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日本で暮らす自分の目に映る、アジアのインディバンドが放つ自由。世界で今注目される理由。

タイ旅行記はほとんどカズマが書いたものなんだけれど、一部「アジアのバンドの全体的な特徴をまとめてくれ」と言われ、アジア音楽の魅力を改めて言語化してみた。今まで漠然と世間の熱を感じていた分野ではありつつ、もやもやしていた部分もあったので、今回改めて言語化できたのは良い機会だったと思う。

これを書いた日はタイのバンドのプレイリストと睨み合いながら、一日中作曲作業とライティングを交互に続けた。

複雑なコードを弾き続けて疲れた作曲作業を中断し、タイ土産のお香に火をつけて、改めて4000km離れた愛すべき国の音楽を再生することにした。

今、世界中の各音楽メディアやリスナーが「アジアンインディミュージック」という括りで韓国や中国、東南アジアから生まれる音楽に注目している。

彼らの音楽は、欧米や日本の音楽の語法をうまく取り入れながら、彼らの生活圏を表した湿度とリアリティのある音を両立する。聴き馴染みのある音で惹きつけながら、同時に我々の生活圏では感じることができない新鮮な空気を漂わせるという両面を実現しているからこそ下されている評価である。

語弊を恐れず言えば、音楽的に高度で複雑なサウンドプロダクションが施されている箇所は多くはないと思う。だけれども生のギターサウンド本来の良さを引き出した隙間のあるフレージングや、自然に体が揺れるローファイなビート、エンターテイメントとしてのキャッチーさを優先しすぎないことによって生み出された心地の良いボーカルワークなど、生理的に気持ちが良いサウンドが特徴だ。

ここで一度、視点を我々日本の音楽に置いてみる。飽くまで主観だが、日本での音楽の立ち位置は生活から少し遠すぎる気がする。ハウスショーやレストランでのライブが盛んに行なわれている国と比べて大音量での生演奏は文化に浸透していないし、ベッドタウンから都市へ仕事に出るライフスタイルや東京一極集中が進み、狭い場所を譲り合って暮らしている現状からか、大きな音を出して楽しめる場所が少ないようにも感じるのだ。そして日本の音楽は生活の中で役割をもつ(例えば癒しだったり、不満のはけ口だったり)ということよりも、エンターテイメントとして見やすいかどうかに比重が置かれすぎているような気がしてならない。

この音楽と生活の距離感の違いが、グローバルな音楽シーンの中の日本音楽のガラパゴス化を進める要因のうちの1つになっているのかもしれない。実際に日本では”洋楽離れ”も進み、海外のアクトがアジアツアーの会場から日本を外すということが当たり前になってしまった。

少し話が逸れてしまったのでタイでの出来事に話を戻そう。

些細なことではあるが、タイの当日の会場で「転換中にお客さんが揃って床に座りはじめた光景」や、「お客さんもステージの袖に自由に入っている光景」を目撃した。日本では大型イベントやフェスでしか見られない光景だ。また日本では考えられないほど安価なタクシーが主な交通手段となっているため、閉演も0:00過ぎ。終電を気にして焦ることなくタクシーに乗っていくお客さんを会場から見送った。

こういう自分の生活圏とは違う自由さや心地の良さは音にも表れて、日々東京の満員電車の中で疲弊する自分に新しい自由を感じさせてくれている。これが欧米諸国や日本のメディア、リスナーがアジアの音楽に惹かれる理由なのかもしれない。膨大な情報が無限に往来する成熟した社会の中で、自分は無意識に新しい「自由」の形を求めたのだ。

今までもやもやしていた彼らの音楽の「自由」という魅力、日本のシーンへの危機感が頭の中で膨らんできたところで、ちょうどお香が消えた。俺も難しく考えすぎるのはやめてラフに呼吸してみよう。そう思って目を閉じてゆっくり大きく呼吸した。それからもう一度ギターを手に取り、一番好きなadd9コードをめいっぱい鳴らした。


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