「祈りの杜 福知山線列車事故現場」に行ってきました。

タイトルのとおり。
写真は禁止だったので、ありません。

あの事故について、印象に残っていることがふたつあります。
ひとつは、ほんのすこしだけ顔を合わせたことのある人を亡くしたこと。
1回しか会ったことがなくて、顔も覚えていないぐらいほんのすこしだったのですが、新聞の死亡者一覧に名前を見つけたときの(間違えようもない珍しい名前でした。住所も沿線にありました)なんともいえない感情は、今でも覚えています。
もうひとつは、尼崎に引っ越してきたとき、不動産のひとに「公害と角田容疑者と鉄道事故の町へようこそ」と言われたこと。
どう応えたらよかったのでしょうか。それでも引っ越してきたばかりのわたしよりも幼い頃からずっと尼崎にいるそのひとのほうがずっと当事者で、わたしに言える言葉は言葉ではないにしても何もないのでした。

あの事故はそんな風な、なんとも言い表しようがない、自分のなかでもなんなのかわかっていないものとして、それでもずっと心の奥にありました。

「祈りの杜 福知山線列車事故現場」の一般公開が始まったことを知ると、まず「行きたい」と思いました。「行かなければならない」のような切実さはなく、とても素朴な希求として「行きたい」と。わかっていないものはなんなのか、その場所に行けば見つかるような気がしました。不誠実なんだろうな、とは思います。それならば、知りたいと思うことは、すべて不誠実なのではないでしょうか。あるいは「誠実なる無知」を貫き通すべきだったのかもしれません。その逡巡に答えが見つかるはずもなく、結局のところなんらの切実さもなく、わたしはただ、身体を置くようにその場所へ向かったわけでした。

尼崎にそれなりの土地勘があれば、その場所は地図を見なくてもわかります。JR福知山線のあのカーブ、というのは路線図を覚えていれば分かります。近づくと、マンションが雨風で風化しないよう頭上を覆っている真っ白いドームが見えてきます。その前には青々とした芝生が広がっていて、静かすぎるほど静かな場所が「祈りの杜」なのでした。
入ると、警備員の方が自転車を置く場所を指示してくれました。駐車場は車が数台しか止められないような小さなものです(公共交通機関を使って来場することが推奨されています)。雰囲気としては、広島の平和記念公園に似ている気がしました。しかし入る際に記帳を求められたことで、なにか思ったよりも重いものがここには存在しているのだと気づかされました。
事故現場の前に佇む石碑に向かっていると、その予感はより顕著になりました。おそらくJRの職員であろう方々がふたり、わたしとすれ違ったのでした。彼らは喪服を着ていて、わたしを見つけても何ひとつ言葉を発することはなく、ただ深々と一礼してくれたのでした。
石碑には、死者の名前であろう一覧がありました。死者は106名であったはずですが、名前は106もなかった気がします。許可の取れた方のみ掲載しているのでしょうか。わたしが覚えているひとの名前は、そこにはありませんでした。
石碑の前には水が湛えられていて、その前に花束が並んでいました。黙祷を捧げたのち、その奥に進みました。
事故現場のマンションは、上階こそ撤去されていますが、列車が衝突した箇所についてはそのまま残されています。そのすぐ近くまで寄り、事故の痕跡を確認することができます。その前にはお地蔵様が一体あり、線香を捧げることもできます。故人に捧ぐ千羽鶴のほか、ビールやお菓子なんかも並んでいました。
マンションを眺めていると、そのすぐ傍を列車が通り過ぎました。乗客の方々と目が合ったような気がしました。当たり前の生活が流れている傍で、わたしは当たり前ではなかった場所にいて、そのふたつが交差したとき、気まずい気持ちになるのはどうしてでしょう。誰にとってもそうだということではないのですが、わたしにとっていえば、それは「事故を悼むだけのものを持ってないから」だと思います。なんだかさびしい時間で、場所でした。ただそのさびしさだけは、その種類こそ違えど、あの場所にふれるすべてのひとに共通して与えられるものである気がします。気まずいとさびしい、は、そんなに離れてはいないのだと。

慰霊の碑を離れ、入口近くにある資料館に入りました。とても小さな建物で、1Fはほとんど何もなく、エレベーターで地下1Fに降りるとやはりあまり広くないスペースに資料が展示されています。
それでも、地下に降りると両肩がずしりと重くなったような気がしました。どこからか、線香の匂いもしました。白い空間に淡い光が溢れていて、この場所には、確かに死が存在するのだと分かりました。
資料館は大きく分けて2つのスペースがあり、ひとつは事故の概要を語る資料、もうひとつは犠牲者に手向けられた手紙や贈物でした。
事故の概要を語る資料のほうですが、ただただ謝罪にあふれていたと思います。すべての資料の、文面の端々から、申し訳なさが伝わってきました。ひとりの運転手のミスではなく、会社の体制が引き起こした事故なのだと、反省が連ねられていました。「ヒューマンエラーは原因ではなく結果」のような言葉と「経営の効率化を図った結果での事故」という言葉が印象に残りました。最近よく語られている「生産性」という言葉を思い出しました。結局のところ、事故は一社の体制の問題として完結されていて、その反省は社会に共有されていないのだな、と。わたしはそのことに対して声高に何かを主張できるほど何かを分かっているわけでもないし、怒ることができるほど何かを被っているわけでもないのですが、もしその「反省の共有」のためにこの場所があるのだとしたら、わたしは多くのひとにこの場所を訪れてほしいと思っています。
犠牲者に手向けられた手紙や贈物は、総じていえば、ですが、しずかな怒りのようなものを感じました。とりわけ「事故現場のマンションに新入社員が住めばいい」という言葉が頭に焼き付いています。反面、事故を見つめ、前に進もうとする意志のようなものも感じました。弟を亡くされた方が、事故を起こした車両の装置を自分が設計していたことを知り、なお生きる意味について自問する文章を、例えばそういうものとして受け取っていいのか分かりませんが、前とも後ともいいようのない、ただ時間が経過すれば訪れるだけのそれに向かって生きようとする様が綴られていました。彼は怒ってはいないのでしょうか。あるいは怒っている(ように見える)ひとは、本当に怒っているのでしょうか。「怒り」と「祈り」の両面性について考えました。それは同時には存在しえず、ただ時によって同じものが姿を変え、それでもこの場所を訪れるときは、そのときだけでも祈ることができればいい。この静かな空間に身を置いてみて、そう思いました。

「祈りの杜」を作ることについては賛否両論あったそうです。それがどういう場所であるべきかも、多くの意見が交わされたのだと知りました。結果としていま事故現場に立ったあの場所は、必ずしも全てのひとの望みを叶えるものではなかったのだと、名前の欠けた石碑を見て思いました。
個人としては(わたしたちは、個人の話をするしかできませんので)、あの場所は、死の感触によって命を蘇らせる場所だと思いました。命とはなんなのかな、と思います。犠牲者の家族が書かれた手紙を読んで、彼や彼女がほんとうに必要とされていたことを知ったとき、生きるとは、誰かに必要とされることなのかな、と思います。そしてもし必要とされているうちは死なないのだとしたら、あの場所にも、わたしにとっては意味がありました。

なにひとつ大きなことは言えませんが、むしろ言わないように、個人としてちいさく、ただ祈りたい、そんな1日でした。
わたしが路上ライブをしている公園の体育館は、当時、遺体の安置所であったそうです。観てくれているのでしょうか。観てくれていたのでしょうか。わたしの大好きな公園です。そのことについて何も言えることはありませんが、これからも変わらず、好きでいたいと思います。

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