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「縛った」とカルテに記録せよ(前編)

1999年に出版された「縛らない看護」(医学書院)という本がある。これは全国に先駆けて高齢者の身体拘束を廃止した、上川病院の当時の院長である吉岡充さんと総婦長の田中とも江さんを中心に書かれた本である。

この本の中に、田中さんが書いたこんな一節がある。

“総婦長として私は「抑制をするなJといったが、スタッフは「はい,わかりましたJと素直に返答しながら、隠れて抑制していた。「抑制しないでケアなどできるはずがない」夜勤をするのは自分たちで、総婦長は理想論をいっているだけだJなどと陰で批判した。

これらの抵抗にたいして、吉岡充副院長(当時)が、「抑制したらかならずカルテに『縛った』と記録せよJという命令をだした。現実に「縛るJとは書けないものである。このことばは,抑制とは縛ることにほかならないことに気づかせた。これが“抑制ゼロ"への原動力となったのである。”

以前、ここで社会人に関する記事を公開した。この記事のポイントは、「社会人」という言葉は、実は「会社で働く正社員」というかなり限定された人々のことを指しいるということ。加えて、自立しているとか、協調性があるとか、責任感があるとかいった、この社会での理想的な人間像をも指しているということである。

言葉というのは、単に世界に存在するものを指し示しているわけではない。むしろ言葉が世界を作り出し、その言葉が作り出した世界に私達のふるまいは影響されるのである。

カルテに「抑制」と書こうが、「縛った」と書こうがやっていることは同じである。でも「『縛った』と書け」という指示が出た瞬間に、その行為がためらわれるのである。

もちろん私は、言葉なければ世界が存在しない、といった極端なことを言っているわけではない。

「地球」という言葉が突然この世からなくなっても、私たちの生活は何ら変わらず続くだろうし、「骨が折れた」と言おうが、「骨折」と言おうが、あるいは「ぎゃああああっ」と叫ぼうが、そこにある骨の状態も、治療も変わらないだろう。

でも「言葉」によって作られる、行為やモノや存在もあるのである。その例の1つが、社会人であり、高齢者の抑制である。

文化人類学者はこういう理由で、調査地の人々が使う言葉に繊細な注意を払う。重要な言葉は簡単に自分の言葉に翻訳したりせず、かれらの言葉をそのまま使い、その意味を説明する。翻訳をした瞬間に、その言葉の中にあるかれらの価値観や、歴史が零れ落ちてしまうことがあるからだ。

そんなことを考えていたら、ピースオブケイク CXOの深津貴之さんの、「noteのランキング設定には「ランキング」という言葉を使わない」という記事を見つけました。

noteを初めてよかったな、と思った瞬間です。

後編に続く。

言葉が世界を作るということにもっと関心がある人は、「言語論的転回」や、イアン・ハッキングとう超有名な哲学者の「動的唯名論」、あるいはこちらも超有名な哲学者の「ジョン・オースティン」で検索してみてください。面白いですよ。

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