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「健康」をあなどらないで。 その2

 私達は「食べたいものを我慢してストレスになる」ことはかえって健康から離れる、と、漠然と考えている。だから、かなり厳密にプログラムが組まれた食事療法をするのはストレスフルだし、かえって健康から離れるのではないか。そんな危惧さえ抱いている気がする。どうしてそう考えてしまうのか、それが今回(「健康」をあなどらないで。その2)の主題です。

 「その1」でも書いたけど、ゲルソン療法というのは、「健康」というのを徹底的に「肉体的健康」の面からのみ追求する、「唯物論的治療法」です。ドイツの先輩シュタイナー(1861~1925)とか、フロイト(1856~1939)が心や霊性と病気とのかかわり合いに目を向けていたのに、20年ほど後輩であるゲルソン(1881~1959)が完璧な唯物論に戻ってしまったのは、「ホリスティック」という見地から見ると、「後退」でさえあるようにも思えるほどだ。

 現在、WHO(世界保健機関)でさえ、健康では「肉体的な見地のみでは測れない」という見地になって健康を定義しています。聞いたことがあるかもしれませんが、WHOは、健康を、次のように定義している。

「健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが 満たさされた状態にあることをいいます。 」 →参照元リンク・日本WHO協会

WHOの定義を初めて聞いた時は、私もとても画期的なものだと思った。これを初めて聞いたのは、1997年頃で、私は、さいとうクリニックにかかりはじめたばかりの頃で、「ドメスティック・バイオレンス」という言葉も初めてメディアで取り上げられるようになったし、「虐待」の種類にも「肉体的・精神的・性的・ネグレクト(育児怠慢・放棄)」の4つがあるといったように、人は、肉体だけでなく心も傷つけられる、という概念が、社会的に認知し始めてきたときだった。そうか、心が傷ついていることに気がついていいんだ、その考え方に、ずっと助けられてきた。

 それが、今あらためて、もう一度視点を切り替えて、「肉体的健康」というもののみに徹底的にフォーカスするようになって、「おおお~~っ」と驚くことが多いので、それがこれを書くモチベーションになっている。

 ゲルソン療法がこんなに細かく食事をプログラムを切り替えて、何をしようとしているかというと、もはや「細胞の再インストール」みたいなことだと思うのですが、それをやっていると、文字通り、身体の中で、細胞が、変化するのがわかる。体感でいうと、「もじょもじょもじょ」っと音をたてるというかそれが聞こえるというか。

 これが聞こえると、肉体的健康を改善・増進させるつもりで始めた療法であるのに、あきらかに、心が、精神が、そして社会的にも「満たされて」しまうことを感じる。

 この「もじょもじょ感」がとても気持ちがいいので、それを感じているかぎり、心理的ストレスは軽減される。軽減、というより、根本的な意味で解消されているのかもしれない。

 その表層的な現象として、その1 でも書いたように、自分とかかわる人の対応が、ストレスフルでなくなります。私は、人が、大事にしてくれない(ように見えてる)異性を選ぶのは同毒療法(ホメオパシー)だと思ってるので、「わ、よくきく~」と思ってそのまま受けて入れておきます。

 それよりなにより、人と関わることが否応なしに減ってしまうのだけれど(自分のお世話で忙しいから)、この情報化社会で、自分のセンターにのみフォーカスするのに忙しい、って、すばらしいことなのかもしれない。心を興奮させる情報やかき乱す情報の相手をしている暇がない。これってすごい!

 私の側からストレスを発現することがなくなるから、自分から向かい合った相手からもそういうものが返ってこなくなる。

 静かだ~、となるわけです。

「肉体的健康」を突き詰めると、心理的、精神的、社会的にも満たされていく、というプロセスは、こんな感じだ。そして、今までと違っている「満たされる」の感じは、「内側から満たされていく」ことの割合が、さらに強くなっている、ということ。

 WHOの定義を読んでみると、心理的、精神的、社会的に満たされる、というのは、外側から大切にされる、外側から満たされる、というイメージを持っていた。必要なケアが与えられること。それはもちろん大切なことです。

 でも、人はそれぞれの都合で生きているので、周囲があなたのケアをいつも満たされるかというと限界があるというか、いつもそうであることを保証できないんですよね。

 それに対して、内側から満たされてくれば、自分じゃないものから大切にされることを求める率というのが、どんどん減ってくる。どうしてかというと、自分じゃないものに求めるというのは確かじゃないから。自分で自分に満たせるのが、いちばん間違いがないから、ちょっと情緒のない言い方をしてしまうと、非常に投資効率が高い。

 ゲルソン療法トレーナーの氏家京子さんによると、「ユダヤ人迫害を逃れてアメリカに渡ったマックス・ゲルソンが、精神的要因と病気の関係について論じていないのはなぜか」と聞かれることがときどきあるそうだ。そういう問が出てくることはじゅうぶん納得できるけど、私が考えているそれに対する仮説は、「ゲルソンは、健康管理を徹底的に肉体的問題に落としこむことによって、心の問題を乗り越えようとしたのではないか」というものだ。

 ゲルソン厳格ミールを食べるかぎり、彼のそのチャレンジは、成功しているように思える。

 ポイントは、「もじょもじょもじょ」ですよ(笑)。

 その声が聞こえるように生きることをあなどってはいけないと思うので、書いてみた次第です。

この稿はこれで終わりです。

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