虹の立つ家

全編

「古民家に住んでみない? 」
 受話器を耳に当てるなり言われた。
 電話越しでも通る声。十年以上見ていない糸目が頭をよぎった。
「テンコなのか?」
「そうよ。どう? 住んでみる気ない?」
 高く澄んだ声色も、歯切れの良い言い回しも変わらない。相変わらずだなと苦笑いしながら物部(もののべ)は大学時代と同じ調子で返した。
「怪しい話ならお断りだよ。いま何をしてるんだ?」
「霧白村の村長よ。先週当選したの」
「村長」
 剥いた目を戻して息をついた。
「自分の友人から政治家が出るとはね。おめでとう」
「ありがとう」
 一拍置いて、ねぇと声がやわらいだ。
「頼まれてくれない?」
 少し黙って、尋ね返した。
「二つほど訊いていいか?」
「どうぞ」
「なぜ古民家で、なぜ僕なんだ?」
 聞く形だけ取って、あとは断ればいい。
 そう思いながら答えを待った。
「実は村の古民家を観光資源にする計画があってね。前段階としていろんな人の意見を集めてるの。サクは観察力があるし、古いものが好きだったでしょう?」
 乾いた声で笑った。
「昔の話だよ。どちらも残っちゃいない。君と同じく僕にも仕事があるし、手入れのほどのわからない古い家には引っ越せないよ。これでも現代人だからね」
「でもあなたの家はたびたび電気が止まると聞いてるわ。同じようにガスも、水道だって一度止められたんでしょう? 古民家と言ってもね。人を迎えられる状態にはしてあるの。電気や水道は使い放題だし、水道は公共のとは別に純粋美味の湧き水だって引いてある。ガスは使えないけど、美味しい食事を日に三度こちらで用意するわ。仕事というのはライター業ね。物部索(さく)朗(ろう)の名のついたものは雑誌も単行本も全部買ってる。最後の単行本は四年前よね」
「……あぁ」
 眉を顰(ひそ)めたまま鈍く認めた。
「光熱費のことは誰に?」
「ナカちゃんよ」
「やっぱりか」
 右手に力が入る。受話器が小さく軋(きし)んだ。
「お察しのように僕はいま書けていない。フリーランスのライターなんて不安定を地で行く商売だからね。大学時代に君達とやった興信所のバイトより稼げない月もあるよ。けどさ、十年ぶりに連絡してきた人間に遠回しな同情を受けるほど落ちぶれたつもりはない。いいか。最後に言っておく。もう十年経っても、百年経っても、二度と連絡して来ないでくれ」
 返事を聞かずに受話器を力任せに置いた。荒い鼻息をつく。足音を鳴らして台所へ向かった。冷蔵庫から一つだけ残ったビールを出して飲み下した。
 そこで呼び鈴がなった。
 空き缶を置いて、廊下の奥に目を向ける。ドアのチェーンはかかったままだ。時刻は午後九時を回っている。セールスではないだろう。宅配便の可能性も低い。書けなくなって以来郵便物はめっきり減っている。
「中谷?」
 ドアに近づいて備え付けのレンズを覗いた。誰もいない。チェーンを外して押し開ける。
「ごめんなさい」 
 ドア横でテンコが頭を下げていた。
「勝手にいろいろ調べたことは謝るわ。だからお願い。まずは一週間だけ泊まってみて。それで合わないようだったら諦めるから。同情がまったくなかったとは言わないけど、あなただから頼むの。給料だって支払うわ」
 顔を上げて早口で言い切ると、テンコは再び長身の体を折り曲げた。
「お願いします」
 わずかに起こった風で仄かな香りが届いた。香水も十年前と変わっていない。長い髪がうなじで割れて、滑らかな肌が覗いている。
 ドアノブに手をかけたまま声を低めた。
「前にも言っただろう。僕にそいつは効かない」
 気品、色気、フェロモン。言葉にすると陳腐になるがテンコはそういった類の力を出会った頃から持っていて、なおかつ自覚していた。大学時代には物部も中谷も友人と公言しているのに妬(ねた)まれたものだ。そのとき浴びた視線と、注いでいる自分の視線が重なった。動機は違うが嫉妬であるのに変わりはない。友人は大きく出世した。
「テンコ」
 抑えた呼びかけに小さな頭が上がった。
「僕はどんな目をしてる?」
 黒々とした糸目が物部を見つめる。
「泣きそうな目」
 どちらも視線を逸らさない。玄関上の電気メーター音が微かな音で回っている。一心に見つめるテンコに聞こえている素振りはない。
 物部は鼻から息を吸い込んで、深く吐き出した。
「わかった。行くよ。一週間だけ古民家に住まいを移す」
 伝えるのに合わせて糸目が撓(たわ)み、薄い唇の両端が上がった。覗く歯は端まで白い。笑い方も十年前と変わらない。
「それで期日は? いつ村へ行けばいい?」
「いますぐ」
 目と口が同時に開いた。
「ダメ?」
 眉を下げるテンコに、口をいったん閉じて答える。
「いや、行こう。少し待っててくれ。準備する」
 背を向けて部屋に戻ると、手早く着替えを纏めてバックに詰めた。ジッパーを閉めないまま洗面所に向かう。あとはタオルと歯磨き道具だ。そのまま詰めて、目の前の鏡を見つめた。
 映っているのは薄い隈(くま)のある淀んだ目。
「泣きそうな目か」
 つぶやいて洗面所を出た。もう一度部屋に戻って、閉じたままのノートパソコンを持ち上げる。
 書いていなくても書きたい気持ちはある。
 背中に感じる視線に示しながら鞄に詰めてジッパーを閉じた。素早く振り返って玄関へ向かう。
「さぁ、連れて行ってくれ」
 テンコは目を合わせて頷くと、アパート近くに止めたワゴン車まで先に歩いた。
「乗って」
 言われるままに助手席へ体を滑らせる。
 香水とは違う匂いが鼻をついた。煙草だろうか。匂いのもとは見当たらない。代わりに社内のデジタル時計が目についた。二十二時十三分。
