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記念シンポジウム「五・一五事件九十年を迎えて」における小山俊樹・帝京大学教授の基調講演(『維新と興亜』別冊、令和4年9月)

ご来場の皆さん、ご紹介にあずかりました帝京大学の小山と申します。本日は五・一五事件からちょうど90年の日です。この稀な節目の年、節目の日に、ここ岐阜でお話をさせていただける機会をお与え下さいましたことに心より感謝申し上げます。また、ここにお集まりいただきました皆様にも、厚く御礼を申し上げます。
 どうしても1つ最初に申し上げておきたいのは、この岐阜という場所についてでございます。私は常々、岐阜というこの場所は、維新の精神が全国に響き渡る起点であろうと考えております。岐阜公園には、暴漢に襲われた際に「板垣死すとも自由は死せず」と叫び、全国に維新運動、自由民権運動の機運を盛り上げた板垣退助の銅像がそびえ立っているからです。大正・昭和期の維新運動に、自由民権運動の系譜をひく部分があることは、知られている通りであります。私が近代史を研究する中で、岐阜がそのような場所であることに、非常に感慨深く思ったことを今でも覚えております。その岐阜で、こうしたお話をさせていただけることは、大変ありがたいことだと思っております。
 なお皆さんの中には様々なご関係の方がおられると思いますが、私は一歴史の愛好家、研究家でありますので、例えば三上卓というふうに、お話にあたっては歴史上の人物として敬称を略させていただきます。その点についてはどうか深くご容赦いただきたいと思います。
 さて、ご紹介いただいた拙著『五・一五事件』は、ちょうど2年前、2020年に発刊いたしました。この本を書くにあたっては、様々なことを調べ、成果を盛り込むことができたと考えております。そして何より本を出してよかったと思うのは、感想を皆さんからいただけることです。これが非常にありがたかったです。そこでウェブの上にある読者の感想を、ここでいくつかご紹介します。
「五・一五事件前後の政治過程。あるいは青年将校たちのメンタリティや思想がきめ細やかに描かれている」
「五・一五事件と二・二六事件の2つが、軍部によるクーデターとして一括りにされるが、むしろ五・一五事件は血盟団事件との関連が強いことをこの本で知った」
 このように、しっかり読み込んでいただいていることがわかる感想を見るにつけ、書いた甲斐があったと個人的にはうれしく思っております。
 ただ、本書の説明の仕方も悪いと思うのですが、「この本を読んでも、やはり事件を起こすことによって青年将校たちが何をどうしたかったのかという点はよく分からなかった」「事件を起こした人たちの発想が、まだよく分からない」といった感想も、いくつか見られたわけであります。
 確かに、当時の青年将校が事件を起こすに至った論理とか、あるいは心理といったものは、現代、令和の時代のわれわれにとって、なかなか理解が困難な部分がある。そうしたところはあるだろうと思います。
例えば拙著で紹介をしましたが、この事件の後、裁判において被告席に立った海軍将校だけではなく、陸軍の士官候補生、民間の青年たちも、口々に「この事件で亡くなった犬養毅首相には全く恨みはない」と述べております。まずそこで分からないわけですよね。恨みがないなら、なぜ殺したのか。殺す必要はないじゃないか。そもそも殺すというのは恨みがあるからではないのか。普通の人はそこで考えが止まります。
 しかし、この事件は個人的な恨みつらみを超越した別の次元にあるものです。そのことを、この本を読んで分かる人もいれば、どうしてもやはり腑に落ちないという人もいます。読者の率直な感想というものを受けて、私自身もなるほど、そこがこの事件を分かりにくくしてるポイントなのかと、改めて感じた次第であります。
 このように事件のことを深く知れば、さらに疑問も起り、そしてそれを解決していく中で、事件に対する理解がさらに深まっていく。私はそういうふうに確信しております。そこで今回こうした場を特に設けていただき、シンポジウムでパネリストの皆さんと議論を重ねることで、ここにいる全員の事件に対する理解もきっと深まるであろう。私はそう思っております。
https://bit.ly/3DlP4a3

五・一五事件はテロなのか、クーデターなのか


 五・一五事件の理解の難しさは、一般の方々だけではなく、実は専門家も非常に悩むところがあります。そもそも事件はテロなのか、クーデターなのか。これすらも実は学会では議論が尽きません。現在ではクーデターではなく、恐らくテロであろうという見解が基本的には通説となっておりますが、研究者でさえもこの事件の性格についてはっきりとした見解を持ちえない部分があります。それは当然であります。なぜなら、この事件のもともとの構想はクーデターでありましたが、現実的な制約を前にして計画は変更され、そして「あとに続く人たちがやってくれるだろう」という信念に変わり、捨身のテロに転化していったと考えられるからです。これだけでもこの事件の単純ではない様相が分かるわけですが、私の基調講演では、そのあたりを簡単にご紹介をしたいと思います。
元来この事件の計画の中には、クーデターの要素がありました。当初は首相を殺害し、東郷平八郎元帥による戒厳令政府を作る計画が立てられていたのであります。しかし、この計画は初期の段階で消滅しました。実際にこの事件を計画した古賀清志の供述によりますと、東郷元帥を煩わさずとも、戒厳令を布告せしめることはできる。警視庁を襲撃することによって自動的に可能になる、という発想があったことが分かります。すなわち、「海軍の将校たちが蹶起すれば、続いて陸軍の将校が立ち、大川周明も立って、軍政府を彼らが担ってくれるだろう。われわれはそのための捨て石でよい」というのが、この事件の計画者の最終的な考えとなりました。
 こうした経緯が、彼らの行動の目的が何であったのかを、やや分かりにくくしている面があります。今回はその点に関して、簡単に3人の人物を取り上げて考えてみたいと思います。事件の首謀者とされたが、事件前に戦死した藤井斉海軍少佐。計画者である海軍中尉、古賀清志。そして犬養首相に弾丸を放った、実行者である三上卓中尉。この3人を中心に、彼らの思考を事件に即して紹介したいと思います。

陸・海・民間の3軍のクーデター構想

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