観自在のコツ

観自在という言葉があります。

すべての事物を自由自在に見ることができること

goo国語辞書」より引用

悲観的楽観的という言葉がある通り、人によってものの見方はまちまちです。しかし、観自在というのは、それが自由自在なわけですから、悲観もできるし、楽観もできるということになります。

こういうだまし絵とよばれるものがあります。有名なので、一度はみたことがあるのではないでしょうか。

この有名な「だまし絵」の見方は2通りあります。おわかりでしょうか?
正解は、斜め後方を向いている若い婦人か、右を向いた老婆の横顔です。あなたはどちらに見えますか。
(中略)
ある一つの図形を、Aという対象としてもBという対象としても認識できるとき、AとBが両方同時に知覚されることはないと考えられています。つまり、片方(例えばA)が意識に上っている瞬間は、Bは意識下(すなわち無意識)にある、ということです。

NTTイリュージョンフォーラム
「婦人と老婆」より引用

一つの絵でありながらも、見方によって、それが「婦人」にみえたり「老婆」にみえたりするというやつです。あなたが、これをどっちとして認識しますか?というのは置いておいて、ここで考えたいのは、それらを同時にみることができるのか?という点です。

上の記事では、「AとBが同時に知覚されることはない」と言っています。私もそう思います。「婦人」にみえている瞬間、その絵はあくまでも「婦人」の絵です。そこに「老婆」が重なってみえることはありません

これは、逆もまた然りです。「老婆」にみえているとき、同時に「婦人」にみえることはありません。

しかし、一旦「婦人」としてみるのをやめてしまえば、それから「老婆」としてみることは可能です。同時に2つがみえないだけで、2つともみようと思えばみえるわけです。

ここで楽観と悲観、観自在の話に戻します。

人の見方などというものは、楽観もすれば、悲観もします。どちらが正しいというよりも、そういう見方ができてしまうということです。それらが同時にできない以上、まずはそうやって楽観でも、悲観でも、一旦は視点をどちらかに定める必要があります

重要なのは、その特定の視点からみたものによって、感情をさらわれないようにすることです。そして、見方を瞬時に切り替えるというところがポイントです。

例えば、悲観的な見方をしたからといって、悲しみに沈んでしまってはいけません。次の瞬間、楽観的な見方を探してみるのです。

「婦人」にみえたものを、ただ「婦人」の絵としての解釈で終えるのではなく、「老婆」の絵としても眺めてみるわけです。

同じ事象でも、楽観的な見方ができれば、悲しみに沈むようなことはありません。既に悲観していたら、その悲しみを知っているわけですから、楽観的になったところで浮かれてしまうこともないでしょう。

観自在というのは、まさにそういうことだと思うのです。

悲観しても、次の瞬間には、すぐに楽観視できるし、楽観したものがあっても、すぐに悲観的な見方ができるということです。

人間ですから、感情があります。悲観したら悲しいし、楽観できたら嬉しいものです。けっして、感情を殺して生きるべきということではありません

ただ、感情を開放してしまう前に、見方を切り替えることが重要だということです。同時は難しくても、見方を切り替えることは可能です。

その切替時間をいかに短くできるかというところがポイントなわけです。その切替を限りなく短くしていけば、それは「ほぼ同時」ということになります。

これを先ほどの感情の話に当てはめると、人生の達人には「笑う」と「怒る」は、ほぼ同時にくるのではないかなと思うのです。「笑いながら怒る」、「喜びながら悲しむ」ような感情制御ができれば、感情に振り回されることはありません。

「仏様のような顔を目指してみる」より引用

悲観的にみている時間が長かったら、その分だけ、悲しい気持ちになってしまいます。辛いですし、悲しい感情に振り回された生き方になってしまうのも当然です。しかし、それをすぐに楽観的にみることができれば、そんな感情に捕まってしまうこともありません。常に前向きに生きていくことができるようになるはずです。

逆に、楽観的にみている時間が長ければ、浮かれっぱなしになってしまいます。その分、来るべき現実やリスクに備えることはできず、本当の危機が訪れたとき、適切に対処できなくなるでしょう。だから、常に悲観的な見方もしておきつつ、何が問題なのかを考えておく必要があるわけです。

遺族の方々のお話、とても心が痛みます。今回の件で、愛する人を失ってしまう人々、そしてそれが自分の責任だと考える人たちの苦しみは、大変なものだと思います。

けれども一方で、そういう犠牲を払いながらも、今の世の中のおかしさに気付いてくれたとも言えます。望んだものではなかったかもしれませんが、それはそれで前進とみることができます。

けしからん!」、「とんでもない!」、「許せない!

今の世の中、そんなことだらけかもしれません。

そういう見方は大事です。ものの見方として、何も間違っていないと思います。しかし、意外とそれだけでもありません

私たちは、そうした悲劇的なことを経験しながら、磨かれているとも言えますし、多くの気付きを得ることができているとみることもできます。その両面を見据えたうえで、自分の感情をどう開放するかを考えてみることが重要です。

例えばですが、私たちが「悪」だと思っている人たちにだって、思いもよらぬ「正義」があったりするかもしれません。

私たち庶民からすると、とんでもない巨悪にみえます。しかし、「彼ら」からしたら、「俺たちは地球のため人類のため一所懸命仕事をしているんだよっ」ということです。

「宇宙を背負って生きようぜ」より引用

とんでもない悲劇・・・うん、分かります。本当にその通りです。とんでもないがゆえに、見方を切り替えるのも大変です。でも、そんなとんでもない悲劇がある反対側に、とんでもない希望があるかもしれません。

一旦、感情の開放は保留してみて、そういう観自在は、できないものでしょうかね。


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