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「新潮45」騒動に思う ―― 空騒ぎを煽る「抽象的良識」の残忍さ

「私はあなたが言うことには賛成しない。が、あなたがそれを言う権利を死んでも護るだろう。」ヴォルテール 

 廃刊の憂き目に遭った「新潮45」の十月号を先日漸く読むことができた。発売からすでに何日、何週間経ったろうか。実は発売当日に書店に行ったのだが、十月号はなく、まだ九月号が置いてあった。私は田舎に住んでいるので恐らく発売日が都会よりも遅いのだろうと思い、翌日また出直したが、やはり置いていなかった。何軒か他の書店も回ったがやはりない。その後も折に触れて通りがかるたびにその都度書店をのぞき、淡い期待を抱いて文芸のコーナーを探してみたが、遂に十月号を目にすることはなかった。ものぐさな私にしては異例の努力を重ねた末、鈍い私もさすがに、これは発売早々に売り切れてしまったに相違ないと漸く気付いた。発売の初日に店員にでも尋ねていれば、もっと早くに売り切れであるとわかり、無駄足を重ねることもなかったのだろうが、私にはそこまでの熱心も意欲も本当にはなく、店員に尋ねるという、子供でも思い付きそうな単純な智慧さえ考え付かなかったのである。

 私は自分自身の本当の関心や熱意から同誌を読みたいと思ったのではない。たまたまこの十月号特集の寄稿者のひとりが私の年来の親友なので、扱われている問題には別段の関心もなかったが、なかばは友人付き合いの義務として、なかばは彼の最新の文章そのものへの純然たる興味から、ともあれ読むだけは読んでおこう、という程度の至って消極的な動機しかなく、そもそも自発的な意欲が乏しかった。行きがかり上、求めていたものを手に入れ損ねたことが少し悔しくもあり、なかばは諦めながら諦め切れず、淡い執念から努力ともいえないような努力をうろうろと形ばかりしてみたのだが、元の意欲が乏しいのだから、手に入らなかったことをさほど恨めしく思うこともなく、売り切れたものは仕方がないと諦めることにした。

 それから何日か経ち、その十月号特集が大いに物議を醸し始めてから、やはり同誌を買い損ねたある知人がわざわざ図書館に足を運んでそれを読み、その感想を書いているのを目にした。なるほど図書館かと思い、失っていた淡い執念を再び奮い起こし、バスに揺られて街に出、市立の中央図書館を訪れたが、その日は書庫の整理日だとかで休館であった。失望すべきところだが、がっかりするほどの意欲も私にはなく、ああまたかと思っただけであった。一方で、間が抜けているとはいえこれだけの手間暇を費やして、なお読むことのできない「新潮45」十月号を、実際に読むことのできた人はそもそもどれだけいるのだろうか、とも思った。そしてその中に、特段の政治的意図も成心もなく、私同様の漫然とした興味から同誌を手にした「普通の」読者は何人いたのだろうか。

 同誌の発行部数は一万部そこそこということであり、早々に売り切れたのだから少なくとも一万人強が手に入れたことは確かである。手に入らなかった人のうち、わざわざ図書館にまで足を運んで中身に目を通すというような物好きが何万人もいるとは思えず、せいぜい数千、あるいは数百人というところだろうか。人口一億数千万の日本で、一万何千人だかが実際に目を通したに過ぎない特集を巡ってにしては、この事件について見解や論評を述べたり非難あるいは悪罵を浴びせたりしている人の数が多すぎ、テレビや報道での扱いも不釣り合いに大きすぎるのではないかと思えた。よくあることだが、実際に起きたこととはほとんど何の関係もない、空疎で情緒的な非難や痛憤がさらにまた別の空疎で情緒的な非難や痛憤を煽り立て、ヒステリーであること自体がさらなるヒステリーを招くのと同じメカニズムで、騒ぎになっていること自体が騒ぎを自動機械的に増幅させ、大騒ぎという結果になっているだけなのではないか。そう思う一方で、こんな、ただの空騒ぎかもしれないものを、本当の興味も意欲もないくせに、ただの行きがかり上諦めきれずに追いかけている自分こそがいかにも間抜けで、滑稽であるように思えてきた。