 運転席に座ったテンコが慣れた仕草で車を発進させる。
 聞きたいことは山ほどあった。中谷はどこまで自分の話をしたのか。十年の間どうしていたのか。故郷に帰った時期。村長になった理由。だが走り続けるワゴン車が一般道路から高速道路に入っても物部は口を開かなかった。
 尋ねれば尋ね返される。
 テンコの十年を知るよりも、自分の十年を語る方が嫌だった。テンコも口を開かない。車の走行音だけが絶えず響いている。沈黙は軽くはないが重くもない。背後に抜ける道路照明灯を眺めながら大学時代を少し思い出した。沈黙が苦痛にならない友人はこの十年で一人もできていない。
 高速道路を降りてしばらくすると、建物はおろか街灯すら見えなくなった。山から山へ細く曲がりくねった坂道を走り続ける。
「遠いな」
 黒い窓を見てつぶやくと、薄く映ったテンコが答えた。
「この辺はね。平家の落ち武者がつくった里があったのよ。逃げて逃げてようやく腰を下ろした深い山。古民家はもう少し先よ」
 運転席に目を向ける。
 テンコは正面を見据えたままだ。ヘッドライトの照り返しで仄かに姿が浮かんでいる。鼻筋の通った横顔、弛(たる)みのない首筋、ハンドルを握るしなやかな指先。昔と変わらず目を奪われるものは多いだろう。
 君は……
 口を開く前に車が止まった。
「着いたわよ」
 シートベルトを外してテンコが車を降りる。あとに続くと体が震えた。十月とは思えないほど冷えている。街とは違うんだなと辺りを見渡した。
「おお」
 巨大な輪郭を見上げながら後退(あとずさ)る。
 山が近い。
 生唾を飲んだ。日が昇ってないので判然としないが登山口はすぐそこだろう。寡黙(かもく)でいながら途方のない存在感に内から震えた。
 いまは月の光が聳(そび)える影を照らしている。上弦の月だ。空気が澄んでいるので星々もよく見える。
「ようこそ。霧白村へ」
 柔らかな声に顔を向けると、人影の微笑む気配が伝わった。目を凝らしてみるものの半分の月明かりでは確かめられない。
 七日後ならばと思った。
 白い肌に満月の光が注がれて、さぞかし貴(あて)やかだろう。
 月が雲に隠れた。
 暗さが増して、視覚以外に意識が向かった。
「虫の声がすごいな」
 鈴虫に蟋蟀(こおろぎ)。蛙もわずかに混じっている。
「小さな騒音だ」
 被さるような合唱に文句を垂れてみたものの、気圧(けお)されているのがわかったのだろう。テンコが短く笑った。
「すぐに慣れると思うわよ。少なくとも街の騒音よりは早く耳に馴染むはず。響いてきた長さが違うもの」
 そうかと答えるより先に右手を取られた。甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「古民家はこっちよ。転ばないように気をつけて」
 闇の中を引かれるままに進む。一歩一歩。普段なら気にもしない足裏の感触や足音に集中した。地面が乾いているのか。歩くのに合わせて砂の音がする。
「安心して。私は夜目が利くから」
 冷えた夜気の中で右手のみが温かい。物部は繋がる右手を見下ろした。よくは見えないが確かに自分を引いている。
 君は……
 もう一度胸の内でつぶやいた。
 君はまだ音を嗅げるのか?  
 視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。通常の五感は独立した感覚だ。だが稀(まれ)に混じり合ったものがいる。音を聞くと色が見えたり、物を食べると手触りを覚えたりする人間。俗に言う共感覚者。テンコは聴覚と嗅覚が混ざり合っていた。いまの物部に共感覚はない。昔はあった。突然なくなった。
 尋ねれば尋ね返される。
 黙ったまま歩き続けた。闇が薄くなっていく。
 雲が流れて月に家屋(かおく)が照らされた。薄い光で輪郭のある影としかわからない。それでも立派な造りなのは見て取れた。
「大きいな。何坪あるんだ?」
「四十五坪。横に伸びている家だからそう見えるのよ。入り口はこっち」
 家屋の左端まで歩くと、テンコの手が離れて木戸の開く音がした。
「ここで待っていて。明かりをつけてくる」
 数分も待たないうちに家の奥から柑子色(こうじいろ)が漏れた。
「入って」
 姿を見せないまま再び足音が遠ざかる。
 ほかにもやることがあるのだろう。
「おじゃまします」
 声を上げて開いた戸を潜る。足音が硬くなった。地面を見つめて頭を傾げる。おかしな感じだ。音もそうだがそれだけではない。二度三度踏みしめて、あぁそうかとつぶやいた。屋内で土を踏んでいるからだ。もしも足元がコンクリートなどであったなら違和感を覚えなかっただろう。文字通りここは土の間なのだ。現代の土間とは違う土間。ドマ。
「何してるの? 早く上がって」
 戻ってきたテンコが座敷から見下ろす。
「いま行く」
 靴を並べようと座敷に向かって背を向けて、うしろ向きのまま体を上げる。
 古びた道具が目についた。
「あれは? まだ使ってるのか?」
 物部の視線を追ったテンコが笑う。
「使ってはいないけど使えるようにはしてあるわ。試してみる?」
「遠慮しとくよ」
 ドマの端に据えられた竈(かまど)に背を向け、畳を踏み締める。
 屋内は思った以上に広く、長かった。
 開け放たれた襖の奥で傘のついた裸電球が四つ並んでいる。ぼんやりした明かりは敷き詰められた畳の隅まで届いていない。もっと暗い屋外を歩いたせいか恐ろしさより儚さを覚えた。
