ISHIYA私観「平成ハードコア史」第2章〜#16 盛岡シーン

 第1章で出てこなかったバンドや出来事がまだまだたくさんあるのだが、俺が書いているコラムであるのに登場していないバンドがある。そう、DEATH SIDEだ。
 この第2章では、DEATH SIDEの話を中心に、様々な話を交えながらDEATH SIDEの歴史についても書いていきたいと思う。
 2019年の現時点でも活動しているDEATH SIDEだが、今のDEATH SIDEの話はまだ先になってしまうだろう。この章では第1期と言えるDEATH SIDEについて触れていきたい。そのため昭和の話もふんだんに出てくるはずだ。平成史と謳っているが、DEATH SIDEは昭和から活動を始めたので、そのあたりはご容赦いただきたい。
 様々なバンドとの関わりなどかなり数多くの話もあり、今まで世に出ていない話もたくさんあると思う。
 もし興味があるならば、連載する上での励みにもなるので、第2章も購入していただけると幸いである。

 第1章と同様、自分が体験したことでもないことで、馴れ馴れしくバンドに知ったかぶりをして話しかけても自己責任なので気をつけることを忠告しておく。
 昭和のハードコア・パンクの先輩たちがそうであったように、一旦中に入れば信じられないほどの優しさを見せてくれる日本のハードコア・パンクの人間たちだが、その壁は厚く高い場合があることを認識してほしい。そうでなくては、このコラムを続けることができなくなるかもしれない。

「#16 盛岡シーン」

 DEATH SIDEで初めて行った1987年のBLOODY SUMMER TOURで、最初に訪れた街が盛岡だ。初の全国ツアー初日にドラムが失踪し、車も壊れ散々なスタートとなったのだが、そのことは第2章#5 BLOODY SUMMER TOURに書いてあるので一読してもらえれば詳しく知ることができる。
 その盛岡という街にはライブハウスがなく、初めて行ったときも盛岡教育会館という大きなホールだった。当時の地方シーンではそういうことがよくあり、第2章#8の出雲でも、最初のうちは大きな市民会館のような場所でやったり、第2章#6マガジン「ただ俺を生かす力」第19回の広島でも、初めて行ったときには見真講堂という大きな会場だった。

 東京でも大きなイベントのときには豊島公会堂や中野公会堂を使用したり、SELFISHのイベントでは横浜教育会館、BURNING SPIRITSでも横浜西公会堂など、公的なホールでのイベントを多く行うことも、日本のハードコアシーンの特徴であった。

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30年以上に渡るバンド活動とモヒカンの髪型も今年で35年目。音楽での表現以外に、日本や海外、様々な場所での演奏経験や、10代から社会をドロップアウトした視点の文章を雑誌やWEBで執筆中。興味があれば是非サポートを!