ファミリア・ストレンジャー

北陸の水の豊かな町で暮らしていた頃、市街地を流れる幾本もの小さな川のひとつに沿って歩くのが日課だった。どんな由縁があるのか奇妙な名前のついたその川は、はるか山脈の濡れた襞の奥深くから流れ出して、三メートルにも足りない川幅一杯に水流を迸らせている。普段は浅く清らかな川で、橋の上から見下ろすと幾匹もの鯉が流れに逆らうように佇む様子が見える。ところが、一旦大雨となれば石を積み固めた堤の際あたりまで濁流が盛り上がり、時には決壊し水害をもたらすこともあるのだという。そのせいか、川沿いには水と水の神様を祀った祠が点在していて、手水舎の傍らの泉の水を汲みにくる人々で賑わうところもあった。そんな祠で僅かばかりの賽銭を投げ、用意されている線香をあげて、春には桜の美しい舗道を歩くのはささやかな楽しみだったが、それが概ね決まった時間になるのは、歩いて三十分ほどのところにある温泉施設の開館に合わせたからだ。ただ何となく、それが習慣になった。桜並木と舗道が途切れた先の、五、六階建てのビルが建ち並ぶよくある地方都市の町並みも、足下にあの奔流が秘められているのだと思えば悪くはない。秘められたものを知りながら何食わぬ顔で歩き続け、やがて、数年前の人身事故の目撃者を捜しているという色褪せた立て看板のある交差点のあたりまでくると、踏切の遮断器が下りて電車の通過を知らせる甲高い音が聞こえる。踏切のすぐ隣が駅舎のないむき出しの改札とホームになっていて、かなり長い時間その音は鳴り続けているのだったが、大抵は交差点から踏切まで歩く途中でそれは止んだ。遮断器があがり、車と人が動き出す。おそらくは今しがた電車から降りたであろう数人の人の群れがごく自然に解けたあたり、交差点と踏切のちょうど中間くらいのところでいつも彼女とすれ違った。


彼女は今日も笑っていない。電車を降りて職場へ向かう道でわけもなく笑っている人間などいないだろうが、そうではなく、「一度も笑ったことがない」ような表情をしている。不愛想な中年男が人のことを言えた義理ではないのだが、そこには、悲しいとか寂しいなどという一過性のものとは違う影が滲む。不美人、では決してない。むしろ整った顔立ちの、素敵な女性だ。長い髪は無造作にひとつにまとめ、化粧も服装も上品だが地味過ぎるほどではない。好ましいのはよく手入れの行き届いた低めのヒールで、小ぶりな踝が愛らしかった。彼女に足りないのは、笑顔だけだ。彼女の笑った顔を見てみたいと、いつからかそう願うようになった。もしも彼女が笑ったら、飛行船が弾けるような劇的な変化を世界にもたらすのではないか。いや、大袈裟ではなく。


彼女が歩いてくる。仲のいい同僚と会っておはようと挨拶をする。

「ねぇねぇ、昨夜あれからどうなった」

「昨夜って」

「とぼけちゃってぇ」と、軽く肩を叩かれ恥じらいながら微笑んだ。

彼女が歩いてくる。今日は書類袋を大事そうに抱えて少し眠そうだ。通りの反対側から誰かが誰かを呼んでいる。彼女が気づいてそちらを見る。彼氏だろうか。嬉しそうに大きく手を振るその顔が俄かに、そして鮮烈に輝く。

彼女が歩いてくる。

「おはようございます」と、見知らぬ男に挨拶されて彼女は怪訝そうに、

「えっと…」

一瞬だけ立ち止まりかけたもののすぐに急ぎ足になって通り過ぎようとする。

「ちょっと待って。怪しいものじゃないんです。よくここでお会いするものだから、いや、それで僕、ずっと思っていたことがあって」

「なんですか、警察呼びますよ」

「いや、本当に、ナンパとか、危害を加えたりするつもりはないんです。ただ、一度だけ」

あなたの笑顔を見てみたいのです。それだけ言うと、男はじっと彼女の目を見る。彼女も目をそらさず、やがて忘れていた息継ぎを再開するかのように吹き出した。

彼女が笑った。一度笑いだしたらもうとめどなく笑い続けて、始業時間が迫っているはずの忙しい朝からこの一瞬だけがすっぽり抜け落ちてしまったかのように。


けれども、そのようなことは金輪際、一切起こらず、彼女とすれ違う日々は唐突に終わってしまう。おそらくもう二度と、彼女に会うことはない。彼女の笑顔は生涯見られないだろう。世界に劇的な色彩がつくような瞬間はとうとう訪れず、淡々と、日々が過ぎていく。だが、それでいいのだ。彼女はあの町のどこかで、きっと幸せに暮らしている。誰かを幸せにする笑顔を零れんばかりに咲かせているに違いないと、暗渠の奔流を想像するように、今はもう何かと騒々しい別の街の交差点で立ち止まる。そんなふうに誰かに思われていることなど、もちろん彼女は知らない。

そう、誰も何も知らない。







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