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感情に向き合い自分の軸で運用する人と、そうじゃない人

すべての問題は人間関係に依るものだとアドラーは言ったし、本当にそうだと思う。人とどのように接すればいいのか、どうしたらより良い関係を築けるのか、どうしたら好きな人と多くの時間を過ごし、苦手な人との時間を減らせるのか。人間関係に関する悩みは尽きない。

世界は新しい出会いで溢れている。単に見知らぬ人と出逢うという意味合いもあるし、すでに知り合っている人の新しい一面に触れることも一種の出会いだと捉えられる。毎日顔を合わせているような人でも、過去にどんな挑戦をしてきたのか、どんな考えを大事にしてきたのか、どんな恋愛をしてきて、どんな心の闇を抱えているのか、実は知らないことのほうが多かったりする。だいたいの場合、今日のランチはどうしよう、あそこのお店の麻婆豆腐は美味しいよ、いや今日は担々麺にしよう、といった具合に、他愛もない話が会話の多くを占めている。もちろん、それはそれで日常を楽しむ素晴らしいコミュニケーションだけれど、どうせなら内面をさらけ出すような深いコミュニケーションもしたいものだ。その両輪が回るコミュニケーションを取れることこそ、信頼をベースにした人間関係なんだと思う。

とはいえ、腹を割って話す関係になるのはとてもむずかしいものである。昨年も自己開示の難しさに関するブログを書いたけど、やっぱりまだまだ先は長い。

好きだと言葉にするだけなら簡単だ。難しいのは、それを本当に心で感じ、勇気を出して相手に伝えることの方だったりする。

最近考えていることとして、感情表現の苦手さとは、ボキャブラリーがないとか人見知りとかそういった話ではなく、自分の感情に向き合い切れていないところに原因にありそうだなあというのがある。ある人のことをもっと知りたい、あるいは関わりたくないと思う。そういった感情に対して、いったいどういうことなのか、なぜ自分はそう感じているのかを考えることで、やっと自分が人に対して抱えている感情の全貌が見えてくるはずだ。

けれど、むき出しの自分の感情に向き合うことには抵抗がある。もっというと怖い。その感情に向き合うことで、その人のことを実は興味ないと思ってしまう自分がいやしないか、その人自体のことは好きじゃなくてただその人の実績や考え方に興味を持っているだけという自分がいやしないか、そんな自分ってめちゃくちゃダサくて周りからしたらあんまり関わりたくないタイプの人間なのではないかと思われやしないか。そういった自分に向き合えないのがボトルネックな気がしている。

逆に言うと、感情表現が得意で人と深いコミュニケーションができる人は、自分の感情に素直でそれを一定のマイルールに則って運用しているんだと思う。まず感情に向き合い、こう感じたらこういう対応をする。違うように感じたらルールに沿って違う対応をする、というように。それに加えて、しっかりとした判断軸を自分の中に持っている感じがする。マイルールを作るのも、感情に向き合うのも、その時点では他者の目や気持ちは介在せず、自分の責任で向き合っている。判断軸を持っていないと、感情に向き合えずに相手や周りに合わせてしまうから、これは大きな違いだ。

多分、以前のブログで書いたように人に好きと伝えるとかそういった話は、感情と向き合い運用を回したあとのアウトプットの話で、外に出すまでに自分の中で処理をしないと、信頼関係を元にした深いコミュニケーションはなかなかできないんだろうなあ。

だからいまは、新しい出会いを求めていくとかそういうのよりも、これまで出会った人たちに対して感じることと素直に向き合い、ちゃんと伝えていくことから始めていこうと思います。

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