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わたしがものを買うわけ

三姉妹の真ん中、姉とは年子。
10歳以上年齢の離れた従兄弟や親戚が、近所に住んでいた。
当然のように幼いわたしにはたくさんのお下がりが与えられた。
お姉ちゃんとお揃いの可愛いお洋服、
おままごとセット、リカちゃん人形、
どこかパーツがない親戚のおもちゃ、
ゲームセンターでとったキャラクターのぬいぐるみ。
みんな良かれと思って与えてくれた。

自分で選んだ記憶はほとんどない。

誰かからもらったケーキの詰め合わせ。
「憂ちゃんはチョコレートが好きよね」
というみんなからの期待に応えるように、いつもチョコレートのケーキを食べた。
そりゃあチョコレートは好きだったけれど、おそらくショートケーキを食べたい日だってあったはずなのだ。


高校生や大学生くらいになって、
みんなが少しずつ自分のお金を手に入れて、
例えば誕生日なんかにはプレゼントの贈り合いっこをするようになった。
プラザの包み紙に包まれたバーバパパのティッシュケース、
小さなバラがモチーフのネックレス、
文字盤にエッフェル塔が刻印された水色のバンドの腕時計。


わたしの周りにはいつだって、
たくさんのモノと、誰かからの愛があふれていた。

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大学生のわたしはそれなりに、自分のことが嫌いだった。
いつも他人に合わせて生きる習性が身についていて、それでみんな幸せに生きてきたような気がしていたから、「自分」というものが全くなかった。

初めての一人暮らしの部屋に帰るのも嫌だった。
間に合わせで買った、ニトリで一番安い薄い黄色のカーテン、
水玉模様の百円均一の食器、薄い枕、カラーボックス。
誰がここに住んでいるんだろう?
わたし?
考えるのもとにかく嫌だった。
あまりにも嫌で、友達や恋人の家に入り浸ったり。
自分よりも、自分で選んだモノよりも、みんなわたしに優しくしてくれた。

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最初に買ったのは、ベッドだっただろうか。
無印良品の脚つきマットレス。
家に帰りたくない不摂生な暮らしをしていたわたしは、身体も少々限界だった。
「まずは睡眠を確保しないと、人間はそこからだ」
そんな思いで、アルバイトで貯めたお金で買った。
羽根入りの枕とベッドリネン、送料も入れて、そこそこの出費だった。

足つきマットレスは、豆腐型の白い塊。
小さな部屋には大きな存在感だった。

けれど、その存在感に負けない寝心地を足つきマットレスは提供してくれた。
身体がちょうど良い具合に沈んで、痛くない。
当時マットレスなんて実家でも使ったことがなく、硬い木枠のフレームベッドにせんべい布団で寝ていた私。
ふわふわの雲の上だ。
これは天国じゃないかと思った。

単純な私は、家で寝るのが楽しみになった。
あのベッドで寝たいから自分の家に帰ろう、と思うようになった。
眠りにつくまでが幸せな時間に変わった。
愛すべき微睡み。
愛すべきやわらかさにつつまれる。
大げさかもしれないけれど、はじめて、自分で自分を愛した気がした。
これは紛れもなく、私が自分のために買った、これからよりよく生きていくための道具だ。

たかがベッドひとつ。
けれど、そのときからたしかに、変わった。

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「ものを買う」ということは昨今ではスマートではないのかもしれない。
消費社会へのカウンター、
ゴミ問題、
シェア社会。

共感するところもある。
けれど気をつけたいのは、それらのイメージも「ものを買う」という行為の一側面に過ぎないということ。

「ものを買う」ということは、単なる消費行動では収まりきれないことがあるとわたしは考えている。
頭や感性をフルに使って自分と向き合って、ものを買う、ということは
自分自身を客体化することにもつながるし自己理解にも繋がるはずだ。

あるいはわたしのように、たかがベッド一つであれど、自分が強い思いを持って買ったものは、自分の生の方向性を左右することだってあるかもしれない。
真剣にモノを選んだ時の自分の気持ちや決意というものは、何年経っても褪せない。
そのときの小さな決意が、その後の人のモチベーションになり続けることだってあるだろう。

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わたしはものが好きだ。
わたしはものに思いを巡らせるし、
わたしはものを選ぶし、
わたしはものを買う。

ものを知るため、
ものを生んだ人々を知るため、
ものを買う人たちの気持ちに思いを巡らす、
そして自分自身を知る。
ものを買うことは、わたしが生きる動機になっている。



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