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小野耕資「原田伊織『昭和維新という過ち』の過ち」(『維新と興亜』第5号、令和3年2月)

昭和維新を否定する原田伊織


 原田伊織がまたやった。本年二月に『昭和維新という過ち』という本をSB新書から出版したのだ。これまで明治維新を批判的に取り上げていた原田が、今度は昭和維新批判を始めたのである。
 既に本誌同人は原田の明治維新論を強く批判し、その一端は坪内隆彦『GHQが恐れた崎門学』(展転社)の中にも所収されている。そこで今回は原田の昭和維新論を真っ向から批判しようと思う。
 だが、原田の当該書籍を繙くと、そこに並んでいるのは昭和維新に挺身した青年将校への悪罵ばかりで、それがまともな論理をなしていない。原田は、それまでの明治国家を長州テクノラートが作った天皇絶対国家とみなしておきながら、青年将校たちを狂信的な
天皇絶対信者とみなしており、原田の叙述ではなぜ青年将校が「維新」に打って出たのかが全く分からない。昭和維新が目指したものは薩長が創り上げた帝国憲法体制(天皇機関説)の全否定(天皇親政)なのだが、そうした基本的認識すらない。五・一五事件の理論的指導者である権藤成卿は支那事変の報道を聞き、「武弁遂に国を誤るか」と絶句したという。頭山満も満洲事変や支那事変には批判的であったという。そのあたりを原田はどう考えるのか。
 ともあれ原田の以下の記述には、追及する余地があるように思える。
 犯人三上卓作詞の「昭和維新行進曲」が大流行し、神性天皇賛美の空気の中で文部省は国定教科書を改訂し、更に天皇原理主義教育を推進した。
 言うまでもないことだが、三上卓作詞で当時の青年将校の中で愛唱されていた歌は「青年日本の歌(昭和維新の歌)」であって、「昭和維新行進曲」ではない。昭和維新の歌は五・一五事件の四年後の昭和十一年に禁止となっている。青年将校は尊皇には間違いないだろうが、「青年日本の歌」には「天皇」の文字は一切出てこない。原田はこのような基本的な前提も調べることなく悪罵を書き連ねているのだ。

愛国ビジネスの先駆けとしての「昭和維新行進曲」


 ちなみに「昭和維新行進曲」という歌は実在する。黒田進作詞・歌で、名古屋のツルレコードから昭和八年十月に発売されている。この曲は、『五・一五事件 血涙の法廷』というレコードに所収されおり、その中身は『描写劇 五・一五事件 血涙の法廷(海軍公判)』、『愛国歌 五・一五事件 昭和維新行進曲(海軍の歌)』、『愛国歌 五・一五事件 昭和維新行進曲(陸軍の歌)』の三部構成である。最初の描写劇は栗島狭衣脚色・総指揮・主演で行われ、当時の秘密資料を独自ルートで仕入れて、公判の様子を劇仕立てにしたものであった。
 このレコードがツルレコードから発売されるに至る仕掛人は、筒井二郎という人物である。そもそもツルレコードは「アサヒ蓄音器商会」のレーベルで、同商会は神島財閥と深いコネクションを築いていた。その神島財閥から当時は貴重品であったマイクロフォンを入手。音質の良さを売りにして一気に販売攻勢に出ていた。筒井もそんな好況のツルレコードに他社から引き抜かれる形で入社した。
 しかしそんなツルレコードにも暗雲が立ち込める。神野財閥の取引先である明治銀行が金融恐慌のあおりを受けて破綻。海外レコード勢の参入も重なり一気に経営危機に陥ってしまう。筒井等は焦った。何としても売上を出さなくてはならない。そんな中から生まれたのが「愛国ビジネス」の先駆けともいえる軍歌推しであった。しかもそれは本当に軍歌と呼べるのかも怪しい代物ばかりだ。ほぼ同じ曲を時局に合わせて歌詞を変えただけで発売したり、自由民権運動時代の歌を歌詞を変えただけで発売したりと、やりたい放題だったらしい。そうした出自の怪しい軍歌を粗製乱造することでツルレコードは命脈を保っていた。そんな中で特に力を入れて発売したのが、『五・一五事件 血涙の法廷』であった。だが総理大臣を銃殺したレコードを堂々と販売することに当局は目をつけた。『五・一五事件 血涙の法廷』は街頭で流すことを禁じられたり、ありとあらゆる難癖をつけられ、廃盤に追い込まれる。
 ツルレコード自体、満洲事変におけるリットン調査団を揶揄した「リットンぶし」に、「エロに見とれて脂下がり 脱線するとは情けない」とエロ歌謡的要素を入れたり、同じく『リットンぶし』でリットンを「ファッショ」とみなして批判したかと思ったら今度は『日本ファッショの歌』でファシズムを礼賛してみたりと、思想的一貫性のない、とにかく過激な言葉を使えばいいといった感じであった。こうした商売目的の時局レコードが他社からも発売されていたようで、当局が頭を痛めていたというのが実情だった。
 原田風に言えば当時は軍部が天皇絶対を国民に強制した暗い時代ということになるだろうが、実態は「コピペニセ軍歌」なる商売目的の民間の過激な言辞を当局が抑えていたのであった。

戦争を礼賛したのはリベラルだ


 歴史的に言っても原田のストーリーは全く間違っている。支那事変に最も積極的に賛成したのは、無産政党の後継たる社会大衆党である。社会大衆党は支那事変によって儲かり、飢えに苦しむ大衆の糧ができると積極的に戦争経済を欲した。
 また、原田は皇道派と統制派を区別する癖にそれを天皇絶対の同工異曲と見なす節があるが、皇道派は反薩長藩閥の側面があり、荒木貞夫は徳川縁戚の旧一橋家の家臣の家の出であるし、真崎甚三郎は旧肥前佐賀藩の出身であった。「薩長土肥」と俗にいうが、土佐と肥前は明治政府からパージされており、自由民権運動などの反薩長藩閥政府運動の主役ともなった。原田はそうした因縁を全く見ていない。また、統制派においても東條英機は旧南部藩の家の出身であるし、昭和になると藩閥の色はまだ残っているものの、明治時代ほどわかりやすいものではなかった。
 こんな小難しい御託を並べなくとも、原田の叙述はとにかく彼にとって気に食わないものを「カルトだ」、「狂っている」とわめいているだけである。同じ「江戸アゲ」と受け取られた本と比べても、例えば渡辺京二『逝きし世の面影』とは全く同列に値しない。戯言、妄言を並べていたのは、青年将校ではなく原田のほうだったというわけだ。
参考文献:辻田真佐憲『愛国とレコード』(えにし書房)

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