COMITIA118試し読み!『ホワイトノイズと月の光』

10月23日のCOMITIA118の試し読みです!


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八月十五日(金)

 今日はぜんぜんおもしろくない日でした。どくしょかんそう文を書いてたら、ビッグ(ビッグはぼくがかっている犬です)に原こう用紙をクシャクシャにされました。ビッグは遊んでもらいたかっただけなのでビッグに悪気はなかったというのはわかっています。でもせっかくがんばって書いたのに……。おまけにきょねんハウステンボスで買ってもらった服に、ジュースをこぼしてシミがついてしまいました。けっこう気に入ってたから、すごくショックです。

 他にもあります。お父さんが、明日はスペースワールドに行くって約束したのに、とつぜん、からつにキャンプに行くって言いだしたのです。お父さんもお母さんもなんだか変にやさしくて、なんだか反対できなくって、けっきょくキャンプに行くことになってしまいました。ジュースこぼして服をよごしちゃったことはおこられずにすんだけど、キャンプなんて行きたくないです。

 あーあ、雨ふらないかなぁ。

*プロローグ

 規則正しい間隔で心地よい音を奏でる波の音、抱かれる腕のぬくもり。目が覚めるとそこは、母の腕の中だった。

 泣き疲れて眠っていたらしい。波の音に混じって母が小さく口ずさむメロディーが、そしてそのメロディーに合わせて背中を優しく撫でる母の手の感覚が、再び少年の目を潤ませる。少年は母の顔を見ることができずに、寝返りを打つふりをして海の方を見た。

 黒くどこまでも広がる夜の海に、月明かりに照らされた波がまるで生き物のように蠢き、岩に打ちつけている。月はまるで少年をたしなめるように、空から見下ろしていた。異常なほどに大きな満月が、涙でじわりと滲んだ。怒られても泣かなくなって、大人になったつもりだったのに、今は優しくされればされるほど、涙をこらえることができなかった。波の音と、母の歌声が、静かに溶け合って、夜の月の光に溶けていく……。

*帰郷

 久しぶりの故郷は想像していたよりも暑かった。駅に降り立った途端鳴り響くクマゼミの重厚なノイズ、蜃気楼でも見えそうなほどアスファルトのホームから立ち上る陽炎、八月の太陽は容赦なく佐賀の田舎町に熱を這わせていた。二年ぶりの凱旋に対しての歓迎としては少し手荒い。

 知らせを受けた時、洋介は「先を越された」と思った。小学生の頃からの友人である中村拓人が失踪し、数日後、海沿いにある唐津市の崖の上で拓人の車が見つかった。その後、自宅の部屋から遺書が発見されたらしい。遺体は見つかっていないが、状況から見て自殺ということなのだろう。一週間前、両親と仲があまり良好ではない洋介への久しぶりの母からの連絡がその訃報だった。

 洋介は毎日同じ日々にほとほと嫌気がさしていた。大阪のとある小さな弁理士事務所の事務員として働いているが、仕事は単調でつまらなかった。三十歳を目前に控えているにもかかわらず、日々何の目標もなく毎日同じルーティンワークをこなして人生を消化していく。そんな灰色の日々に突如舞い込んできた訃報に洋介はむしろ羨ましさを覚えたのだ。

 とはいえ、地元で起業して好きなことをやっているはずの拓人が自殺したという事実には戸惑いを覚えたのも事実だ。少なくとも、洋介の記憶の中の拓人は自殺なんてするようなやつじゃない。今回拓人の妻である真紀から遺書のことで相談があるとの知らせを聞いて、わざわざ貴重な盆休みを使って二年ぶりに故郷へ戻ってきたのも、拓人の死の真相が知りたいということがあったからだ。

 洋介は左手でメガネを持ち上げて顔の汗をぬぐった。少し伸びすぎて目に入る湿った前髪が不快だ。昼すぎの一番きつい夏の日差しが洋介の顔を射抜く。約束の時間を夕方にすればよかったと思いながら、ホームにある、「おおまち」と書かれた案内看板を、ポケットから取り出したiPhoneで写真に収めた。ピポッという間の抜けたシャッター音がiPhoneから響く。

