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小野耕資「二度の東京五輪が示す開発の害悪」(『維新と興亜』第7号、令和3年6月)

 オリンピック問題がかまびすしい。本稿執筆時点では、今年開催のオリンピックがどうなるか、不透明な状況が続いているが、実施するにしてもこのコロナ禍において無観客等で実施するオリンピックが歓迎されるものになるとは到底思えず、かといって中止すれば政権基盤に大きなダメージとなるため菅政権は中止したくないと考えているのだろう。
 前回昭和三十九年の東京オリンピックはアジアで初めて開催されたオリンピックであり、なおかつ有色人種圏においても初めて開催されるオリンピックであった。前号で坪内隆彦編集長により、対米従属に潜む名誉白人意識の指摘があったが、昭和三十九年のオリンピックはまさに日本が「名誉白人」として欧米に認められたという象徴的出来事であった。日本はオリンピックを開催した「功績」により「自由貿易」の象徴たるOECD(経済開発協力機構)への参加が認められた。そもそもOECDは第二次世界大戦後に疲弊したヨーロッパ経済を救うためにアメリカがマーシャル・プランを立案し、それの受け入れを整備する機関としてはじまったものだ。そこに日本が加盟したことは、欧米白人による資本主義社会に認められた意味合いを持ったのである。
 それだけではない。当時は高度経済成長の真っただ中であり、日本の敗戦復興を象徴するものとなった。オリンピックに合わせて東海道新幹線や首都高速道路が開通。各家庭にはテレビが普及した。明るい時代のようだが、その陰で忘れ去られたものもあった。ふるさとへの思いと伝統的景観の保護である。例えば日本橋は首都高速道路の建設により高架下に追いやられた。江戸の街道の起点である日本橋の歴史への配慮や美意識はそこには微塵もなかった。首都高によると、地下化により日本橋が高架下から解放されるのは二〇四〇年ごろの計画であるという。いまだに東京は経済効率だけの空虚な中心なのである。
 さらに静岡県と山梨県の境を流れる安倍川は絶景と言われる「三保の松原」を支える川だが、昭和三十九年の東京オリンピック開催の頃から建設用の土砂の採取で川床が下がり、「三保の松原」の海岸線に川から供給される土砂が減少したことで海岸浸食が起こってしまっている。それを防ぐために、「三保の松原」は消波ブロックだらけになり、美しい海岸線は殺されてしまったのだ。
 ところで昭和三十九年のオリンピックの前年には、インドネシアのスカルノが「新興国競技大会(ガネホ)」を開催していた。
 これはバンドン会議以降独立色を強める第三世界の輿論を背景に、スカルノがアジア・アフリカ各国のみでのスポーツ大会の開催を目論んだのである。しかし国際オリンピック委員会(IOC)は「政治とスポーツの分離」を理由にインドネシアに謝罪を要求。IOC参加資格を剥奪した。スカルノはこれに対抗してIOCを脱退。ガネホ開催に突き進んだ。IOCはガネホに参加した選手はオリンピックに参加する資格を失わせるという措置を発表。東京五輪が決まっていた日本は腰の引けた対応となり、参加した選手は少数にとどまった。日本人としてガネホに携わったのは、共産党系の新日本体育連盟と、頭山満翁の孫頭山立国氏が集めた選手団のみであった。立国氏はスカルノとも交友があったのである。こうした歴史はオリンピック開催に沸く中で裏面史となり忘れ去られていった。
 わが国は一回目の東京五輪では高度経済成長を通じ、日本人はカネと引き換えにふるさとと文化を失った。アジアを軽視し名誉白人的存在となる出来事でもあった。今年の二回目の東京五輪は、このままでは日本人はカネすら失い、経済的分断と共同体意識の喪失を象徴するものとなるだろう。こうした傾向に歯止めをかけるには、まずは二度のオリンピックに象徴される、開発に毒された日本人の共同体喪失の歴史を深刻に反省する所から始めなくてはならないのだ。
参考文献:浦辺登『アジア独立と東京五輪 「ガネホ」とアジア主義』

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