「やりたいこと」の多くは、「やりたい」と思わされている

 私たちは「自分のやりたいこと」をはっきりさせ、それに向かって突き進むことをよしとする社会に生きています。それが大変に素晴らしいことと思うのですが、「やりたいこと奨励社会の難しさ」は、そんなに簡単にやりたいことが見つからないということに尽きるでしょう。

 それには色んな理由があると思いますが、私がここであげたいのは、「選択肢がたくさんあるから」でも、「みんな失敗を恐れるから」でもありません。

 そうではなく、私がここで強調したいことは「やりたい」ことと、「やりたいと思わされている」ことの分離の難しさにあります。

 私たちが日常生活でする多くのことは「やりたい」というより「やりたいと思わされている」ことの方が多く、そこから純粋に「やりたいこと」を取り出すのは至難の技なのです。

女性とあぐら

 例をあげましょう。たとえば日本の女性は、人前であぐらをかくことはあまりありません。もちろん公園の芝生で友達と音楽を聴いているといった状況であれば、あぐらをかく女性もいるでしょう。

 でも職場の飲み会がお座敷で開かれ、そこに先輩や上司がいるような場で、あぐらをかける女性はほとんどいないはずです。

 この場合、誰に言われなくとも、ほとんどの女性は自発的にあぐらをかくことを避けます。「女性はあぐらをかいてはいけません」と、どこかに書いてあるわけではないのです。


 それでは、女性の心のうちからでる素直な気持ちが、あぐらをかくことをやめさせているのでしょうか?「あぐらをかきたくない」と、自然に思うことができる生き物が女性がなのでしょうか?

 女性がそのように生まれてはいないことは、海外の事例を見れば明らかです。

 私がアメリカ留学中に驚いたことの1つは、女性が平気であぐらをかくことでした。あぐらは男性の姿勢だと思っていた当時の私にとって、これはかなりの衝撃でした。アメリカの女性は、芝生でもソファーの上でも、教員の前でも、恋人の前でも平気であぐらをかくのです。

 足を左右のどちらかに出す、いわする「おねえさん座り」や、正座をしている女性は見たことがありません。

 そしてその後、これはアメリカだけでなく、香港や韓国でも同様であることを知りました。

 これら事例から、女性があぐらを避けるのは、「そうしたいと思っているから」というより、「あぐらは女性がかくものではない」という常識の中で、「そうしたいと思わされているから」といった方が適切であることがわかります。

男なら足を開いて座りなさい

 この逆の男性バージョンもあります。

 大学院生時代の友人(男性)が「電車に乗っている時に足を閉じて座っていることに気づき、慌てて開いた」と話していました。

 おわかりのように、これもさきほどのあぐらと同じ力が働いています。

 彼の頭の中をたどると、「足を閉じて座っているのは男らしくないし、そう思われるのがいやだから、あわてて足を開いた」ということになるでしょう。「足を開きたいと思っていた」というより、「男なら足を開いて座れ」という常識の中で、そうした方がいいと思わされ、それに従ったことが読み取れます。

 電車の中で、ものすごく足を開いて座り、席2つ分くらいを取ってしまっている男性ってたまにいますよね。これもその人が「やりたい」と思っているというより、「そういう方が男らしくてかっこいいと思わされているから」という可能性もあるでしょう。 

 その方がいいと学んでいるうちに、その行動が自然にできるようになり、そうしないといけないような気がしてしまう。このことを「内面化」と呼びます。

 
 倫理感あふれる学部生のレポート

 大学生のレポートには「多様性を大事にしないといけない」「みんなで考えていかないといけないと思った」「自分の生き方を見直そうと思った」といった道徳的な提言で締められるものが多発します。

 文化人類学の授業は、道徳を提言することではなく、社会で起こっている現象を分析することが目的なので、教員側からすると、こんな無難なポリティカルコレクトネスを書くことに紙面を割くのなら、その分を現象の分析に回して欲しいところです。


 そこでなぜこんな書き方をするのかをみんなに聞いてみました。すると「先生、僕らは小・中・高の授業で感想文をたくさん書かされていて、そこで教えられるのがこういう書き方なんです」という意見が学生から返ってきたのです。


それを聞いて、「なるほど。だからこうなってしまうのか!」、と私は納得しました。


 彼によると、感想文の書き方はある程度テンプレ化されており、教員から無難な評価をもらえる書き方を、学生は長い期間をかけて学び、大学に入ってきているとのこと。

 レポートのテンプレ化も内面化の一つと言えるでしょう。


 私は、レポートの最後に「あなたはどうするべきか、世界はどういう道徳を持つべきかを書きなさい」などといったことはもちろん一度もありません。しかし学生は、内面化された書き方を知らず知らずのうちのそこに反映させてしまいます。

 そしてこのような場合、「レポートの結末を道徳的な提言で終わらせなくてもいい」という否定的なアドバイスをしてもあまり意味がありません。

 なぜならかれらはそれ以外の書き方を知らないし、美しい道徳を披露して終わることがよいと教わってきているからです。

 なのでベストな方法は、そうでない書き方の具体を示すこと、そうでない書き方をすると、どのくらい世界が面白くなるのかを、わかりやすく見せることです。

 よく「視野を広げなさい」というアドバイスがなされます。

 これを私なりに言い換えると、視野を広げるとは、内面化の呪縛から自らを解き放つことです。

 そしてそのための一番の近道は「視野を広げよう」と考えることではなく、そうでない生き方や、あり方を、見たり、聞いたり、感じたりする具体的な体験の中で知ること、自分の中に生じる違和感を「常識」という名の蓋でないことにしないことです。やりたいことと、やりたいと思わされていることの分離はそこから始まると私は思います。


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磯野真穂|文化人類学者

からだ、食、医療、科学技術をテーマに研究をしています。これまでに拒食・過食、摂食障害、医療・介護現場の問題、循環器疾患、漢方外来でのフィールドワークを行ってきました。都内大学教員。(Twitter →@mahoisono) Photo by Takano Yukari

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人間なら必ずひとつある「からだ」。生きるためには避けられない「食べる」。文化人類学という視点から眺めていきます。
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コメント9件

有名な『サピエンス全史』のなかに「貨幣は最強の征服者」という記述があります。ここでいう「征服者」とは「内面化」のことだろうと思うのですが、だとすると、お金を儲けることもまた「やりたい」と思わされていることなのでしょう(と、サポートエリアの説明文をみて思いました)。
気づきの多い記事です。ありがとうございます。
何かボーヴォアールの名言【人は女に生まれない女になるのだ】の焼き直しをしている様で男性が脚を閉じている件を別の見方で示したのだが・・・
本当ですね、行動しないと始まらないですからね
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