 洋介の故郷は大町という町だ。昔は炭鉱で栄えた文字通りの大きな町だったらしいが、平成の大合併の波に乗れず、今や佐賀の中で最も面積の小さく何の特徴もない町となっていた。大町という町名は実態と不釣り合いなことこの上ない。昔は栄えていたと言われても、洋介の中でのこの町は、小町あるいは古町といわれたほうがしっくりくるような寂れた田舎町だ。

 駅に降り立った瞬間から、洋介はちょっとした違和感を覚えていた。久しぶりのはずなのについこの前来たような気持ちになる。故郷の包容力か、過去の膨大な記憶の残滓が洋介の脳内に働きかけるのか、理屈っぽく考えるのが癖の洋介の頭にはそんなフレーズが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返した。シワひとつないシャツの袖で顔の汗をぬぐいながら、こういうのを「デジャヴ」って言うのかなと洋介は思った。その違和感は人によっては心地よく感じるのかもしれないが、洋介にとってのそれは、良い年して学生服を着ているような恥ずかしさにも似た不快感だった。

 駅を出て大通りの突き当たりを曲がると、洋介が小さい頃は寿司屋だった建物は廃墟と化している。さらに進むと小さい頃と変わらず営業する肉屋の変わらない主人が、変わらない笑顔で挨拶をする。久しぶりに来て以前と変わったものと変わらないもの、その両方について、洋介はなぜか帰って来る前から既にあらかじめ見ていたような気持ちになる。

 洋介はその一つ一つを写真に収めて歩いた。洋介が写真を撮るのは、思い出作りとか、自己表現だとかそんな理由ではない。なんとなく、撮らずにいられないのだ。自分がたしかに存在し、どんな行動をとったかという事実を記憶というあやふやなものに任せておくことに、恐怖を覚えるのだ。記憶なんてあてにならない……そんな思いで洋介は何枚も何枚も写真を撮る。洋介のクセのようなものだ。

 洋介は駅から十五分ほど汗をぬぐいながら、聞いていた住所を入力したiPhoneを片手に歩き、ある家の前で立ち止まり、また一枚写真を撮った。

「二十代でこの家を建てたのか……」

 洋介は写真に収まった立派な二階建の庭付きの家を眺めながらそう一人呟いた。こんな立派な家を建てて、なぜ自殺なんか。

 洋介はiPhoneをバッグにしまうと、玄関の呼び鈴を鳴らした。

「はい」

 インターホンから女性の声がして、すぐに扉が開き、中からエプロン姿の若い女性が顔を出した。

「岡島さん、ですね。お待ちしてました」

 洋介は三年前の結婚式で一度その女性を見たことがあるはずなのだが、ほぼ初対面といってよかった。事前にもらった手紙によれば、真紀という名前らしい。長い黒髪を後頭部の上の方でくくった、大人しい、儚げな雰囲気の女性だった。すらっとした体型で、身長も日本人男性の平均身長くらいの洋介より少し低い程度だ。

 記憶はあやふやだが、以前に見たときはもう少し楽しげな印象を与える女性だったのに、と洋介は思った。クイズ番組か何かで見たモデル上がりの芸能人に似ていると思った覚えがある。

 その顔に落とされた影は拓人の失踪のショックによるものなのだろう。拓人が失踪したのがたったの一週間前なのだから、無理もない。洋介はますます、なぜ拓人が自殺したのか気になり始めていた。