「この部屋はウチネと呼ばれているわ。現代で言う居間ね。広さは十二畳よ。その奥がツボネ。八畳あるわ。一昔前は女性専用の部屋として使われていたの。御局(おつぼね)のツボネね。さらに奥が客間にあたるデイ。一番広くて十六畳あるわ。最後の突き当たりにある部屋がコザ。あそこもウチネと同じ十二畳よ。神聖な部屋として壁際には仏壇と神棚が据えられていたけど、今はもう空っぽになってるわ。全ての部屋の収納は右手の壁際。納戸も戸棚もよ。方角で言うと北側ね。造りつけになってるの」
「つまりこの家の背面には開口部がないんだな」
 挟んだ言葉にテンコは微笑みながら頷いた。
「なぜだかわかる?」
 壁の方に目を凝らしてみるがよく見えない。
「直列の間取りが関係ありそうだ」
「ふふ」
 細い目がもっと細くなった。
 糸目から一番奥の電球に目を向ける。
「仏壇と神棚も関係ありそうだ」
「それ以上の探りは駄目よ。答えて」
「山だ。山間部は傾斜ばかりで家を造るための平らな土地が滅多にない。だから山を削って細長い土地に家を建てた。山に沿った家は崖崩れの危機に晒される。それを少しでも回避するために山側を収納部分に当てて出入りをなくした。念を入れて神仏を奉った」
「正解。簡単だったかしら?」
「いや、難しかったよ」
 車を降りたときに圧倒されなければわからなかっただろう。
「景品は明かりでいいよ。この照明器具をもっと強いものに変えてくれ」
 電球を指差しながら告げると、テンコは四つの部屋を見通して頷いた。
「わかった。明日、じゃない。零時を回っているから今日ね。今日中に明るい電球を持ってくる。今夜はもう遅いから休んでちょうだい。布団はデイに敷いてるわ。一人で行ける?」
「迷いようがないだろ」
 軽口に軽口で返した。
「ほかに訊いておきたいことは?」
「風呂は明日でいいとして、トイレの場所は知っておきたいね」
「外に仮設トイレを用意してる。場所はドマの隣の隣。隣がお風呂場よ」
「外か。まぁ、そうだろうな」
「欲しいものはない?」
「いまのところはね」
「思いついたら隣に住む河原早苗さんに伝えて。八時に朝食を持って来てくれる予定よ。仕事が終わったら私も顔を出すわ。念の為に携帯電話の番号を教えとく」
 渡された名刺を見下ろす。
「携帯電話は持って来てないよ。先月止められたんだ」
「だったらこの家の電話を使って。ウチネの棚に黒電話を置いてるわ」
「クロデンワ」
「観光客に受けそうでしょ。村役場ではここを宿泊施設にという案も出ているから使えるようにしてあるの。そういった話はまたおいおいね。今夜はもう帰るわね」
 背を向けてテンコがドマへと下りた。
「夜道に気をつけて」
 ウチネとドマの敷居に立って声をかける。
 ええと笑って頷くと、テンコは木戸の前まで歩いて振り返った。
「サク。来てくれてありがとう」
 微笑み返して頷いた。
「どういたしまして」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 響いたエンジン音が遠ざかるまで待って、ウチネの傘電球に目を向けた。手を伸ばして電源を探る。傘との間に突起を見つけて爪をかけると、弱い明かりは緩やかに消えた。
 暗闇の中をすり足でツボネに移動する。靴下を履いているので足音は滑らかだ。しかし歩行はおぼつかない。
「こいつはつけておこう」
 二つ目の電球を見上げてつぶやいた。
 寝る前の習慣で明かりを消してしまったが、慣れない家では弱々しい電球でも灯っていた方がいい。
 ツボネを通り越してデイに移動する。家の中で最も広い部屋だ。
「ここから匂っていたんだな」
 物部は囲炉裏(いろり)を見下ろしながら手をかざしてみた。温もりは残っていない。しかし最近使われたのは間違いないだろう。
 ドマに入ったときから燻(いぶ)した匂いはしていた。黙っていたのは嗅覚の話を避けたかったからだ。同じ理由で寒さが和らいだことも口にしなかった。
 豆電球に照らされた灰を見ながら揺れる炎を想像する。燃やす木はもちろん燃やし方もわからない。それでも炎を見ながらまどろむのはとてもいいものに思えた。
「寝よう」
 囲炉裏の隣に敷かれた布団に体を倒して潜り込む。
 あぁ。
 思わず声が漏れた。陽だまりの匂いがする。どうやら掛け布団も敷布団も干したてらしい。鼻から息を深く吸い込んだ。もう一度。もう一度。四度目の途中で物部は眠りに落ちた。

 火曜の朝。
 深い眠りだった。騒がしかった合唱も気にせずに眠っていた。仰向けのまま目を開くと、黒々とした梁(はり)と茅葺(かやぶき)の屋根裏が見えた。天井はない。茅葺の内側は幾本もの竹が組まれている。薄い明かりが余計に奥行きを感じさせた。どこかで雀が鳴いている。
「何時だ?」
 体を起こして辺りを見渡す。北側の壁に掛け時計を見つけた。七時四十二分。飴色(あめいろ)の振り子が揺れている。規則的な音が微かなのは嵌(は)め込まれた窓が音を押さえているからだろう。
「窓」
 そういえばここに来て一度も見ていない。布団を畳んで隅に運ぶ。その足で全ての部屋を覗いてみた。北側はもちろん左右の突き当たりにも窓はない。西のコザは雨戸兼用の木戸(きど)で、東のドマは板壁だ。南側の長い縁側も全て木戸である。
「天井も窓もない家か」
 つぶやいて縁側に向かう。閉まった木戸の光の漏れる隙間に右手をかけた。
「んっ。重いな」
 一枚ずつ戸袋へ入れた方がいいかもしれない。
 そう思いつつ両手をかけた。腰を落として強く引く。固い。無理かと思いかけたところで力が抜けた。
 光が射し込む。
 きつく目を閉じた。眉間の力を抜いて徐々に瞼を上げていく。外が見えた。見開いた。
