか見えないのである。

 「落ちて死んだ麥が多くの実を結ぶ。」それは結んだ実だけが後から言えることである。落ちて死んだきりになった麥の粒がどれだけあったか。鳥に啄まれ、虫に齧られ、水に流されてどこかで腐り果て、日照りで乾いて粉々になってしまった一粒もいくつもあるに違いない。地に落ちて死んだからって必ず実るとは限らない。また、多くの実が実ったからと言って、既に死んでしまった一粒にとってそれが何になると言うのか。死ねば死んだ者にはそれっきりである。こんなおためごかしで“死”を美化し聖化するのは、結局生きているものの都合であり、感傷に過ぎないのではないか。

 「一粒の麥」はその役目を終え、地に落ちて死んだ。それとともに私というひとりの詩人も地に落ち、暫くはかすかに息をしていたが、やがてその息も絶えた。この死がいかなる実を結んだのか。またこの先結ぶのか。私の生きている間にそれが分かる日が来るのか。分かったところでどうなるのか。そんなことを思いながら、「一粒の麥」と自分の貧しい青春、美しくもない青春を回想して茫然とするのである。

 締め括りに、上述の私の気分をもっと明確に代弁してくれる自作があったので、それを引用して終わりにする。詩作に復帰した二〇一六年に書いたものである。これを書いた詩人は、もう「一粒の麥」のころの詩人ではないということだけ言い添えておきたい。

    永遠の野原

 ひえびえとした壁に手をふれて
 約束されない 秋のみのりをねがふ
 時がめぐり 季節がうつる
 ただそれだけの理由で 無造作にまかれる命
 わたしの命も さうであつたやうに

 かぞへきれないほどの種子たちは
 いまどこでどうしてゐるのか
 どた靴でふみ潰されたか
 鳥についばまれたか
 大水にながされたか
 はたまた夏のひでりに渇き死んだか
 実ることなく きえていく命といふのは
 どんな想ひだらう……

 窓の外に豊穣の季節がひろがる
 かうして実つたものたちは
 なんとまあ しぶとくも
 したたかな命であることよ

 うしろめたくはないか

 みのることのなかつた あまたの命に
 まさる何のねうちも ありはしないのに
 己のみ 生き抜いたことを
 罪であるとは おもはないか

 おもふまい わたしもさうだ

 もとより 罪ではないか
 命をみのらせるとは
 たれに ゆるしを得ようとも
 いまさら おもひはしない

 それでもわたしは
 ねがはずにゐられない

 この豊穣の季節に また
 無造作にまかれる 幾億もの種子たちが
 いのらなくても
 のぞまなくても
 夢みなくても
 みないつせいに命をみのらせ
 たれひとり きえることなく
 それぞれの花を たがひをおそれることも
 気にすることもなく 咲かせつづける野原

 そのやうなものが
 この世のどこかに
 ありはしないかと

(了)


 


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