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「辛くなったらこの箱を開けなさい」―先輩人類学者は後輩に何を託したのか?

オレゴン州立大学で私が文化人類学を学び始めたころ、スリリングなレクチャーで学生から大人気の教員、Dr. Snil Khannaが、こんな逸話を話してくれた。

フィールドワークに初めて出る院生に、既にフィールドワークを終えた友人・教員たちがひとつの箱を手渡した。

「フィールドワークが辛くて仕方なくなったらこの箱を開けなさい。でもそうなるまでは絶対に空けちゃだめだよ」

彼女は、もらった箱をスーツケースの底に大事にしまい、アメリカから遠く離れた異国の地に、フィールドワークに旅立った。

研究ってどんな感じ?

フィールドワークは、人類学の研究方法であるが、そもそも研究という響きに皆さんはどんなイメージを持っているだろう。

白衣をまとった研究者が、素人にはさっぱりわからない液体を使って細胞を染色している姿だろうか。何万というデータをものすごいスペックのPCを使って自由自在に解析し、そこからあるパターンを見出す疫学者だろうか。

研究という言葉には、スタイリッシュで、研ぎ澄まされ、洗練されたイメージがある。

残念ながら、人類学者が行うフィールドワークにはそのかけらも見当たらない。

全く知らない土地にほとんどないつてを使って降り立ち、村人から怪訝な目で何か月も見続けられる。よくわからない食べ物を食べてお腹を壊す。あまりに”つて”がなさ過ぎて、イチかバチかで政府のオフィスに調査の依頼に行ったら、屈強なガードマンにつまみ出される。

(ちなみに最後は私の実体験。あの時は怖かった…)

泥臭すぎで、洗練さのかけらもない。それがフィールドワークのはじまりである。

最近のテクノロジーの発達で、フィールドワークももっとスマートなものになっているのかもしれない。だけど、根本のところは何も変わっていないのだろうと思う。

なぜならそれは、他者を知ることについての文化人類学の哲学が変わっていないからだ。

フィールドワークの鉄則は、”イマージョン”(immersion)である。相手の生活世界に入り込み、身体全体を使ってかれらの世界を体験する。その世界で生きるというのはどういうことなのかを、人類学者自体が感じるところから始まるの

もちろん教え方はいろいろあると思うけど、私が受けたトレーニングは、出発前にフィールドについて調べた情報を、現地に入ったらいっさいがっさい忘れてしまうということだった。(本当に忘れるわけではないです。念のため)

書かれたものは、たいていの場合、その土地の力のある人によって書かれている。でもフィールドには、書かない人もたくさんいる。そういう人たちがじかに教えてくれることを、「文献と違うから嘘である」「価値がない」と片づけてしまわないように。むしろそういうところにかれらの世界を知る鍵があるのではないかと疑う視点を持つためである。

これは一般的な研究のイメージとはかけ離れているかもしれない。

でも人を知るってこういうことじゃないだろうか?これはどんなに社会が変わってもこの部分はずっと変わらないんじゃないだろうか。

私が学んでいた運動生理学の研究では、研究対象者は、被験者とよばれた。被験者は、操り人形のように研究者の言うとおりに動かないといけなかった。

アンケートで5つ選択項目があったら、被験者はむりやり5つの中から選ばないといけなくて、「その他」とかという項目を勝手に作っては行けなかった。

でも人類学のフィールドワークはそうじゃない。人類学は研究協力者を被験者とは呼ばず、インフォーマントと呼ぶ。これは「情報を提供してくれる人」という意味である。ふだん通りに日々を生きる人々の中に入れてもらい、研究を続ける。それを通じて、人を知ろうとする。

そんな人類学が私はとても好きなのです。こんなに面白くてワクワクするのに、あまり知られて人類学をもっとたくさんの人に知ってもらうにはどうしたらいいだろう。

そして箱の中身—

ところで、あの箱はその後どうなったのか。

フィールドに入り1週間が過ぎた彼女。

生活の仕方も、食べ物も違い、ようやく言えるようになった言葉は「こんにちは」くらい。当然インターネットなんてない世界に身をおいた彼女は、すでに疲れ果てていた。こんなんで調査なんてできるのか?もう帰ってしまいたい!

彼女は1週間じゃまだ早すぎると思いながらも、先輩人類学者からもらった箱に手を伸ばし、意を決して開けてみた。

すると箱の中には紙切れが一枚。

「君の気持は痛いほどよくわかる」

メモにはそう書かれていた。

フィールドワークの質感を知るために、おすすめなのが、現在WEB春秋で連載中の小川さやかさんのエッセイ。小川さんは、サントリー学芸賞受賞者で、いまをときめくキレキレの人類学者である。




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