 それですっかり読む気も萎えたのだが、すっきりしない気分は残り、一週間ほどしてからたまたま時間があったので再び同じ図書館を訪れると、今度はちゃんと開いており、漸く念願かなって件の十月号特集を読むことができた。こうして冒頭の一文に戻ってきたわけだが、特集記事それぞれに丁寧に目を通してみて、あの大騒ぎの火元はこんなものかと拍子抜けさせられた。冒頭の藤岡信勝氏の記事以下、概して穏当、誠実な論文が並んでおり、ヘイトスピーチなどという不穏なものは見当たらない。明らかにポレミックを意図した小川榮太郎氏の論考を除けば、物議を醸すような扇情的、挑戦的な要素も大したことはなく、むしろ微温的な議論が大半を占めているのが、騒ぎの大きさや批判者らの憤激ぶりに比していかにも不釣り合いに思えた。やはり空騒ぎか、そうであろうと予想は付いていたのだが、実際にそうであることを否応なしに確認させられると、それまでに重ねた間の抜けた努力の間抜けさが一層身に染みた。

 「空騒ぎ」などというと本事件の関係者両サイドから怪しからぬと非難もされようが、別段この問題に限った話ではない。日々テレビや新聞雑誌で世の大事件の如くに報じられている社会問題も、それを目にし耳にする大多数の庶民にとっては何の実感も伴わぬ他人事であり、主観的内実を持たない、したがって空疎な抽象的問題である。知的・良心的虚栄心のみを動機に関心のようなものを向ける振りをしてみたところで所詮は抽象的関心に過ぎず、生まれる感想も意見も抽象的の域を出ない空論やきれいごとである。問題はなるほど現実のものではあっても、当事者やその周辺の関係者を除けば、大半の人びとにとって本当のところはどうでもよく、その人の実生活に何の関わりも持ってはいないのである。本質的に他人事だから、現実の事情に関係なく、抽象的に良識を語り、抽象的に正義を口にし、抽象的に悪を非難し、ささやかな優越感みたいなものにひたって虚栄心を満たすことも好きなだけできるのである。テレビや新聞・雑誌はこのような手軽な娯楽を毎日存分に提供している。

 世間一般の関心の度合いはどうあれ、当分の間この事件を格好のねたとして左右の論陣が張られて盛んに議論を戦わせ、扇情的で人目を惹く悪罵なども大いに交わされ、それを掲載する雑誌もそれなりに売れ、執筆者らも原稿料を貰えるということが、読者に飽きられるまで続くのだろう。無論その間、現実に存在する問題は一貫して置き去りにされるだろう。そうしてまた別の新鮮な、公衆の耳目を惹くテーマが持ち上がり、それを巡る議論が誌面を賑わせ、その時分にはこの事件のことなどとうに忘れられているのだろう。空騒ぎがひとつ終わればまた別の空騒ぎがあり、いつも何かしらを巡って賑やかな議論が戦わされているが、現実の問題そのものは常に脇に追いやられ、真剣で実際的な議論など何ひとつ行われず、進展らしい進展などないままにまた忘れ去られていくのだろう。

