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日本財団の研究  第零話 与党と野党の向こう側

予見された「国民民主党の裏切り」

2019年7月下旬、参院選を終えた野党を応援する市民は、奇妙な安堵感につつまれていた。参院選で政権与党は、改憲発議に必要な3分の2の議席を割り込んだのだ。

しかし束の間の安寧は、いとも簡単に打ち砕かれた。安倍首相が国民民主党に改憲論議への協力を求めた事に呼応し、25日、玉木雄一郎代表が「私は生まれ変わりました」と豹変し、議論に応じるとともに首相への会談を申し入れたからであった。

参院選終了後たった4日での「寝返り」劇に、「元々自民党と示し合わせていたのではないか」という見方が広がったのも無理はない。さらに、国民民主党が参議院で維新との統一会派を模索しているとの報道(26日 日経新聞)もあり、市民の疑念は頂点に達した。

こうした中、国民民主党の人脈的背景と本性について簡単に説明した私の一連のツイートが注目されることとなった。

私の見解は参院選前から一貫して同じであり、国民民主党について一貫して批判してきた(たとえばこのツイート)が、これまで「陰謀論」であると揶揄されることも多かった。しかし、国民民主党の裏切りがあって、人脈的な背景にその原因を求めた人が多かったのだろう。

本稿は、参院選後の私のツイートを、大幅に膨らませたものである。ここで示すことの多くは、公式に当事者から公表された事実か、一次ソースに近い人の証言である。読者が事実関係をたどれるように、ソースにはリンクを張っているので、事実解釈を一つ一つ確認しながら読んでいただければと思う。

野党結集の檄文

2018年4月25日、日本財団会長・笹川陽平は、日本財団のWebサイト上にある自身の公式ブログにて、「「野党の議員諸兄へ」―今の姿は幼稚園生以下―」という文章を発表した。そこで笹川は、暗に野党によるモリカケ追求を批判しつつ、野党議員に対して次のように呼びかけたのだ。

政権交代を可能にするのが小選挙区制であろう。果たして野党議員諸兄には結集して再度、政権を担う覚悟と自信と気概をお持ちであろうか。今のままでは例え現政権を倒しても、次の政権も自民党から選出され、自民党の党是に従って国会は運営される。いわば何の展望も拓かれないのではないか。
野党議員諸兄。貴方たちの存在理由、政治目的は何なのか。今一度冷静に考え、国家・国民、ひいては世界の中の日本のために優秀な頭脳を発揮されるよう改めて期待する。(強調は引用者による)

野党批判よりも「再度結集して」という箇所に注目したい。ブログ記事が公開された時点では発表されていなかったが、翌4月26日は、民進党・大塚代表と希望の党・玉木代表が合流による新党「国民民主党」結成の合意書署名が行われたのであった。したがって、笹川のブログは、野党議員に対して「政権を打倒するために国民民主党の下に集え」と呼びかける檄文だったと解釈すべきだろう。実際、政権批判を行う野党と距離を取り、政策によって政権担当能力を示そうとする国民民主党の基本戦略は、笹川のブログに書かれた「野党のあるべき姿」と合致する。

笹川陽平、不可視の権力者

しかし、笹川陽平―日本財団と安倍政権の近さを知っている人にとっては、以上の事実は驚くべきものである。

上の写真に見覚えがある人も多いだろう。安倍晋三・小泉純一郎・麻生太郎・森喜朗が写った写真は、当時マスメディアで報道され、SNSで大いに拡散された。

だがこの写真のポイントは、「現役・元首相が4人勢揃いした」ことではない。彼らを自分の別荘に呼びつけ、そしておそらくはこの写真を撮影した当人である見えない権力者こそが、この写真の主人公である。つまり、日本財団の笹川陽平会長による自らの絶大な権勢誇示こそ、我々はここに読み取るべきなのだ。

2017年時点で安倍政権支持だった笹川陽平が、政権を見限り、翌年になって野党支持に回ったという訳ではない。2018年8月31日のブログ「『首相の夏休み』―緑陰の談笑―」にも、上述の元・現役首相4人に茂木敏充 経済財政・経済再生担当大臣と岸田文雄 自民党政調会長を加えた写真をアップしている。

2016年8月15日にも安倍首相が笹川陽平の別荘を訪問している(朝日新聞 首相動静)ことから考えても、笹川が上記ブログで言うように、彼の別荘に首相が集うのは「1年に1回、恒例」になっているのは事実なのだろう。

竹中平蔵と東京財団

話を国民民主党に戻そう。国民民主党のバックが日本財団であると私が主張してきたのは、笹川のブログだけが根拠ではない。
国民民主党の前進であった希望の党の人脈もある(後述)。また、日本財団が共催する「ハッピーMAMAフェスタ」に、唯一国民民主党が政党として参加していることもある。

最も重要なのは、党首・玉木雄一郎の出自である。玉木が2005年に衆議院選挙に出馬して落選した後、日本財団の下部組織である東京財団に研究員として在籍していた証拠がある。厳密な在籍期間は判明していないが、少なくとも、2007年から2008年にかけて在籍していたことは確認している。

奇妙なことに、東京財団研究員という経歴は玉木の公式プロフィールにも書かれておらず、また、現在の東京財団政策研究所の公式Webサイトで検索しても一切の情報は出てこない。

東京財団とは何か。その前身は、1997年に設立された民間・非営利のシンクタンク「国際研究奨学財団」で、日本財団・ボートレース関連法人等の支援によって設立された。1999年に東京財団に改組(東京財団政策研究所 About)したが、その当時の会長が日下公人、そして理事長が「あの」竹中平蔵である。

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