 透き通った朝日の下で金色(こんじき)の稲穂が輝いている。段々に下がった田園は全て豊作だ。その先の細い川の水面(みなも)では乱反射した光が揺れている。川向こうの岸に田んぼはない。急斜面の山肌に生えたさまざまな木々も朝日に照らされている。
 少しだけ呼吸を忘れた。
「これが、霧白村か」
 朝の空気を胸が冷えるほど吸い込む。
 美味い。
「棚田を見るのは初めてですか?」
 ふいに声をかけられた。眼下の景色から庭先に顔を向ける。
 生垣と縁側の間に小柄で膨(ふく)よかな老女が立っていた。割烹着姿で微笑みながら両手でラップした膳を持ち、右肩には保温弁当、左肩には水筒を下げている。目が合うと緩やかに頭を下げてきた。
 会釈を返して質問に答える。
「直に見るのは初めてです」
「来週には稲刈りが始まるんで今が一番の見頃なんですよ」
「綺麗ですね。本当に」
 微笑んだまま老女が息をついた。
「よかった。さっき大きな音がしたでしょう? それで少し心配してたんです。その様子だと大丈夫のようですね」
「あぁ、実は木戸を引っかけてしまいました。すいません。お騒がせしました」
 下げた頭を戻して尋ねる。
「河原早苗さんですよね?」
「はい。あなたは物部索朗さんですよね?」
 頷いてもう一度深く頭を下げた。
「一週間。よろしくお願いします」
「こちらこそお願いします」
 早苗もお辞儀をすると、手にした膳を持ち上げて見せた。
「朝食を持って来たんで食べてください」
 ドマへと回り込むのを見届けて、木戸を戸袋に一枚ずつ収める。窓の代わりに障子を閉めた。デイに戻ると、早苗は囲炉裏の下座に腰を下ろしていた。上座にはラップを取り払った膳が置かれている。
「おいしそうですね」
 揺れ立つ湯気を見下ろしながら腰を下ろした。
「温かいうちにどうぞ」
 手を合わせて顎(あご)を軽く引く。
「いただきます」
 箸を取ってまずは白飯(しろめし)を口に運んだ。水気を含んだ一粒一粒がほんのり甘い。ほどよい固さを噛み締めながら油の乗った秋刀魚の塩焼きに手を伸ばす。ほぐした身を口に運ぶと香ばしさが鼻の奥で広がった。締まった身と振った塩がよく合って、米をさらに進ませる。薄い焦げ茶のかかった目玉焼きは半熟の濃い黄身が口の中で蕩(とろ)けた。揚げ豆腐ともやしの味噌汁を喉を鳴らして飲み下す。食べ終わるまで一度も箸を止めなかった。
「熱いから気をつけて」
 水筒の蓋(ふた)に注いだ茶を礼を言って受け取る。息を二度吹きかけて啜った。わずかな渋みが舌を洗う。一息ついて、さらに啜った。空(から)にした蓋を早苗に返す。戻した右手と左手を合わせて一礼した。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
 互いに下げた頭を戻して微笑み合った。
 穏やかな気配の中で縁側に目を向ける。障子越しの光は柔らかい。もう少し明るくていいかなと、昨夜から点けっぱなしの電球を見上げた。
「物部さんは恥ずかしがり屋ですか」
 唐突な問いかけに早苗を見ると、同じ口調で繰り返された。
「照れ屋さんですか」
「いや、人並みだと思います」
「それなら障子を開けてはどうでしょう。冷えるようでしたら囲炉裏に火を入れますし、屋内を燻せば虫も入ってきませんよ」
 もう一度障子を見る。ここでは開けるのが正しいのだなと一人頷いて腰を上げた。早苗も立ち上がってデイの障子に手をかける。一部屋開け放つと、物部はコザへ、早苗はウチネに移動した。澄んだ空気が緩やかに流れ込んで来る。全ての障子を開け放つと、屋内にいながら屋外を感じた。古民家にいるのだと改めて思いながら囲炉裏の前に座り直す。
「いい所ですね」
 戻った早苗が座るのを待って言った。
「山ばかりですけどね」
 早苗の目尻が下がって皺(しわ)が寄る。
「霧白村にはどれくらい住まわれているんですか?」
「八十年です。生まれてからずっと暮らしています。典子様(のりこさま)も幼い頃から知っていますよ」
 典子様。一瞬戸惑ったもののすぐにテンコの正しい名前だと思い出した。
「あの、ここでは村長を様づけで呼ぶんでしょうか? 」
「あらいけない。つい昔の癖で。典子さんにも言われるんですよ。止めてくれって」
 口元に手をやって笑う早苗に続けて尋ねる。
「二人の関係を訊いてもいいですか」
 早苗は笑ったまま頷いた。
「本宅の方で女中として働いていたんです」
「女中さん、ですか」
「四十五歳から七十歳まで勤めました」
「この家で働かれていたんですか?」
「いいえ。ここが本宅だったのは百年前なので私はまだ産まれていないですね。それまで稲本家のお方は代々この家で暮らしていたのですが、典子様の祖父にあたる源平様が家督を継いだ際に新しい本宅を建てられたんです」
 物部は奥部屋のコザを見た。
「仏壇や神棚はそのときに移されたんですね。それまではたくさんの人があそこで拝んだんだろうな」
「昔は三世帯同居が普通でしたからね。ここで暮らした人達を合わせれば三桁に届くでしょう。たくさんの思い出が詰まった場所だから壊さずに残しているようです。その家にいまは物部さんが一人でいらっしゃる。時間というのは不思議ですね」
 コザから早苗に視線を戻すと、丸顔の瞳が遠くを見ていた。
「気づけば私もこの通りのおばあちゃんです。可愛らしかった典子様はとても綺麗になられました。典子様は幼い頃から優しくて賢くて、私が辞めたあとも変わらずに接してくれます。この度、お友達を連れて来られると聞いて、私、とても楽しみにしていたんです。物部さんは本をお書きになっている先生なんですよね?」
 右手を大きく振って返す。