 家の中に招かれた洋介は二階に続く階段のわきを通り、リビングへと案内された。立派な家を建てたんだなと感心するとともに、自分の現状と比較して複雑な気持ちになった。

「外は暑かったでしょう。急にお呼びだてしてすみません、本来駅まで迎えに行くべきところなんですが」

 クーラーで湿ったシャツが急激に冷やされて変な感覚だった。マナーとしては良くないと思いつつも、洋介は出された麦茶を一息に飲み干して言った。

「構いませんよ。お子さんの世話で大変でしょう。久しぶりの大町を懐かしみながら歩くこともできましたし……この度は、ご愁傷様です」

「ええ……どうしてこんなに小さな子を残していなくなってしまったのか……上の子もまだ五歳なのに」

 真紀は弱々しく微笑みながら呟いた。洋介の座ったテーブルの向かいに座るその横顔には悲しさが滲んでいる。隣の部屋からは時折赤ん坊のぐずる声が開いたドアを通じて漏れ聞こえてきた。

「さっそくですが、見せていただけないでしょうか。拓人くんが遺した、その、『手紙』というのを」

 洋介はあえて「遺書」という言葉は使わずに慎重に言葉を選んで言った。真紀は頷くと、背後の棚から小さな小箱を取り出し、蓋をあけた。何の装飾もないそっけない茶封筒が入っている。洋介の記憶では拓人は何をするにも明るく派手にやるやつだった。この茶封筒と拓人の笑顔を重ねるのはすごく違和感がある。

 真紀は封筒ごと、両手で洋介に手渡した。洋介が封筒から取り出したのはこれまた何の装飾もない白い便箋が三枚。雨かそれとも涙か、文字は少し滲み、紙はよれよれになってしまっている。洋介は神妙な面持ちでその便箋に目を落とした。

「真紀へ お前たちを残していなくなることを許してほしい。僕がいなくなったあとの会社のことは副社長に任せている。手続きについては知り合いの弁護士に頼んでおいた。連絡先は裏に書いておいた。最後に、小学校の頃からの友人の岡本洋介という男がいる。そいつに『大黒町の高木京子に会いに行くように。消防署の真向かいにある家だ』と伝えてくれ。本当にすまない」

 一枚目の便箋にそれだけが書いてあり、二枚目と三枚目は白紙だった。生前の拓人の姿からは想像もつかない、弱々しい震える字だ。

 遺書のことで相談があるとだけ伝えられていた洋介はその遺書を読んで困惑した。高木京子なんて聞いたこともない名前だ。「会いに行くように」と書かれているが、会って一体何をどうすればいいのか、さっぱり見当もつかない。

「高木京子という女性に心当たりはありますか」

 困惑する頭をなんとか働かせて、洋介は尋ねた。

「小さい町ですが、私には心当たりがありません。その手紙を読んで、家の前までは訪ねて行ったのですが、異様な雰囲気の古民家で、呼び鈴を押す勇気が出ませんでした……。岡島さんもご存じないのですか?」

 言えばわかる、とでも言わんばかりの文面であるにもかかわらず、洋介の困惑した表情を見てか、あまりに基本的なことを質問したからか、真紀の顔にも動揺の色が広がった。

「正直に申し上げて、私にも心当たりはありません。とりあえず、今から会いに行ってみようかと考えています」

 夫を失って失意にくれる未亡人にこれ以上の心配はかけたくないと思い、不安を覚えながらも洋介はなんとかそれだけ伝え、中村家を後にした。真紀は何か言いたそうな顔をしていたが、結局、何も言わなかった。遺書に書かれていた住所を目指しながらも、真紀の不安と悲しみの入り混じった顔が脳裏にこびりついて離れなかった。

*高木京子

 「大黒町」というのは大町町の中の地名で、中村家からは徒歩十五分ほどのところにある。小さい町の小さい区画なので大黒町の高木という家はすぐに見つけることができた。

 真紀は古民家といっていたが、お化け屋敷とでも形容したほうが正確だと思われるほど、古い家だった。家の周りには背の高い木が手入れもされず四方八方に好き勝手に伸びており、玄関がどこにあるのかを探すのすら一瞬戸惑うような有様であった。