 論壇誌、オピニオン誌などといっても実際にはある形態の娯楽を売る商売の一種であり、商売上の利害が結局は優先されるのは止むを得ないことである。商売であるテレビ局や新聞・雑誌社に現実の社会問題への真剣な取り組みなど期待する方が愚かなので、読む人間の側にしたって当事者でない限り所詮は他人事なのだから、言葉の上でどんなきれいごとを並べ、正義や良識を口にするとしても、心底から、本気でそんなことを求めても期待してもいやしないのである。ごくごく一部の奇特な志ある人士を除けば、口では世を憂い、良識ある市民づらをし、正義を求めているふりはするけれど、現に切実な利害得失が絡んでいるのでない限り、どこにも真剣なもの、本気なものはないのである。特定秘密保護法案然り安保法制然り、明日にも日本が亡びるかのごとき大騒ぎの挙句、今ではまるで何事もなかったかのようである。当時、マスコミ報道はもとより文化人や知識人らが公の場で口にした「勇気ある激烈な発言」の数々を今になって見直してみれば、よくもまあこんなことをぬけしゃあしゃあと言えたものだと呆れ返るような妄言がいくつもあるのだが、発言したご当人は今では無論知らん顔で、依然として良識ある文化人や知識人づらを公衆の面前に何ら恥じることなく曝しているのである。もっとも、このくらいの鉄面皮と図太い神経でもなければ、文化人や知識人などという特権的・貴族的な稼業は務まらないのかもしれず、市井人には想像の及ばない心境、境地である。

 「新潮45」十月号の発売直後、何人もの作家や文筆家が新潮社に対し一斉に抗議したことが報じられている。これはあまり報じられていないようだが、実際には「抗議」に加えて「版権を引き上げる」と脅したのである。報道では正義感からの勇気ある英雄的行動であるかのごとく伝えているが、そんなことはあるはずがない。作家も商売であり、原稿料や印税が貰えず食いはぐれることが何よりも恐ろしいに決まっているので、真に義憤に駆られ我が身ひとつで抗議するような見上げた作家などいるはずがなく、事前に新潮社内部の造反分子が手引きして大勢で示し合わせ、自分ひとり貧乏くじを引く恐れはないとの保証なり確信なりを得た上で、圧力団体よろしく一斉に「蜂起」して新潮社を脅迫するに及んだのである。事実なら卑劣千万、と憤る向きもあるだろうが、日本の所謂文壇作家なんて大抵弱虫で卑怯で虚栄心ばかり強くて、何を言おうが身の安全が保障されているとわかればかさにかかって好き放題に放言するが、ほんものの圧力をかけられれば青くなってすぐに黙り込むか、泣き叫んで被害者面をし、世人の同情を惹くといった体の、どうにも仕様のない人種なのであるから、真面目に怒る方が馬鹿を見るのである。

 時流や風潮に迎合便乗してその場限りの放言を並べ、原稿料や出演料を稼ぎつつ自らの良識や正義をせっせと宣伝して回り、知名度や好感度の向上に努めるのは知識人・文化人稼業の常とは言え、この種の手合いが煽り立て、多数の「良心的」市民が火に油を注いだ空騒ぎに巻き込まれ、袋叩きに遭った人の側にしてみれば、元が空騒ぎであっても実際に生じた結果は空想でも幻影でもなく、現に有形無形の苦痛や不便を強いられるのだから気の毒である。そこには現実の、なまの人権侵害と言えるようなことさえ起こっているのである。

 一連の騒動の発端となる筆禍事件を起こした杉田水脈議員は、主要マスコミから侮蔑的な人格中傷も含む集中攻撃を受け、殺人鬼やナチス・ドイツにまで擬せられ、善良なる市民には到底見えぬ不穏殺伐たるデモ隊からも連日罵倒を浴びせられた。本人への攻撃のみならず娘さんにまで「妊娠させてやろうか」との脅迫があったと聞く。これこそ真に慄然とさせられる事実ではないか。人権擁護や差別反対なる「正義」を錦の御旗に掲げていれば、娘を強姦すると脅すなどという卑劣冷酷な犯罪行為も正当化される、そう信じ込んでいる輩が少なからずいるのだ。一見平和なわが国も、皮一枚剥がせば随分不穏で物騒になったものである。先の大戦中、「非国民」のレッテルを錦の御旗に、戦争継続に疑念を示した同胞を集団リンチにかけたわが国民の過去の愚行と何の違いがあるだろうか。