「とんでもない。先生は止めてください。テン、典子さんとは確かに友人ですが、彼女と違って僕はまったく偉くないんです」
 焦ってあだ名を口にしかけた。様付けに戻っている早苗を笑えない。
「そうなんですか? でも、物部さんがいい人なのはわかりますよ。食べっぷりがいい人に悪い人はいません」
 胸を張って体を揺らす早苗においしかったですからと笑い返す。
「うちの主人もおいしいと言ってくれますが、お互い年寄りですからね。物部さんのように勢いよく食べて貰えると作りがいがあります。昼食のお弁当は戸棚に置いておきましたのでお腹が空いたら食べてください」
 皺の寄った掌が円筒の保温弁当を示す。
「味噌汁つきですよ」
 最も美味いと思ったものを言い当てられた。眉を寄せて笑う。
「お見通しですね」
 早苗も笑って頷いた。
「お昼までは時間がありますからお風呂とトイレと蔵の案内をさせてください。典子様から頼まれたんです」
「蔵もあるんですか?」
「はい。始めてよろしいですか?」
 断る理由はない。
「よろしくお願いします」
「それではまずお風呂に参りましょうか」
 立ち上がった早苗に続く。ドマへ下りると竈の隣にある流し台が目に入った。昨夜は暗がりに隠れて見えなかったものだ。木製の箱に足を四本つけた素朴な作りになっている。壁から伸びた蛇口は二つでバルブは三つ。
「河原さん。あの蛇口の一本は赤と青のバルブが付いているのでお湯と水ですよね。すると、もう一本の青いバルブの蛇口はなんですか?」
 足を止めた早苗が流し台に顔を向ける。
「湧き水です」
 予想通りだ。
「地元の人間はほとんどこちらを使います。文字通り水が合うというやつでしょうね」
「さきほどの味噌汁やお茶も湧き水ですか?」
「ええ、そうですよ」
 こちらを横目で見やって早苗が笑う。その視線はいたずらめいていて、物部を苦く笑わせた。
 再び流し台に目を向ける。
「桶がありますね。ここに水を溜めて、使った食器を浸けておけばいいんですね」
 えっと早苗は声を上げて振り返った。
「そんな必要はないですないです。次に来たときにそのまま渡してください」
「いいえ。これぐらいはさせてください。実は別れた妻がこびりついた米粒や糊(のり)が大嫌いでして、流しに食器を持っていくことを徹底して躾(しつけ)られたんです。別れてだいぶん経つのにこの癖だけは抜けないんですよ」
 妻という言葉で早苗の肩は小さくだが確かに震えた。テンコとの関係を疑っていたのかもしれない。
「そこまでおっしゃるならお願いしていいですか」
 しょうがないといった調子で息をつく。
「交渉成立ですね」
 茶化して笑う物部を早苗は笑わずに見つめた。
「物部さん」
 笑顔を引っこめて答える。
「なん、でしょう?」
 早苗は数秒見据えて、笑った。
「お風呂場に行きましょう」
 茶化し返された。
 やられたなと頭を掻きながらあとに続く。ドマを出て左に曲がると、横幅が一メートルほどある隙間が見えた。切り揃えた五十センチほどの木材と鉈(なた)を食いこませた丸太が置かれている。
「こちらが薪になります。手前から竹、杉、桜、小楢(こなら)ですね。竹と杉は竈と風呂釜用。桜と小楢は囲炉裏用。杉の皮は着火に役立つので剥がして使ってください。この隣がお風呂場です。手前が焚き場になります」
 小走りで早苗の前に移動した。風呂釜の竈はドマの竈より小さいが、奥行きがあって鋼(はがね)の扉がついている。
「ちょっと待ってください。風呂場はお湯が出ないんですか?」
「出ますよ。ドマの流し台と同じで蛇口は二つあります。薪の奥に小型のボイラーがあるんです。燃料の灯油は満たしておきました」
「よかった。わざわざ焚かなきゃいけないかと思いましたよ」
「焚かないのですか?」
 眉を上げて訊かれた。
「普段はシャワ―ばかりですし経験もありませんから」
「よかったら一度焚いてみてください。薪で沸かしたお風呂は気持ちいいですよ。水の芯まで届いた熱が体の芯まで温めます。入るときは簀子(すのこ)を沈めてくださいね。足を火傷してしまいますから」
 返事の代わりに短く笑う。早苗は微笑んで歩き出した。無理強いする気はないようだ。五メートルほど先の仮設トイレに向かって歩く。
 先に着いた早苗が掌を上げた。
「トイレです」
 近づいてドアを引いてみる。和式の水洗トイレだ。古民家の雰囲気を考慮したのだろう。
「現代の厠(かわや)ですね。仮設トイレを置く前もここで用を足していたんですか?」
「いいえ。もっと離れた場所だったと聞いています」
「厠というぐらいだから川の側だったのかな?」
「私の実家では畑の側にありましたよ。幼い頃の話ですけどね」
「肥料として使っていたんですか?」
「いいえ。人のを使わなくても家畜のものがありましたし、むしろ衛生的な理由で離れにあったと思います。昔のトイレは臭いましたしね。地面に掘った穴の上に小屋が建っていて、中に入ると左隅に落とし紙が一枚ずつ積まれていました。ぽっかり開いた黒い穴とぼんやり浮かぶ白い紙。夜は怖かったですね」
「黒い穴ですか」
 早苗の言葉を繰り返して白い便器を見つめる。ドマや囲炉裏のように昔の厠は土を直に感じるものだったのだろう。見下ろす便器は滑(なめ)らかで水洗だ。直の感じは薄い。戸を閉めて、仮設トイレから離れた。
「次は蔵ですね」
「コザの隣に建っています。行きましょう」
 来た道を戻って、縁側からコザの奥に回ると、漆喰の塗られた土蔵が姿を見せた。短い軒に高い床。早苗は三つの石段を上がって、懐から和鍵を取り出した。両開きの扉にかかる角張った和錠に挿し込んで回す。がきんと低い金属音が響いた。