「こんなお化け屋敷に住んでる女性……。正直なところ関わりたくはないな」

 洋介はこれまた何度もiPhoneのカメラでその家を写真に収めながらつぶやいた。

 洋介は意を決して、表札の隣にある呼び鈴に手を伸ばした。

 「……」

 確かに押しているのだが、なんの物音もしない。心持ち緊張していた洋介は拍子抜けしたような、安堵したような、複雑な心境だった。いないのであれば仕方がない。とりあえず今日のところは退散するか、と思い、予約した佐賀市内のホテルにチェックインするべく、ポケットからiPhoneを取り出しながら洋介は後ろを振り返った。

「うわあっ」

 洋介は情けない叫び声をあげて後ずさりした。いつから立っていたのか、赤いワンピースを着た女性が佇んでいた。長い黒髪を肩に垂らして、不思議そうな表情で立っている。顔を見ると、二十代前半ぐらいといったところか。眩しいからか目を閉じているが、正直かなり美人だと洋介は思った。昔会った誰かに似ているような気がするが、思い出せない。

「何か、私にご用ですか」

 凛とした声でその女性は洋介に話しかけた。

「ええっと、高木京子さんですか?中村拓人という人物にあなたを訪ねるように言われてきました。私は中村の友人の岡島といいます」

 徐々に平静さを取り戻した洋介はその女性が右手に長い棒を持って立っていることに気がついた。洋介はそれを町で見たことがあった。目が不自由なのか。洋介はとっさに判断した。

「中村さんの。初めまして、私が高木です。目が見えないもので、お声がけするのが遅れてびっくりさせてしまい、すみません」

 涼しげなハイトーンは洋介の汗ばんだ身体に清涼剤のように響いた。

「いえいえ、こちらこそ、突然訪ねてきてすみません」

「立ち話もなんですし、どうぞお入りください。鍵はかかっておりませんので」

 家の中は案外小綺麗だった。玄関入ってすぐは土間になっており、脇の棚にはキチンと手入れされた花瓶に花が挿さっている。ほのかな香りが洋介の鼻腔をくすぐった。京子は慣れた様子できちんと靴を揃えて土間から居間へと上がった。これまた綺麗な赤色のハイヒールだった。洋介もそれに習い、一年前に買って以来特に手入れもしていない汚れた革靴を揃えて居間へと上がった。

「すみません、すぐクーラーつけますね。改めまして、高木京子と申します。中村さんとは、一年ほど前から懇意にさせていただいております」

 洋介をテーブルに座らせて飲み物を用意してくれた京子はそう自己紹介をした。目が見えないとは、言われなければ中々気づくことができないほど軽やかに振る舞う。洋介は自分は拓人の小学生の頃からの友人であると簡単に自己紹介をした。喋りながら部屋を見回し、自分の一人暮らしのアパートの方がよっぽど散らかっていると思った。

「中村さんは、お元気ですか?近頃めっきり連絡がなくって。お元気かなと心配していたんです」

 どうやら、拓人が自殺したことは知らないらしい。洋介はためらったが、隠してもいずれ分かることだからと思い、今回訪ねてきた経緯も含めて、ゆっくり言葉を選びながら伝えた。

 京子はかなりショックを受けたようだった。開かない眼に涙がみるみる溜まっていった。洋介は別に悪いことをしたわけでもないのに少し罪悪感を覚えた。

「そんな……。あんなに明るい方が……なぜ……」

「僕にもわかりません。拓人くんが遺した手紙にあなたのことが書いてあったので、僕はここに来たんです。理由はまだわかりませんが……」

 洋介は京子の方に体を正面に向けて、まっすぐ京子を見つめて言った。

「僕も拓人くんが自ら命を絶ったとは正直なところ未だに信じることができません。彼とは古い付き合いだし、信じたくないというのが本音です。しかし最期の手紙で、僕にあなたに会いに行くように言っている。彼の意図が知りたい。辛いとは思いますが、拓人くんとの出会いから、話してもらえませんか」