 イデオロギーという抽象観念にたっぷり含まれた正義という名の酒精(アルコール)に酔っ払い、正気を失った人間、すなわち暴徒ほど恐るべきものはない。こうした「良心的」暴徒には眼前の人間がもはや人間とは映らず、「敵」「反対者」「社会悪」という抽象観念にしか見えないのである。生きた人間が抽象観念と化した時、人はその観念に対してどこまでも残虐、残忍になれるということは古今東西の歴史が示している。「異教徒」「異端」「アメリカインディアン」「黒人」「ユダヤ人」「ジャップ」「鬼畜米英」――どれも抽象観念であって、目の前で生きて呼吸している、切れば血の流れる人間ではない。人間は元来、小鳥一羽殺すのにだって良心の痛みを感じるほど弱気なものだが、相手が「獲物」「食い物」あるいは「害鳥」という「観念」になってしまえば、どんな殺戮も残虐行為も平気なのである。平気どころか、正義の名の下、疑いなき善意と良心に基づいて行われることすらあるのである。この国で七十三年前に起きた、二十万人にも及ぶ一般市民が瞬時に殺傷されるという人類史未曾有の残虐行為は、加害国の側では「悲惨な戦争を終結させるため」という抽象的「良識」により今なお正当化されている。実際、この規模の残虐行為は、眼前の現実への認識を観念のヴェールで覆ってしまう心の働きがなければ、人間が人間に対して行えるものではない。「正義」のためなら人間はどんなに残忍なことでもできるし、しても構わないのである。

 杉田氏と並んで、今回の騒動でメインの「敵役」となったのが小川榮太郎氏である。実際、件の十月号特集に対する非難はほぼすべて小川氏の論文に向けられており、「新潮45」お取り潰しの原因となったのは明らかに小川論文である。報道では本特集全体が「差別と偏見」に満ちていたとの印象付けが成されているが、これは全くの印象操作であり、現実に掲載された各論文を読む限り、そのいずれにも同性愛者や両性愛者、性同一性障害への差別的言辞や偏見は見受けられない。マスコミ・言論人こぞっての攻撃は例によって「LGBT差別」という観念上の仮想敵に向けられており、現に存在する差別や人権侵害が対象ではないのだ。この事件の主犯格、と言うより「単独犯」であるはずの小川氏の論文にさえ、実は、性的少数者への差別・侮蔑に該当する文言は、何ひとつ存在しないのである。空騒ぎは芯が空っぽだから空騒ぎなのだが、それにしてもここまであからさまに何にも基づいていない非難や攻撃が大々的に展開されるとは、実際に確かめてみないかぎり誰も本当にはしないだろう。だが、どれほど真っ赤な嘘でも確信たっぷりにつき続ければ「事実」となる、というのがプロパガンダの常套手段である。

 小川論文に対する非難、あるいは揶揄中傷は概ね二点に集約されている。一は、氏が「痴漢の権利を擁護せよと主張した」という驚天動地のもの。二は、前者よりは一応もっともらしい体裁を取っていて、同論文が「性的志向であるLGBTを、変態性愛かつ犯罪行為である痴漢と同列に扱った」というものである。実際に読めばわかるが、そのようなことは書かれていない。繰り返す。全く、書かれていない。三度言う。本当に、書かれていない。報道やインターネット上での言説しか見ていない人は間違いなく疑うだろうから、最後にもう一度言う。書かれていないものは、書かれていない。書かれたものとは別に小川氏が本心では痴漢の同情者・支持者であるか、痴漢その他の変態性愛と同性愛・両性愛を同一視しているか、そんなことは神ならぬ私にはわからない。だが、氏が書いた本論考を読む限りにおいて、上記の非難に該当するような記述はどこにもない。これは主張でも意見でもなく、ただの事実である。

