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ツアーのススメ〜日本編

16〜17歳頃からバンドをやり始め、初めて東京以外の街に行ったのは大阪だった。

西成の近くにあったエッグプラントという素晴らしいライブハウスがあって、そこにOUTOが呼んでくれた。

メンバーみんなで車に乗って大阪まで初めて行ったときはワクワクと緊張と、色々なものが混ざり合って全く眠れなかったのを憶えている。

そのときは単発だったが、ツアーというものに初めて行ったのはバンドではなく、他のバンドのツアーに勝手について行ったものだった。

1980年代後半にSELFISHレコードから「THRASH TIL DEATH」というオムニバス作品が発売され、それに収録されていたGAUZE、LIP CREAM、SYSTEMATIC DEATH、OUTOが、名古屋〜大阪〜岡山〜広島などを回ったツアーに、S.V.Sという、当時SELFISHからシングルを発売したバンドがついて行くと言うので便乗させてもらった。

初めて行く土地土地で、初めて会う人間達と仲良くなり、友人が瞬く間に増えて行く。このときから現在まで友人である仲間はたくさんいる。

途中からGAUZEの車に乗り込み、S.O.Bのとっつあんと仲良くなったり、GAUZEだけが行った九州では白(KURO)とも仲良くなれて、その時代の日本のハードコアを支えていた中心のバンドもたくさん観れた。

このツアーについては、雑誌BOLLOCKSの連載コラム「ただ俺を生かす力〜ハードコアアンダーワールド」にも書いてあるが、様々な出来事があり「これがツアーというものか!何て素晴らしいんだ!」と思ったものだ。

このツアーに便乗させてもらったのが、確か1986年頃で、翌年の1987年には、LIP CREAMとOUTが全国ツアーをやるというので「ギャラなんか要らないから連れて行ってくれ!」と頼み込んで初めての全国ツアーを行った。

このツアーでは初日からドラムの失踪などがあり、急遽OUTOのみっちゅんにドラムを叩いてもらい、毎日少しずつ曲を増やして行ったり、OUTOもツアー直前にギターのカツミが怪我で来れなくなり、チェルシーがギターを弾くという波瀾万丈の初ツアーとなったが、良い思い出しか残っていない。

その後、毎年のように全国ツアーを行っていた。

LIPCREAM解散後は鉄アレイとBURNING SPIRITSを立ち上げ、夏に全国、春と秋には日本の半分を周るツアーをやり、毎年一年に日本を2周はしていたほどツアーに明け暮れていた。

俺たちが全国ツアーを周っていたときは、車に機材と物販を積み、毎日のギャラや物販の売上から交通費と日々の生活に必要最低限に少し足らないぐらいの金を分け、各地方のオーガナイザーや友人の家に泊まりツアーをやっていた。

夏でも寝袋は必需品だ。

その時代、1987年〜2000年ぐらいまでは機材車も自分たちで持っていたし、アンプやドラムセットも持っていて、ツアーに持っていっていた。その後何回も周っているうちに、アンプは壊れ、機材車も壊れるのでだんだんアンプはライブハウスのものに頼るようにはなって行ったが。

3バンドぐらいの大人数で周っていると、移動や宿泊場所も非常に大変だし、まとまるものもまとまらず、各自バラバラな行動などをしていると非常にやっかいなことになる。1バンドで行けば3〜4時間で住む移動時間が「なんでこんなにかかるんだ?」というぐらいかかることもある。

夏なので、暑さに耐えられず移動中に泳ぎに行ったりすることもあった。

鉄アレイと周るようになってからは、オフの日を設け、各地方で花火大会や、海や川でバーベキューを楽しんだりと、ツアーを満喫していた。

地方の泊まった家が実家だったりすると、朝飯が非常に美味しく、早起きの人間は家族の人とコミュニケーションをとっていたりする。

朝起きると、実家の食卓でお婆ちゃんとPUNKSが仲良く話しながら朝飯を食べている姿などはなかなか体験できることではない。

毎年必ず行く街で、必ず泊まる家などもできたりすると、その街に行きつけの店ができたりする。毎回その店に行くのが楽しみになっていたり、その家に行くのが楽しみになっていたりして、ツアーというものを続けてやることの楽しさは格別なものがある。

旅芸人やプロレスラーなどの地方巡業と同じだろう。違うのは帰ってきたら一文無しってところだけだ。

毎年来るのを楽しみに待っていてくれるお客さんや、ツアーで観たバンドやライブに衝撃を受け上京する人間もかなりの数がいた。

地方に残り自分の街でシーンを持続させる人間もいれば上京する人間もいて、それがまた地方と東京の繋がりを生み、相乗効果となって日本のシーン自体が活性化し盛り上がって行った。

そうやって20年以上毎年全国ツアーを周っていたが、様々な問題がありできなくなってしまったのが2004〜2006年頃だったと思う。

それ以降は海外で同じようなツアーをやって現在に至るのだが、日本全国を周るツアーをやらなくなってから既に10年以上経っている。

もう今は、全く金にならないどころか持ち出しになることもある全国ツアーを、一ヶ月かけてやることができなくなってしまった。

個人的に20代や30代の頃は、PUNKSが仕事をしたら「負け」だと本気で真剣に思っていた。

仕事をやりながらバンド活動をするなんて考えられなかった。実際仕事なんてしてなかった。

そんな無茶苦茶が出来てしまう20代や30代のときだからこそ、こんなに毎年全国ツアーができたのかもしれない。

メンバーの中には、ちゃんと仕事をしている人間もいたが、今考えると凄いことだと思う。

最初に日本全国ツアーを周った1987年のLIP CREAM、OUTOとのBLOODY SUMMERツアーは、今の俺を作ったと言っていい。

そこから始まった日本全国を周り続けるツアーを20年以上やってきたからこそ、世界に飛び出して行けたという確信がある。

その経験があったからこそ、この年齢になっても若いPUNKS達と海外のツアーでも対等以上にやっていけるんだと思う。

違う形でも構わないし、自分たちのやり方でかまわないから、今20代ぐらいの若い世代のバンドの人間には、是非連続して長い期間おこなう全国ツアーを体験をして欲しい。

若いくせに「仕事が休めないから…」とかみみっちいこと言ってんじゃねぇ!

おまえがやりたいことに言い訳してんじゃねぇ!

おまえの本気を試してみろ!

おまえの本気がどこまで伝わるかやってみろ!

俺は今でも世界でそれをやり続けている。


写真 DEATH SIDE、OUTO、NIGHTMARE、鉄アレイとのツアー。名古屋ハックフィン前にて。

30年以上に渡るバンド活動とモヒカンの髪型も今年で35年目。音楽での表現以外に、日本や海外、様々な場所での演奏経験や、10代から社会をドロップアウトした視点の文章を雑誌やWEBで執筆中。興味があれば是非サポートを!