 京子はしばらくうつむいて押し黙ったまま、身体を震わせていた。痛い沈黙。洋介が何か声をかけたほうがいいのか思いあぐねていると、京子は意を決したように顔を上げ、洋介のほうにまっすぐ向き直った。

「わかりました。何かのお役に立てるかわかりませんが、私の知っていることは全てお話しします」

 京子はぽつりぽつりと話し始めた。

「中村さんとは、中村さんの経営されているピアノ教室が主宰するコンクールに私が出演させていただいたことが、きっかけで知り合いました。私の演奏をとても気に入ってくださって、ピアノ教室で講師をやらないかと誘っていただいて。当時私は高校を卒業した後民間の企業で働いていましたが、祖母の世話もあり金銭的に余裕がありませんでしたし、子供達と触れ合うのも好きでしたから喜んでお受けしました」

 洋介はあまり広くない居間の片隅に置かれたピアノに眼をやった。ピアノには詳しくないが相当な年代物であるように見える。

「私、両親を事故で亡くしてからは、祖母と二人暮らしをしていたのですが、中村さんにはなにかとお世話をしていただきました。経営者という立場上、実際に教室で指導されることはないのですが、ピアノを専門に勉強したことがあるわけでもない素人の私が独り立ちできるよう、常々教室に様子を見に来ていただいたり、気分転換にとドライブに連れて行ってくださったり。祖母が亡くなった時も優しく声をかけていただいて、どんなに救われたことかしれません」

 京子は話しながらも度々声を詰まらせ、その度に外のクマゼミの鳴き声がやけにうるさく部屋にこだました。

「思えば、一週間前……ちょうど失踪された前の日は、教室に来られた時様子が変でした。教室を終えて一人で少しピアノを弾いていたらやけに慌ただしい様子でいらっしゃって。たしか、その日の夜から唐津の方で用事があるとかおっしゃっていたかと思います。教室が終わったのが二十時半で、それから向かうとなると二十二時近くになるのに一体何の用事だろうと思った記憶があります。それに、その日はかなり強い雨が降っていましたし」

 洋介はそのあたりに何かヒントがありそうだと思った。

「何か、その時気になることを言っていたとか、些細なことでも何か覚えていることはありませんか」

 京子は少し考えてから答えた。

「そうですね……海沿いの太良町という町に拓人さんの妹さんが住んでおられるそうなんですが、最近妹さんと良く電話されていたのを見かけました。何の話をされてたかまではわからないのですが……。あとは、えっと……」

 京子が続けていいものかどうか迷っているようだったので洋介は先を促した。

「本当に些細なことなんですが……。いつもきちんとされているネクタイをその日はつけておられませんでした」

洋介は聞いていいものかどうか迷ったが、思い切って訊ねた。

「失礼を承知でお尋ねしますが、ネクタイのことはどうしてわかったのです?その、見えないのでは?」

「私、眼が悪い分、耳がすごくいいみたいで。地味な特技なんですが、声の調子でネクタイをしているかどうか、わかるんです。亡くなった父とよく当てっこゲームをして遊んでいました。ちなみに岡島さんは今、ネクタイをしていますね」

 洋介は失礼なことを聞いてしまったかと思ったが、少しおどけた調子で得意げに京子は答えた。

「あたりです。失礼なことを聞いてしまってすみません」

 洋介が苦笑して答えると、京子は真面目なトーンに戻って、続けた。

「いつもきちんとネクタイをしてらっしゃいました。暑い日も寒い日も。サラリーマンじゃなくても、こういうところはきっちりしときたいんだっておっしゃっていたのを覚えています」

 洋介はしばらく考え込んだが、さっぱり何の手がかりもつかめない。いったい何の意図があって、拓人は、洋介が京子に会いに行くように仕向けたのだろうか。

「そういえば、もう一つ」

 京子は何か思い出したようで、手をポンと合わせて言った。

「中村さんはメモを取るのがあまり好きじゃないというのと、私が読むことができないというので、ボイスレコーダーでよくボイスメモを残しておられたんです。いつも教室の棚に入れてあるか、ご自身が持っていらっしゃるかのどちらかなんですが、ご自身が持っていらっしゃるときは点字で『持ち出し中』と書かれたカードを代わりに棚に入れてあるのですが……その日はどちらも入っていませんでした」

