見出し画像

紙か電子か、それは人生の問題だ

あなたは書籍を紙、電子のどちらで買うだろうか?

私は両方である。この書籍(と言っても私の場合大半はマンガになるのだが)は紙で欲しい、という場合もあれば、電子で欲しい場合もある。問題は、紙で買うか電子で買うかの基準だが、これもまた場合によりけりである。装丁がきれいだから紙で買うこともある。今すぐ読みたいから電子で買うこともある。ただ、どちらで買うか本当に迷った時の、最終的な判断基準は私の中で固まっている。それは、「仮に将来家族ができた場合、家族にそのマンガを読んでもらいたいか」である。

家族ができる。そして、大きな本棚を買う。本棚には、小さい頃から買ってきたマンガを全部並べていく。そして、家族はその本棚から、好きな時に好きなマンガを読んで、願わくば私と感想戦を繰り広げるのだ。子供ができたとしたら、例えば『ARIA』を読んでもらって、この世に美しさをすすんで見出すことの尊さを知ってほしい。(もちろんどんな本を読むかは個人の自由であって、何ら強要はできないが) 

なんて気持ちの悪い考えを持っているのだが、ここでふと、趣味としてマンガをたくさん読み始めた時の心持ちからすると、今の自分が逆走していることに気づく。

私がマンガを愛する理由は2つある。マンガは、作家の強い個性が表出したストーリーと絵をもって、他媒体よりも強く私を物語に没入させてくれること、そして、その「マンガと私」という関係性に、第三者の入る余地が無いことである。特に後者の点は、趣味の安定性に資する。例えばスポーツ観戦という趣味は、その充実性が贔屓チームの勝敗に左右されて、個人的に辛い。その点マンガは、マンガをしっかり買い、その結果連載が継続しさえすれば、何ら充実性が損なわれることなく、趣味が十二分に成立する。そこに第三者の影響は無い。何と素晴らしきことか。

しかしどうだろう、私がマンガを紙で買う時、その判断の根底にあるのは、「そのマンガを親しい他人に読んでもらえて、その作品体験を共有したい」という思いである。第三者がいなくても成立しうる趣味をせっかく手にしたにも関わらず、私は未だ、第三者の存在を求めているのだ。

加えて、作品体験を共有する仮想第三者として、友達ではなく、やがて持つかもしれない「家族」を私は無意識に想定している。これは、「他人と作品体験を共有したい」というだけでは説明できない(それなら友達でいいのだから)。私は、私が尊いと感じる作品を、そしてその感動を、後世に残したいという意識を持ちつつある。

「マンガと私」という趣味を得たことで、第三者に依存しない自己完結な生活を手にしたかに見えた。しかし、マンガを紙で買いたい私は、「他者とつながりたい」、あるいは「生きているうちに何かを残したい」という、世俗的な感情を全く捨てきれていないのである。

もちろん、マンガを電子で買っている人は他者との関係を捨てている、という一般的議論をここで進めているつもりは毛頭無い。これはあくまで自分個人の意識の話である。

ただ、私がマンガの多くを電子で買い始めたとしたら、それは、私がこの人生において、本気で他者とのつながりに諦めを感じ始めた時なのだろう。

 

紙か電子か、それは私にとっておそらく人生の問題なのである・・・

 

(おわり)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?