 小川論文における「痴漢」についての記述は、「どのような論拠、理由があっても絶対に社会的に容認され得ない主張」の一例として記されている。LGBTの権利を擁護し、法制度による支援を訴える根拠・理由とされているものが、これを敷衍あるいは乱用すれば、痴漢その他の犯罪ないしタブー視される変態性愛を擁護する論拠にもなり得るような、恣意的かつ不安定なものであり、したがって有効性を欠く、というのが氏の言わんとする趣旨である(同種の主張は杉田論文においても成されている)。要するに痴漢云々はただの反語的レトリック、もしくは皮肉に過ぎない。そのレトリックを用いて述べられた主張それ自体への賛否は当然あるだろうし、あってよい。だが、「反語」の箇所のみをロジックから切り離して取り上げ、氏が「痴漢の権利を主張した」というのは不当な事実誤認である。意図的な「切り取り」であるなら、きわめて悪質な世論誘導、要はデマゴーグである。

 では、小川氏が「痴漢とLGBTを同列に扱った」との批判についてはどうか。ここにも深刻な錯誤、誤読がある。「LGBT」という言葉が指し示す対象を巡る錯誤である。

 氏がこの論考において表明しているのは、LGBTという用語で総称されている個々の人びとへの嫌悪ではなく、LGBTという概念規定への嫌悪、さらにはそうした人びとをLGBTの一語でひと括りにし、それに基づく主張を社会運動化すること(小川氏によればイデオロギー)への嫌悪である。私なりに小川氏の主張の一部を要約すれば、LGBTという用語とそれを巡る言説が、LGBTと称され、現に存在する個々人の個別的・具体的問題を離れて、何らかの便益や政治的意図によってねつ造された恣意的観念に基づくイデオロギーであり、したがっていかがわしく胡散臭い――と氏一流の保守主義・伝統主義の立場から述べているのである。ここでも、氏の主張するところへの賛否は当然あってよく、大いにやり合って建設的議論が発展し、誰しも納得行く結論に至ればよいわけだが、この論文をもって小川氏が「同性愛者や両性愛者等性的少数者を侮蔑・差別している」証左とするのは、どう読んでみても無理があり、公正を欠くこじつけである。ヘイトスピーチなどという評価も見受けられるが、純粋にここに書かれたことだけを見れば、氏の嫌悪や憎悪、すなわちヘイトは、「LGBT」という(氏によれば根拠定かならぬ)「用語」とそのイデオロギー化に向けられており、現実に生活している同性愛者、両性愛者等に向けられてはいない。氏の実際の心底は当人以外には誰にもわかるまいが、ここに書かれたものからはそのようにしか読めないのである。

 疑わしきは罰せず、有罪と確定するまでは無罪、というのは人権の基本理念である。国連世界人権宣言の第十一条にそのように記され、同宣言に基づき、中国以外の主要国家ほぼすべてが批准している国際自由権規約もこれを忠実に踏襲している。然るに小川氏は刑事事件の被告でさえなく、「疑わしき」どころか全く事実に反する「罪」に対する非難にさらされている。人権擁護を唱える主要な報道機関や文化人らが(意図的なものか純然たる愚かさゆえかはさておき)明らかな事実誤認に基づいて小川氏に「性的少数者差別」、あまつさえ「痴漢の擁護者」とのレッテルを貼って広範に触れ回り、氏の社会的名誉と信用を一方的に傷付けるというあからさまな人権侵害を働いているというのは、一体どういう了見か。氏は保守派で安倍総理大臣のシンパである。保守派は右翼で、安倍総理を応援するような奴は間違いなく「悪者」で、右翼で悪者だからその人権を侵害するのは「正義」であるということか。人間の尊厳の問題に右も左もあるものか。私に我慢ならないのは、彼ら抽象的良識を振りかざす「正義派」の、こういうご都合主義である。

 抽象的良識はなまの現実による抵抗や規制を受けず、したがって「自由」で恣意的なものである。その場の都合でどうにでもなる、ご都合主義の「良識」なのである。どんな「正義」もほしいままに、全く無責任に語ることができ、何らの悪意も良心の痛みも伴わず、全く無自覚に信じがたい残虐行為を働くこともできる。人間性という血が全く通っていない良識は、狂気であり、同時に凶器である。歴史をひもといてみたまえ。このような良識の非人間化がもたらす痛ましい結果から、われわれは何度学べば教訓を得るのだろうか。(了)

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