「手伝って貰えますか?」
 頷いて石段を上がる。左の扉の取っ手を早苗が掴んだので、物部は右の取っ手を握り締めた。防火のための扉は段になっていて分厚く重い。腰を落としてゆっくり引くと、格子(こうし)の引戸が現れた。
「その奥にはもう一枚あるんですよ。開けてみてください」
 言われるままに戸を滑らせる。
「最後は網戸(あみど)ですか。厳重ですね」
「鼠一匹通しませんよ」
「入ってもいいですか?」
「その前にこちらを渡しておきますね」
 手垢と錆で黒々とした和鍵を差し出された。ペン二本ぶんの太さがある。
「どういうことですか?」
「典子様にこうしてくれと言われています」
「中の物を持ち出して売りさばくかもしれませんよ」
「構わないと思います」
 軽口をものともせずに早苗が答えた。目尻は下がったままである。
 やはり上手(うわて)だなと口元を緩ませて和鍵を受け取った。
「どうぞお入りください」
 網戸を開けて中に進む。出入口から差し込む光で見通しは悪くない。正面上部に窓があった。開けばもっと明るくなるだろうが高くて届かない。左右の棚には少数の木箱や剥き出しの民具が並んでいる。皿に鉢、行李(こうり)、笊(ざる)、瓶(びん)、酒器(しゆき)、臼(うす)、燭台(しよくだい)。破損している物も少なくない。
「すごい量ですね」
「ほとんどの民具は典子様が集めたものですよ」
「観光用にですね」
 思ったまま口にすると、早苗が小さく吹き出した。
「あれ? 間違ってました?」
「いえいえ、当たっています。ごめんなさい。物部さんを笑ったのではないんです。典子様の武勇伝を思い出してしまって」
 目の奥が煌(きら)めいている。話したいのだろう。
「聴かせて貰っていいですか?」
 物部の呼び水に早苗は嬉々(きき)として語り始めた。
「実は霧白村は三年前になくなりかけているんです。過疎や財源確保といった問題が年々大きくなって、隣のG町やN市との合併が検討されました。既に議員であった典子様は猛反対されましてね。その頃には村民はもちろん一部の議員にも支持されていましたから、ほかの町が吸収されていく中で持ち堪えていたのです。けれども奮闘むなしく計画は進み続けて、霧白村合併の決議案は提出されてしまいました。その一週間後。いきなり市町村合併から霧白村は除外されたのです。典子様は反対を訴えるだけでなく、あるものを必死で探していました。それがあれば合併してできたY市に大きな借りができるとかで逆転ホームランボールと言っていました。物部さん。それが何かわかりますか? 」
 いきなりの質問に戸惑いつつ考えた。
「ボールの正体ですか。ボール、ボール。ホームランボール。合併。行政。財源。住民。まちづくり」
 思いつくままにつぶやいていく。
「観光、古民家、市への借り……あ、もしかしてその市にしかない独自のもの。遺跡や古墳だったんじゃないですか? 」
 早苗の笑みが広がった。
「半分正解です。答えは設計図。からくり城の設計図だったんです。典子様はY市内に残っていた城跡からその設計図を発掘したんですよ。設計図から復元されたからくり城は今やY市の観光名所。見物料やおみやげなどで毎日多くの観光客が財布の紐を緩めています」
「Y市のからくり城発見ですか。ニュースになりましたよね。発見者は市役所の職員じゃなかったかな」
「それは典子様の指示だったそうです。地元民による地元のための町おこし。美談はより大きな集客と生みますからね。典子様はY市に大きな貸しを作って合併から除外させたのです。ここにはY市から送られてきた民具もたくさんあるんですよ」
 なるほどと笑った。
「持ちつ持たれつというわけですか」
「古くて壊れた物もありますから展示にはまだ時間がかかると言っていました」
 早苗の説明に頷きながら痛みの少ないものを探してみた。
「これは? 壊れているようには見えませんが?」
 剥き出しのまま置かれた漆の小皿を持ち上げる。
 ああ、それはと短い息が吐かれた。
「傷の目立たない品なのです。ちょっといいですか」
 伸びてきた指先に小皿を乗せる。早苗は小皿を裏返して右手を扉の近くに翳(かげ)した。斜線となった光の中で塵(ちり)が舞っている。輝く粒子(りゆうし)を受ける小皿は、爛(ただ)れていた。
「底の高台が少し焦(こ)げているでしょう? この小皿は不思議なんですよ。傷を補うような気配があるんです」
 早苗は微笑んだまま小皿を物部の手に戻した。
「物部さんは目利きですね」
「たまたまですよ」
 笑い返すと、緩やかに頭を振られた。
「典子様はその小皿をずっと探されていたのです」
「思い入れがあるんですね」
 落とさないように棚へと戻す。
「待ってください。さきほども言いましたようにこの中の品物は物部さんの自由です。試しに使ってみてはどうでしょう」
 止めときます。
 そう言おうとしたが声に出さなかった。舞い散る塵の中で見た小皿に惹きつけられたのは事実で、使えるなら使ってみたかった。
「いいんですか」
 抑えた声で尋ねると、早苗は口角を引いて頷いた。
「もちろんです」
 手にした小皿を見つめる。ふと浮かんだ疑問が口を出た。
「彼女はなぜ村長になったのですか?」
 返事がない。
 顔を上げると、早苗は虚ろな目で埃(ほこり)の積もった床を見ていた。
「河原さん?」
「物部さん」
 二人の声が重なって視線が絡む。互いに短く笑った。
「さぁ、どうしてでしょう。稲本家は代々霧白村の村長を務めていますからそれが理由かもしれません」
 大学時代。物部とテンコと中谷は示し合わせたように家族の話をしなかった。
