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生産性の低い"人間の身体"

 杉田水脈議員が発したLGBTの生産性についての発言は、ボクシング連盟、東京医大の性別に基づく傾斜配点といった問題にかき消され、メディアを賑わすことはすでに少なくなっている。

 しかし自民党の二階幹事長の「この程度の発言」といった言葉に見られるように、氏の発言を問題視する見方が政治権力を持つ人々に薄いことを踏まえると、今後も引き続き似たような問題は起こり続けるであろう。

 したがってここでは、問題が落ち着いてきたことも踏まえ、「生産性」を取り巻く問題を、これまで議論されているような是非の視点ではなく、身体と社会の関係性というさらに引いた場所からとらえてみたい。

 「LGBTは生産性が低い」という発言は、身体を経済を回すパーツにみたてる類推である。このような類推は、当時厚生労働大臣だった柳澤伯夫氏の「(女性は)産む機械」に代表されるように、過去にもみられた。特に生殖は、国家の行方と結びつき、かつ出生数・出生率といった数で表現することができるため、このような類推の対象になりやすいといえる。

 そして政治家がこのような発言をするたびに、社会からは非難の声が湧き上がる。その非難は、人間の価値を経済的指標で推し量ったり、人の身体をマシンと見立てることへの嫌悪感に由来する。加えてそのような観点を政治家があっけらかんと持ち出すことへの気味の悪さもあるだろう。またそのさらに根源には、人間のいのちの尊厳は経済では語れないという信念があるはずだ。

機械/マシンとしての身体・経済のパーツとしての身体
 私も例にもれず、氏の発言に対して強い嫌悪感を感じた一人である。しかし人間の身体を経済のパーツやマシンに見立てる類推は、杉田氏に限らずすでにこの社会にあふれていることにも目を向けておきたい。

例を挙げよう。

スペックの高い男(女)
女(男)の賞味期限
男(女)の商品価値
身体のメンテナンス
コスパの悪い身体
10秒チャージ(ある健康食品のうたい文句)
アイドル〇〇の劣化

これら表現は身体をマシンや商品になぞらえ、経済的尺度に組み込んだうえでなされる類推である。「LGBTの生産性」についての発言も、この想像力から生まれている。杉田氏の発言に嫌悪感を覚えて人の中にも、このような言葉を何気なく使っている人は多いのではないだろうか。

社会の形と価値を表す身体
 身体を表現するために使われる言葉が、社会の様相を映しだす鏡であることは、私の専門である文化人類学においてよく知られる話である。身体に向けられる言葉をみれば、その社会の構造と価値観をある程度把握することが可能なのだ。

 たとえばボリビアの山地に住み、病気の治療を行うシャーマンは、病気を地震や地滑りに例えるという。このたとえから私たちは、かれらが山と共に暮らしていること、病気をどうしても起こってしまう自然災害としての現象としてみなしていることがわかる。

 一方、商品価値、スペック、メンテナンス、コスパ、劣化、チャージといった類推から読み解くことができるのは、生産性の高さがこの社会では何よりも重要視されているという現実である。

 これはこの社会における病気が、避けられない天災ではなく、自己管理不足とみなされることからもわかるだろう。類推を使えば、病気は未熟なメンテナンスンにより起こる身体のエラーといえる。

 生産性を安定させるために、日々身体に気を使い、チャージと言う名の休息を的確にとり、可能であればさらにスペックを上げ、さらなる生産性を求めることが重要なのだ。

 人間の尊厳は経済では測れないという価値が根強く存在するのは、生産性の高い身体が求められている現実への抵抗といってもよいだろう。
 
 
増え続ける生産性の低い身体 
 杉田氏の発言では、LBGTだけでなく、障がいを持つ人々も声を上げた。しかし私がここで強調したいのは、セクシュアリティや障害の有無にかかわらず、人間の身体そのものが、もはや生産性が低いという点である。

 人間の社会は、身体の不都合を技術に委託することで発展してきた。

 手ではなく、斧を使えば、速くそして美しく、外界を都合のいい形に整形することができる。

 歩くのではなく、馬に乗った方が、車に乗った方が、そして飛行機に乗った方が、快適にすばやく移動することができる。

 口で情報を伝えるのは限界があるし、安定もしないが、文字に変換して、書籍にしたり、デジタルの海に流したりすれば、その不都合を乗り越えることができる。

 身体の生産性の低さはこのようにして乗り越えられており、この試みは現在も変わることなく続いている。

 たとえば、すでにそこかしこで言われているように、今後店員はどんどんAIに代わるであろう。人間は疲れるとミスをするし、愛想はなくるし、店員同士でいざこざを起こしたりする。給与を上げてくれと言い、最悪の場合、訴訟を起こす。そんな不都合な身体に仕事をまかせるのであればAIにやってもらったほうが、経営者も顧客もハッピーである。

 出張という身体の移動の手間は、オンライン会議によってかなりの程度乗り越えられるようになっている。しかしそれだけでなく近い将来、出席するのは本人ではなく、アバターになる可能性がある。通信速度が上がるだけでなく、しわがあったり、メイクをしていなかったり、寝癖がついていたりしている自分を相手にさらさずに済むからだ。

 この未来がやってくることは、多くの人が、自分の写真をSNSにアップする前にそれに修正をかけることから推測できる。「いいね!」をとれるのは、不細工さを見せる未修整の身体ではなく、テクノロジーの力を借りた身体である。その意味で「修正のないそのままの外見」は生産性が低い。

 マシンを前にすれば、もはやどんな身体も生産性が低く、加えて、かれら(マシン)がますます発展する未来を見据えれば、我々の身体の生産性の低さは今後いっそう露わになるはずだ。

  そしてもしかすると、しばしば女性の絶対的な価値の在りかとされる生殖機能すら、生産性の俎上にあげられるかもしれない。マウスの皮膚から精子と卵子を作り、それにより受精した子マウスが育っている。人口子宮もまことしやかに現実味を帯びてきた。

 この技術が人間に応用されれば、セックスにより受精卵を作り、子宮の中でそれを育てるという行為自体が、不確実でリスクの高い非生産的な行為とみられるかもしれない。女性の身体はもはやいらないという時代が来るかもしれない。

老いと死
 技術の進化は止められないし、それによって世の中がよくなる部分もたくさんあるであろう。しかしどれだけ技術が発達し、身体の不都合さが乗り越えられたとしても、いまだ人類が乗り越えられない壁がある。それが老いと死だ。老いと死は、すべての人間に平等にやってくる紛れもない生産性の低下であり、この現象を避けることはいまのところ不可能である。(とりあえず人工子宮により子どもが育てられる現実が来る日よりは遅いはずだ。)

 どれだけメンテナンスをしても、身体のスペックはどんどん落ち、劣化する。そしてついには、メンテナンス不能となり終わりを迎える。

 社会の形と価値が身体の言葉に還流するように、身体に使われる言葉も社会の形と価値に還流する。

 自分が老いて死を迎える時、どういう形の社会であれば生きやすいだろう。どのような言葉があれば自分は救われるだろう。

 資本主義社会や、そこでおこる展開の数々を総否定することは、(少なくとも今の段階では)非現実的である。しかし誰もが老いて死ぬという現実を見据えた時、頭打ちのない生産性に価値を置き、その言葉で身体を表現する社会は、最終的に自分たちの首を絞めるだろう。

 さらなる生産性の向上を求めアクセルを踏み続ける社会の中で、適切なブレーキを踏んでおくこと、すなわち生産性に抵抗できるような言葉を守り・創り、それを社会に還流させておくことが、老いと死を迎える私たち一人一人を守るために必要なはずである。

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