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BURNING SPIRITS

DEATH SIDEをやっていた1980年代後半、鉄アレイと一緒に企画ライブをやり始めた。

当時鉄アレイのベースだったKATSUTAと俺が中心となってやり始めた企画が「BURNING SPIRITS」だ。

今では海外で「BURNING SPIRITS HARD CORE」というひとつのカテゴリーっぽくもなっている。日本で「ジャパコア」と呼ばれるバンドのことをそう呼ぶのか?どんなバンドを「BURNING SPIRITS HARD CORE」と呼ぶのかは、俺にはよくわからない。しかし、確実に俺のバンドはそう言われる。当たり前だが。

最初にBURNING SPIRITSと名乗ったのは確か1988年のゴールデンウィークに周った鉄アレイとDEATH SIDEのツアーからだったと思う。

その年の大晦日に、新宿アンチノックで毎年行なわれていたLAST BOMB/FINAL BOMBSのクマさん企画オールナイトGIG「BOMB OF BLAZE」を引き継ぎBURNING SPIRITSも、毎年大晦日にオールナイトGIGをやるようになった。

名前の由来は、プロレスだ。ブルーザーブロディが新日本プロレスに移籍したときに「猪木の目にバーニングスピリットを見た」というセリフから取ったものだ。

その後新日本プロレスでも、シリーズ巡業でバーニングスピリッツというのがあった。

俺が言い出したかのように思うだろうが、その案を言ったのはKATSUTAで、その場で即決した。今でも良い名前だと思っている。

その後BURNING SPIRITSは毎年夏に全国ツアーを行い、春と秋にも日本を半周するツアーをやっていたし、東京でもコンスタントに企画GIGをやっていて、年間にするとものすごい数のライブをやっていたと思う。

そうやってライブを続けていたが、DEATH SIDEがボーカルとギターの度重なる軋轢により、とうとう解散する。

そのときにKATSUTAは、ACCOMPLICE、GESHPENSTを引き連れ全国ツアーを行い、シーンの火を燃やし続けていた。

そこで途絶えなかったことは、今でもBURNING SPIRITSが続いている大きな要因だと思っている。

その後俺はFORWARDをやり始めるが、鉄アレイはBURNING SPIRITSを続行していてシーンも鉄アレイにより盛り上がりを見せていた。

復活した俺にもKATSUTAは声をかけてくれ、また鉄アレイと一緒に活動を共にすることができた。

まぁ俺も、鉄アレイはかなり好きなので、絶対に一緒にやろうとは思っていたが。

そしてまた鉄アレイとFORWARDでBURNING SPIRITSツアーをやるようになった。CHAOS U.Kともツアーをやり、ある夏のツアーでは、鉄アレイがAIR JAMに出演し、ツアー各会場もたくさんのお客さんが来てくれ、もの凄い盛り上がりを見せていた。

そうしてBURNING SPIRITSは続いていたが、その盛り上がりは鉄アレイとKATSUTAによるところが大きかった。

俺はそのころほとんど何もやっていなかった。それだけ鉄アレイとKATSUTRAの勢いは凄かったし、俺がやることなんか何も無いと思っていた。

すると、ある年の暮れに、KATSUTAが鉄アレイをやめるという話を聞いた。

そのことについて、ここでは何も書かないが、非常にショッキングな出来事だった。

俺は勝手に鉄アレイにKATSUTAが居るのは当たり前だと思っていたし、俺も一緒にずっとやって行くんだろうと思っていた。

そこに突然のKATSUTAの脱退なので、鉄アレイのメンバーの衝撃も相当な者があっただろうが、周りの人間も同じとは言わないが、それ相応の衝撃があった。

そしてKATSUTAはEXTINCT GOVERNMENTで活動し始めて、PUNK ADDICTをやり始めた。

その頃に俺もBURNING SPIRITSをやり始めたのだが、鉄アレイが活動をしていないので、FORWARDでBURNING SPIRITS としてやっていても、地方の観客や、それまで鉄アレイありきでBURNING SPIRITSを観ていた観客達の頭には「?」しか浮かばなかったようだ。それがライブを企画していても、ツアーに行っても良くわかった。

鉄アレイ、DEATH SIDEで一緒に企画をやり始め、DEATH SIDEが解散し、鉄アレイが中心となり続いたBURNING SPIRITS。その2バンドには同タイトルの曲もある。

KATSUTAは新たな道をやり始めてはいたが、毎年ハロウィンにはBURNING SPIRITSをやっている。

大晦日のBURNING SPIRITSは毎年続いていたが、俺が中心となったときにはKATSUTAが絡まないことも2年ほどあった。

KATSUTAはKATSUTAなりに、俺がどうやるのか、どうなるのか見ていたのだろうし、俺もそれまでKATSUTAに任せっきりだった企画を、自分でどうやって行くかを模索していた。

そうして現在に至るまで、ここには書ききれないほど様々なことがあったが、BURNING SPIRITSは続いている。

俺とKATSUTA、そして鉄アレイが存在する限り無くならないと俺は勝手に信じている。

そして、そうやって何人かの人間がいるからこそ存在し続けるBURNING SPIRITSが、海外でひとつのカテゴリーのようになっているんじゃないかと感じている。

ジャパコアと揶揄したような呼び方をしようが一向に俺は構わない。

ひとつのジャンルにまでなるってことは、誇らしいことだとすら思っている。

海外でジャパコアなんて言う奴はいないけどな。

それも日本独特なものだろう。揶揄的意味や侮蔑的な意味も「ジャパコア」と言うその呼び名に込められているのだろうが、俺達が名乗ったことなど一度も無い。呼びたければ勝手に呼べ。

俺達がBURNING SPIRITSだ。いつでもお前らを歓迎する。



写真 大晦日初企画BURNING SPIRITSでのアンチノック楽屋にて。たぶん…


30年以上に渡るバンド活動とモヒカンの髪型も今年で35年目。音楽での表現以外に、日本や海外、様々な場所での演奏経験や、10代から社会をドロップアウトした視点の文章を雑誌やWEBで執筆中。興味があれば是非サポートを!