 瞳に影を過ぎらせて早苗は続ける。
「典子様には埜子様(ひろこさま)というお姉様がいました。典子様が生まれる前に亡くなられたんです。自殺でした。そのことが前の村長である旦那様と奥様の仲をこじらせたと私は考えています。もともと体の弱かった奥様は入院されて、典子様が大学を卒業した年に亡くなりました。そのあとを追うように旦那様も亡くなりました。現在、典子様は広いお屋敷にお一人で暮らしています」
 唇を引き締めて尋ねた。
「そんな大事な話。僕が聞いてもよかったんでしょうか」
 目を細めて早苗が頷く。
「物部さんの質問にはできるだけ答えて欲しいと言われています。ただ、そうしたくないならばそれでも構わないとも言われています。私は貴方(あなた)なら話していいと思ったんです。そろそろ戻りますね。夕飯どきにまたおじゃまします」
 頭を下げた早苗は蔵を出て、ドマに向かった。膳と食器を取りに戻ったのだろう。その場で眺めていると、すぐにドマから出てきて、会釈をして帰っていった。
「買い被りですよ」
 遠ざかる背中を見つめながらつぶやく。小皿をポケットに仕舞って蔵に鍵をかけた。
「腹、減ったな」
 座敷に戻ると振り子時計は十二時を回っていた。早苗の持ってきてくれた保温弁当を縁側に置いて胡座(あぐら)をかく。円筒の弁当箱には三つの容器が入っていた。上段のおかずに中段の味噌汁と下段の白飯。どれも熱を保っている。蓋を開けると内側の滴がひとすじになって流れた。横一列に並べて手を合わせる。
「いただきます」
 まずは量のある白飯を口へ運んだ。今朝より少し軟らかい。密閉によって蒸されたのだろう。甘味がわずかに増している。歯ごたえのあるきんぴらごぼうを食べて白飯。肉汁の溢れるシュウマイを食べて白飯。味噌汁を飲んで白飯と食べている内に、残りはごま油の香るさつま揚げだけになった。焦げ目のついた茶色の皮が唾を湧かせる。口にすると噛むほどに香りと旨みが広がって、四切れのうちの二切れをすぐさま腹に収めてしまった。
 醤油につければもっと美味くなるかもしれない。
 たわいない思いつきは流し台の上に置かれた小壺を思い出させた。
 立ち上がってドマへ向かう。棚に並ぶ小壺の表面はどれも滑らかで赤茶けている。右端の壺を手に取り、蓋を外すと、白い結晶が目に入った。指をつけて舐めてみる。甘い。
「砂糖か」
 隣の壺を開けてみる。こちらも白い結晶だ。しょっぱい。
「塩だな」
 三つ目の壺を持ち上げると中身がとぷんと揺れた。
「これかな」
 蓋を外すと、見るより先に鼻にきた。顔をしかめて蓋をする。
「酢だ」
「さ、し、すとくれば、次が当たりか」
 四つ目の壺を取ると、またもや液体が揺れた。流し台に置いて黒々とした中身を確かめる。
「せうゆで醤油。料理のさしすせそ。小学校で習った家庭科を思い出すな」
 最後は味噌だが確かめる必要はない。目的のものは手に入れた。汲み出すための柄杓(ひしやく)は流し台の縁(ふち)にかけてある。
「まずは洗わないとな」
 湧き水の蛇口を捻(ひね)って、ポケットから出した小皿を濡らす。食器用洗剤もスポンジもない。両手で直に水洗いした。冷たい水が飛沫を上げる。洗う右手に漆の滑らかさ。支える左手に焦げた高台の粗さ。流水の中で二つの手触りが混じり合う。蛇口を閉めて、滴を垂らす小皿を見つめた。
 どうしてそうしたかはわからない。
 物部は小皿を裏返して焦げた高台を舐めていた。
 痺(しび)れる苦味。
 視界が赤色になった。

 焼かれている。
 胸に作務衣(さむえ)を抱えた女が炎の中で蹲(うずくま)っている。

 目を剥いて、流し台に小皿を落とした。
 開いたままの右手を額に乗せてつぶやく。
「……戻った?」
 額から下ろして唇を触る。
「この小皿が特別なのか?」
 濡れたままの小皿を拾い上げると、滴に光が当たって煌めいた。
「湧き水が関係しているのか?」
 わからないことだらけだ。
 蛇口を強く捻って水を吹き出させる。左手に持った小皿を右手の指を揃えて丹念に洗った。
 どんな理由であれ共感覚が戻ったのなら確かめたい。
 物部は醤油壺を放置してコザへ向かった。
 濡れたままの小皿を空っぽの神棚に置いて息を整える。
「よし」
 両手で掬うように持ち直して一歩下がる。腰を下ろすと自然と正座になった。裏返した漆の小皿を口へと近づけて舌を出す。小皿の冷たさが舌の根に乗った。手前の縁から奥の縁へ。一息に舐め上げた。ねっとりとしたとろみが舌の上で渦を巻く。歯茎に顎、鼻、首、頭。渦は徐々に広がりながら意識を奪っていった。

 見える。
 男が見える。
 作務衣を纏った男が刷毛(はけ)で漆を塗っている。眉毛が太く筋肉質の男は三十七歳ぐらいだ。
 人の年齢は顔と首と手の色合いを見ればわかる。皮膚の弛みと髪の潤いも見比べれば九割方間違えない。誤差は一年以内で留められる。長年磨いてものにした力だ。
 男は物部に気づくことなく顔料を並べた机の前で作業に没頭している。揺れない眼差しと迷いのない手つき。尻に敷いた座布団の傷みからしても熟練工だとわかる。
――小皿の産みの親だな。
 発した言葉は声にならずに物部の中だけで響いた。五年ぶりの感覚だ。意識だけになっている物部は男に関与できない。だが感じる。見て聞いて嗅げて触れて味わえる。矛盾した現象だ。初めて体感した八歳のときは頭の中身を疑ったし母親の呪いとも思った。共感覚だと気づいたのはずいぶんあとだ。
 物部は記憶を味わう。