「例えばどんなことをボイスレコーダーに残していたんですか?」

「ただの連絡事項がほとんどです。次のレッスンの予定とか、レッスンのアドバイスとか……お忙しい方でしたから電話などでお話しできないことも多くて。あとは、ご自身のビジネスのアイデアを思いついたときに吹き込んだりされていたようです」

 洋介は考えてから再び質問した。

「ちなみに今はどこにあるかわかりますか」

「いいえ……結局その時以来見つかっていません。教室に落ちているということもないみたいでした」

 消えたボイスレコーダーは何か手がかりになりそうだな、と洋介は思った。

「話していただいて、ありがとうございます。一旦考えを整理してみようと思います。とりあえず、拓人くんの妹に会いに行ってみようかな」

 洋介は立ち上がりながらそういうと、コップに残っていた麦茶をぐいっと飲み干した。洋介は小さい頃、拓人と妹の響と三人で遊んでいたため、面識はある。正直なところ、どちらかというと内気な洋介は三つ年下の響とのほうがウマが合った。

「あの」

 京子は遠慮がちに洋介に声をかけた

「もしよろしければ、私も、連れて行ってはもらえませんか。妹の響さんにも良くしていただいて、面識があります。それに、中村さんには感謝しても仕切れないほどの恩があります。中村さんがなぜ自ら命を絶ったのか、私も知っておきたいんです」

 洋介は少し迷ったが、京子にも知る権利があると思って、承諾した。洋介は振り向いて京子の顔をじっとみる。洋介はあることを思いついて声をかけた。

「その代わりと言っては何ですが」

 京子はなんだろう、といった様子で首を傾げた。

「よかったら僕にも聞かせてもらえませんか?あなたのピアノの演奏を」

 拓人が好きだったという京子の演奏を洋介も聞いてみたいと思ったのだ。京子は少し驚いた様子だったが、パッと笑顔になって答えた。

「そんなことでよければ、喜んで」

 京子はピアノの前に座り、軽やかな手つきで、ピアノを弾き始めた。遠慮がちだが、軽やかで、踊っているようにも見えた。

 洋介は音楽には詳しくないが、こんなにも心が洗われるような感覚は初めてだった。外から聞こえる普段は不快でしかないクマゼミのノイズも、むしろ心地よく調和して響いている。まるでその空間全てがアンサンブルを奏でているかのように洋介の耳に流れ込んできた。そして何より、洋介はその曲を聞いたことがあった。家の窓から差し込む夏の日差し、日に焼けた自分の腕、汗をかいた麦茶の入ったグラス、その曲を優しく奏でる女性の後ろ姿……。そんなイメージが懐かしく洋介の脳裏に蘇る。

 しばらくしてようやく頬に涙が伝っていることに気づいた。京子には見えていないはずだが、洋介はなんだか少し恥ずかしく思って、顔を背けてこっそり涙をぬぐった。

 演奏を終えると京子は照れ臭そうに静かにピアノの蓋を閉じた。

「ドビュッシーの『月の光』という曲です。この曲を初めて聴いた時、私にも、月の光が見えたらなぁ……って思いました。私には見ることができないけれど、月の光ってどんなに美しいものなんだろうって。お気に入りの曲なんです」

 洋介は言葉を発することができず、拍手することで精一杯だった。音楽にここまで感動したのは生まれて初めてだった。

「そういえば」

 京子は椅子から立ち上がり、寂しそうな横顔でつぶやく。

「中村さんとお会いした時のコンサートでもこの曲を演奏しました。亡くなられたお母様のことを思い出したって、嬉しそうな、寂しそうな声でおっしゃってました。好きな曲だけど、自分では演奏しないんだとも。中村さんが演奏するこの曲も、聞いてみたかったな」

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