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演劇ユニット #willow_s 3rd performance 『ハムレット』

演劇ユニット #willow_s 3rd performance 『ハムレット』初演と7公演目を観劇。willow’sの評判はかねがね聞いており、ついに観劇することが叶った。非常にレベルの高い舞台だった。シェイクスピアの『ハムレット』に触れたことはあっても実際に舞台を見たことはなかった。この舞台がその一本目で本当に良かったと思う。舞台セットは着色のない角材で作られた様々な大きさの直方体の骨組みで構成され、現代風のキャストの衣装からは色以上の情報はほぼ感じられない。照明や音響も必要最低限。演技とテキストで勝負するという姿勢が伝わってきた。シェイクスピアの舞台は様々に観てきたが、これほどにシェイクスピアのテキストが素直に心に入ってくる舞台を観たことはない。以前、演出家の西沢栄治さんが、シェイクスピア劇の観客はシェイクスピアのテキストを浴びに来ているというような話をされていたが、それがふと思い出された。技量の高い役者が集まっていることはもちろんなのだが、セリフを伝える能力に関して特に長けているような印象を受けた。相当考えた上での成果なのだろうが、尊敬せざるを得ない。
ともかく言えるのは、この舞台は総合的に私個人の好みに合致するということである。
メインビジュアルからそもそも好みであった。以前メインビジュアルが出た際には、「遊んでいるのだか、深い意味が込められているのだか分からなさすぎるのが好きすぎる」というようなことを述べた。メインビジュアルの意味については、初演の1番最初のシーン。ハムレットと父親が二人で将棋をしている瞬間に自分の中で正解らしきものが出た。ハムレットが食べているのはおそらく鍋で、おそらく鍋のサイズは一人用ではない。父と共に食べていた鍋を一人で食べるハムレット、という解釈ができる。演出のコメントの中に、『ハムレット』は家族がテーマだとあった。正直、そういう視点で捉えたことがあまりなかった。シェイクスピアの戯曲は現代の通じる人間の本質を描いた名作であるとはいえ、400年前と今では価値観が違う。故にしばしば起きるのは、感情移入をしきれないということである。それを、冒頭、親しそうに将棋をするハムレットと父親のシーンを少し入れることで解決した。観客が当然に抱いているであろう肉親への愛慕を喚起させ、『ハムレット』を観客のものにした。冒頭のシーンは、初演と7公演目で印象の変わったシーンの一つである。あくまで印象だが、初演では二人が互いに微笑みながら将棋を指していたのに対し、7公演目では両者真剣な面持ちであった。どちらも良かったが後者の方がより良かった。本当に親しかったら、日常の中ではそれを表情に出すことは稀有であろう。普通の顔をして、何気なくずっと一緒にいて肩を寄せ合っている。あえて分かりやすくせず、リアルさを取りに行っていたという印象であった。初演と7公演目で印象が異なっていたのは、やはり冒頭の関連か、ハムレットの父および亡霊の演技だった。初演の亡霊は、絶対的な亡霊という感じで、感情を可能な限り排除し、重々しくハムレットにのしかかるというような印象だった。しかし、7公演目の亡霊は、あくまでも印象だが、人間的な亡霊となっていた。父としてハムレットに語りかけているような印象があり、ハムレットに圧力をかけるのではなく、情に、心に訴えて「悪逆非道の殺人」への復讐を望んでいるように見えた。どちらも良いのだが、個人的には7公演目の方が冒頭との符合が感じられて気持ちの良い感じがした。役者持ち前のオーラを遺憾なく発揮し、強烈な印象を残しており、ブルータスに引き続き流石としか言えない。
個人的に好きだった登場人物は墓掘りだった。この舞台の中では異色の存在なのだろうが、語り口から動きから演技からコミカルかつ洗練されていて、観ていて楽しかった。初演よりも7公演目の方が動作や工夫が増えていて面白かった。ある意味観客の我々の感覚に比較的近い感覚を持っている登場人物であるから、そこに親しみを感じられたのは大きかったように思う。もう一つの役では二つの役を一人で演じるなど、この話の重さを和らげるとても良い存在となっていた。
役者個々を褒めればキリがないほどに演技のレベルは高かった。
王妃ガートルードは落ち着きながらも高貴な美しさを醸し出しており王家の女性としてのリアルさがあった。一方で母として苦悩する時には人間的な弱さが垣間見えて人間としての深みもあった。
オフィーリアは、男性キャストが演じると知った時には驚いたが、実際に見ていると全く違和感がなく、特に父の死で狂ってしまった後の重々しさをみていると、むしろ今回はこれが正解なのではと思わされた。
