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そういえば、パリどうだったの?

パリ旅行から1ヶ月、たぶんこの1ヶ月で会ったほとんどの人にパリの話をしているし、インスタもツイートもパリ好きであふれるようになっている。

最高すぎた。なにもかもが。街の喧騒や行き交うパリジャン・パリジェンヌ、歴史を感じる建造物から、汚い地下鉄や観光客に優しくしない駅のスタッフまで、全部ひっくるめて大好きだった。

前も書いたように、パリは10歳の頃からの夢だった。パリに行くことを決めてからの2,3ヶ月はパリへの期待値がどんどん上がっていき、本当に好きなんだなと感じていた。


とはいえ、いろんなところでパリの評判は聞いていた。行ってみたら実は大したことないよ、とか街汚いよ、とか人優しくないよ、とか。だから、期待値を上げすぎるとがっかりしてしまうと思い、実はパリに向かう飛行機の中では必死に期待値調整を行っていた。「パリって言う割には実はたいしたことないのかもしれない」「ぜんぜん、ホーチミンとかの方がいい説あるぞ」とか。そうして、パリに着いてがっかりしないように自分に言い聞かせていた。この技は、アンコールワットやハロン湾に期待値を上げすぎた人生初めての海外一人旅のときに学んだ処世術である。

期待値を下げてから行くと、良かったとしてもよくなかったとしても心理的ダメージは少ない。ぼくはこのパリ旅行にいろんな想いをかけていたので、どうしてもがっかりするわけにはいかなかった。そして、夜にシャルル・ド・ゴール空港に着いて現地に住むロシア人の家に泊まらせてもらい、次の日にメトロでChâtelet駅に向かった。

それは、パリだった。ぼくが思い描いていたパリ。夢で何回も行っているパリ。テレビや旅行本で何百回も見ているパリが、たしかにそこにはあった。

期待値調整を行っていったので、「どうせディズニーランドみたいなもんでしょ」みたいなことを思いつつ街に出たのだが、もう全然違った。歩けど歩けどそこはパリで、細部に至るまで全部パリだった。

テンションが上りすぎて、とにかく写真をたくさん撮り、歩きまくった。まさか夢にまで見たノートルダム寺院の中にいるとは、まさか凱旋門の上にのぼっているとは、まさかオルセー美術館のモネやルノワールの絵画をこの目で見ているとは。


もちろん、いいことばかりではなかった。初日から駅でチケットを無くし、改札から出られないというトラブルがあったり(結局ダンディなおじさまと同じタイミングで改札を出て事なきを得た)、パリ北駅で預けた荷物を取り出せなくてスタッフに全然助けてもらえなくて戦慄したり(騒ぎまくってどうにか助けてもらった)、一筋縄ではいかなった。

でも、それらも経験したあとは全部ポジティブな記憶へと変換された。夢はすべていいことばかりじゃないし、むしろそうしたトラブルにぶつかることで現実味を帯びはじめ、「夢」から「実際の体験」に変わったからだ。

夢は、夢のままにしてはいけない。行きたい場所があるなら行けばいいし、やりたいことがあるならやればいい。ぼくは、パリに行きたいという夢を10年以上持ちつつ、半ば逃げていた。そう簡単に叶えてしまったら夢じゃないと思って、学生時代は見ないふりをしていた。

でも、このタイミングで行き、夢を現実にしたことで、また次の夢が見つかった。今度はパリに住んでみたい、住めなかったとしてもフランス中をゆっくり旅して、心ゆくまでワインやチーズ、風景や人との楽しい時間を過ごしたい。夢を夢のままにしていたら、次の夢は見つからない。現実化する前提を持つからこそ、それは追っていきたい夢だと言える。プラス、本当に心が喜ぶことをすると、幸せというものを直に感じられる。これはこれまでにあんまりない不思議な感覚なのだけれど、パリに行ったことで確信に変わっている。やはり人は自分の心には逆らえないのだ。

ぼくにとってパリとは、夢の場所でもあり、すでに行ったことのある都市のひとつに変わった。それでも、パリへの想いは枯れず、あの場所へ行けたことを心から誇りに思っている。

いつか◯◯に行きたい、とか◯◯をやりたい、と言っている人には、本当にすぐに計画を立てて実行してほしいし、その支援だったら、惜しまずにやっていきたいと心から思う。


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