「からの自由」と「ための自由」―ほんとうに自由に生きるために

外見に関する学術会議"Appearance Matters 8"の登壇者の1人である、Laura Hart(LaTrobe University, Australia)が自由についての面白い議論をしていました。


これは外見の話のみならず、私たちのいろいろな生活に使えそうなので、少し広げてみようと思います。

Lauraによると、自由には2つの種類があります。

それは、"Freedom from"と"Freedom to"。
直訳すると「〜からの自由」、「〜のための自由」になるでしょう。

したがってここでは直訳をそのまま使い、前者を「からの自由 (Freedom from)」、後者を「ための自由 (Freedom to)」と名付けたいと思います。

私たちは、昔に比べ、多くの自由を手に入れています。

たとえば、士農工商といった身分制度に縛られることは、とりあえずありません。

もちろん、生まれた家庭の経済状況が、子どもの将来を左右することはすでに証明されているので、完全に”ない”とは言えないのですが、自営業の家に生まれたから、自営業をやらねばならない、農家に生まれたから会社に就職してはならない、といったことはとりあえずありません。

建前の部分はありつつも、私たちは、身分制度といった束縛「から」自由になり、自由に職業を選択する権利が認められています。

性別役割も同じです。女は結婚したら退職すべきとか、女だから選挙権がないとか、男だから育児はするなとか、以前は当然のように社会の中に存在していた、性別役割「からの自由」を私たちは手にしています。(もちろん先ほどと同じように、性別役割についてはいまでもいろいろなことが言われます。)

結婚も同じです。結婚が個人の問題ではなく、イエとイエの問題であった時代には、あなたが目の前の人を好きかどうかは、二の次でした。あなたはイエを存続させるための楔なので、自由に好きな人と結婚されたら困ってしまうわけです。

加えてテクノロジーは、土地「からの自由」、時間「からの自由」をもたらしました。飛行機、電車、バスなど、多様な交通網の発達により、夏休みに地球の反対側にちょっといってくる、なんてことも気軽にできるようになり、SNSを使えば、一瞬にして世界中の人にメッセージを送ることができます。

(もう少し複雑に考えると、上述した「からの自由」ときっても切り離せないのが資本主義経済であることがわかります。)

こうして考えると、私たちの日々の生活の中には、数百年前を生きていた人たちからは考えもつかないような、「からの自由」が無数に存在することがわかります。

「からの自由」のその先にー

それでは、たくさんの「からの自由」を得た私たちは、いったいその自由をなんの「ために」使うのでしょうか。

これは意外と難しい問題です。

身分からの自由、性別からの自由、土地からの自由…

私たちの自由を奪うとされたこのような束縛は、同時に私たちが生活するための枠組みを与えてくれるものでもありました。

「男ならこう生きなさい」、「武士ならこう生きなさい」など、自分が何であるかによって、生き方の道筋が提示されていたわけです。

これは非常に窮屈なものでもありますが、それを受け入れてさえしまえば、どう生きるかをそんなに考えなくても良いという気楽さも存在しました。

それでは、そのような枠組みの一切合切が取り払われ、「あなたはどこに行って、何をしてもいい」という状況が作り出されたら、いったい何が起こるでしょう?

こうなるとむしろ、何をしたらいいかわからなくなり、結局、自分の生き方を外側から枠づけてくれる何かを、自分の外側に探し、それによりまた窮屈さを感じたりするとうい奇妙な現象が起こります。

またそれだけでなく、自分だけだと寂しいので、自分と同じ枠組みを他人に勧めてみたり、ひどい場合は強要してみたりする人も出てきます。

いまの社会の理想とされる「自分らしい」生き方を達成することが難しいのは、自分の生き方を正当化してくれるものを、自分の外側に欲しいと求め、その生き方をその他大勢が共有すると安心するという、人間の特徴ゆえなのかもしれません。

依って立つところがなくなる現代社会の状況については、学問の世界ですでにかなりの議論がなされています。

たとえばポーランド出身の社会学者のジグムント・バウマンは、よって立つ場所がなくなり、不確定なものがどんどん増える今の社会を表すために、現代社会を「液状化する社会」(Liquid modernity)と名付けました。

フランスの哲学者のリオタールは、社会が進む上での道しるべを無くしてしまうという観点から、「大きな物語の終焉」を語っています。

イギリスの社会学者のアンソニー・ギデンズは、寄って立つところがなくなり、自分がどう生きたいかを常に問い続けなければならない、現代を生きる個人の状況を「リフレクシヴィティ」という言葉で解説しようと試みました。

私たちを縛り付けるたくさんのもの。

それはたとえば親の一言であったり、学校や職場の決まりであったり、常識と呼ばれるものであったり、様々です。

これら時に、極めて窮屈で面倒くさいため、そこからの自由を私たちは求めがちです。ですが「からの自由」はいったい何の「ための自由」なのか。

そこの部分を見失うと、「からの自由」のその先で、新しい「からの自由」を求めてしまうという螺旋が永遠と続くといえるでしょう。

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コメント2件

はじめまして。

すこしずれたコメントになってしまうかもしれませんが、江戸時代の短歌って、武士は武士らしい、町人は町人らしい風韻があります。
でも、詠み人の身分にかかわらず、精神の充足や安定が感じられて、読んでいるこちらも心強く感じます。

江戸時代の短歌を知ったあとで明治以降から現代にかけての短歌を読むと、むしろ明治以降の方が、自分探しに惑い、もろく、痛々しく感じ、読んでいるこちらがつらくなってくるときがあります。

自分がそう感じるのは何故か、ということが、今までは漠然としかつかめていたなかったのですが、この記事がよき手がかりになりそうです。
ありがとうございます。
今、「ハーバードの人生が変わる東洋哲学」という本を読んでいるのですが、「ための自由」に呼応するものを、感じました。「ための自由」は、わたしにとっては新しい価値を今、ここで産み出すということで、何かから離れるのではなくて親和性のある、弾力のある自由かなぁと思いました。いつも新鮮な切り口をありがとうございます!
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