王クローディアスは、話す言葉の柔らかさ一方でたたえる鋭い眼光が、狡猾な性格の持ち主であることを上手く示していた。
ポローニアスは、話のくどい老人というイメージそのままの立ち居振る舞いで、レピダス役に続き老人役が上手すぎる役者だなという印象を受けた。
ホレイシオは、良い塩梅の引き立て役になりつつも決めるところはきちんと決めていく、非常にバランスの良い演技だと感じた。旅役者も演じられていたが、表現者としての独特の雰囲気が醸し出されていて良かった。
レアティーズは、黒いジャケットを身に纏って以降の部分で、様々な感情を背負い込み前半とはすっかり変わってしまった印象がそのオーラから表現されていた。
ハムレットは言うまでもなく最高だった。狂気になって以降のシーンはあからさまに狂うと言うよりも、テキストに身を委ね、明確に外見に表す狂気を抑えていたのが印象的。分かりやすく狂うよりも迫りくるリアルさ・恐怖があった。『ハムレット』で最も有名なあの台詞を含め、独白のシーンのクオリティの高さは流石としか言えない。完全に台詞を自分のものとしていた印象を受けた。圧巻であった。
今回のセットと会場を見た時に思ったのは、ラストの剣術のシーンをどうするのかということであった。実際行われたのは、将棋の対局で勝負するという予想を遥かに超え、かつ斬新な演出であった。将棋の駒はこの舞台において印象的な道具である。冒頭に始まり、レアティーズが父の形見のように持っていたのも将棋の駒であった。家族のつながりの象徴として作用していた。非常に良いアイテムだなと思った一方で、その発想をさらに前に進めてより多くの場面でこのアイテムを登場させても良かったのではないかという印象を受けた。多くの物が角材組みの直方体で象徴的に表現される今回の舞台で毒薬と共に実物が使用された数少ない物でもあり、それだけで存在感はあったが、もう少し存在を格上げすることもできたように思った。一方で、やりすぎてしまってはテキストを破壊してしまうので難しいところでもあるなと感じる。オフィーリアを埋める土を将棋の駒にする程度の挿入を随所に挟むことは可能だったと思うがそれが正しいかは分からない。
初演と7公演目の2回観たので、初演では中央の座席で、7公演目では最も下手寄りで観劇した。見る角度により見える物が大きく変わり、印象が異なったものとなったのでとても面白かった。ただし、観客としての欲を素直に表現すれば、舞台後方側からも観てみたかったという思いを隠しきれない。後ろ向きの演技も比較的多く、ここの表情が見たいのにと思わされることは何度もあった。四方とまでは行かなくともせめて前後に座席が用意されていれば何度観ても新しい舞台となっていたかもしれない。とにかくラストの対局中のハムレットの表情を見たかったと思うし、そう思う場面は随所にあった。
本公演は二幕構成で、一幕は100分、二幕は50分という一見アンバランスな構成である。しかし、観劇した限りで言えばこれは正解であった。本公演は、二幕を観るために行っても良いと思うほどに二幕の出来が圧倒的であり、心揺さぶられる。一幕でほとんど変化のなかったセットは大きく組み替えられ、すべてがスピーディーに悲劇的なラストへと向かう二幕は、今回観られて良かったと心から思う場面であった。一幕のクオリティの高さは実は二幕の盛大な序章であったとさえ思えるほどに。死の間際にハムレットが客席に向けてかけたセリフは重く心に響いた。セットが崩され、将棋の駒が散らばる、木と木がぶつかりあうその音がBGMを廃した二幕の唯一と言って良い音響だったが、それは決して乾いた音ではなく、重く響いてきた。
この舞台はそもそも好みなので、言い出せばキリがないのだが、やはり好きだったのは、開演前、役者全員が舞台の端の壁沿いに座り、瞑想しているような、気持ちを高めているような様子で待機していたことである。そのほかのシーンでも多くの役者ははけず、舞台端にとどまり観客と共に舞台を見ていた。『ハムレット』は決して、どこか遠くの物語ではなく、我々自身の物語なのだと伝えられているような印象だった。そもそも、自身の演技直前にそのような状態にあるにも関わらず、即座に劇世界に入ることのできる実力は脱帽である。真摯に『ハムレット』に向き合っている印象が伝わってきてとても良かった。
言い出せばきりがないというのが実際のところで、それほどに深く、素晴らしい舞台であった。誰にも気づかれなくてもいいと思ってやっている細かい工夫がたくさんあると演出の方が話されていた。たった2回でどれだけすくいきれたのだろうか。
とりあえず次回は、3回以上観に行くことにする。


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