 物に記された強い憶(おもい)を味覚からほかの感覚へ繋げられる。巧みな文章描写や映像演出も敵わない体感。しかしどんなに実在として感じても関われない。読者や視聴者のように一方的に感じるのみだ。どの五感も度を超えた接触は許されない。味わっている記憶を変えようとすればその時点で意識も景色も乱れ散る。固定化された過去は決して変えられない。味わっている最中はただ流されるのみ。記憶を記録した物の傍(かたわ)らで体感しては飛ばされる。物部は精神と肉体の間を漂う淡い存在になる。
 共感覚が戻った理由はわからないが、とにかく今は感じようと改めて男を見た。
――さっそくか。 
 手ぬぐいを巻いた男の頭が歪んでいる。空間そのものが捩(ねじ)れたような感じだ。よく見ようと思う間もなく景色が一変した。

 向かい合って座る二人の男女。部屋は広くない。六畳ほどの客間。間取りから見てアパートだろう。カレンダーの日付は三十年前。
「これ、やるよ」
「わたしに? 」
 作務衣の男が掌に収まる木箱を差し出した。
 受け取ったのは炎の中で蹲っていた女。年は四十歳ほどだ。炎の中より六歳ほど若い。記憶を味わっている間は場所も時間も超越する。すばやい状況整理が必要だ。男の見た目は変わらない。作業場の景色も三十年前になる。
「こんな高いものいいの?」
 木箱を開いた女が目を見開く。
「千年使える代物だ」
「ありがとう。すごく嬉しい。なんだか使うのもったいないね」
「おいおい、千加子(ちかこ)。漆器っていうのはな」
「使えば使うほど味が出るもの。でしょ?」
 千加子の挟んだ言葉に男はわかってるじゃねぇかと大口で笑った。
「こう見えても職人の女ですよ。大事に大事に使わせて貰います」
 笑い合う二人の間では二歳ほどの幼女が寝息を立てている。

 同じ室内で眉尻を下げた男が千加子に詰め寄っている。
 三年経ったようだ。男は髭を生やして、千加子は痩せている。
 小皿は食器棚の中だ。
「嘘だよな。なっ? 嘘だろう? あいつの子じゃねぇよな。俺達の子だろ? 何とか言えよ。俺に抱かれながらあいつにも抱かれてたのか? それを五年も黙ってたのか? 違うよな? 千加子。嘘だと言ってくれ」
 両肩を握られた千加子は俯いたまま震える声で答えた。
「ごめんなさい。征二(せいじ)さん」
 吼(ほ)えた。
 千加子を突き飛ばし、征二は天井に向かって吼え立てた。剥いた目から涙が、口の端から涎(よだれ)が垂れて、唾(よだれ)が爆ぜる。声を切らすと首の筋が浮くほど噛み締めて唸った。
「あの野郎。殺してやる」
 倒れたままの千加子が顔を上げた。
「止めて。お願いだから危ない真似(まね)は……」
「うるせぇ! 許さねえ。絶対に許さねえぞ」
  拳を握りながらキッチンに向かった征二は、戸棚から包丁を取り出して手拭いで包むと作務衣の懐にしまった。
 背後で見ていた千加子が征二の腰にしがみつく。
「駄目っ。待って。落ち着いて。罠なのよ。あの人はあなたをわざと怒らせて、それで埜子さんと莉子(りこ)ちゃ……」
 征二は千加子を乱暴に引き剥がして睨みつけた。
「言うな! その名前を言うな! あのジジイだって俺を許す気なんかねえんだ。こうなった以上やるかやられるか。それしかねえ。ねえんだよっ」
 征二は懐に手を入れたまま外へ駆け出して行った。

「死んだ?  」
 景色が変わって聞こえたのは千加子の声だった。姿は見えない。隣の客間にいるようだ。漆の小皿は台所のテーブルに置かれたままになっている。
「川岸で……はい。聞こえています。大丈夫です。はい、はい……はい。わかりました。すぐに向かいます」
 受話器を下ろす音が聞こえて千加子は居間に来た。漆器を見ている。右目から涙がひとすじ流れた。
「おかぁさーん。どこぉ」
 両目を両手でこする少女が千加子に抱きついてきた。千加子は濡れた頬を手の甲で拭うと、腰を下ろして言った。
「お父さんね。お仕事が忙しくなったって。しばらく帰れないみたいだからいい子で待っていようね」
「たいへんねぇ」
 しみじみと声を上げる少女を千加子は強く抱き締める。
「そうね。大変。そうだよね」
 震える声と肩。
 景色が歪む。

 熱い。
 焼けている。
 烟(けむ)っている。
「早く逃げなさい! 早く! 」
 炎の外の少女に向かって千加子が叫ぶ。
――また三年経ったのか。
 物部は焦げていくカレンダーを見て思った。
 台所も、寝室も、小皿の贈られた部屋も燃えている。
 息がまともにできない。咽(のど)が痛い。このままここに留まれば意識が乱れ散るだろう。流れに逆らわなければ現実に戻る。これまでの経験ではそうだった。記された思いで最も強いものが最初と最後に現れた。人は死ぬ寸前に追憶する。
 物部は熱と煙に耐えながら千加子を見た。
 胸元に漆器の小皿と作務衣を抱いている。作務衣は征二の着替えだろう。
――ずっと取って置いたんだな。
 二つの品を抱えながら千加子は笑っていた。汗と涙と尿の蒸発する匂い。肉と髪の焼ける匂い。焼かれながらも小皿と作務衣を守る千加子を物部は見つめ続けた。
 すると口の中に痺れる苦味が広がった。景色は歪まずに物部の体のみが歪む。何が起きたと思う間もなく物部は千加子に引きつけられた。二つの体が混じり合う。

 笑うんだ。笑ってやる。熱くない。もういい。終わった。終わり。赤い。とても赤い。
 典子。逃げなさい。
 意識が遠のく。景色が歪む。赤い炎は闇へと消えた。

 瞼を開けるとコザで横になっていた。
 煙の匂いはしない。熱くもない。
 小皿は畳の上に転がって、焦げた高台を屋根に向けている。
「帰って来た」
 声が音になるのを確かめて体を起こした。傍らで転がっている小皿を拾う。
「テンコに伝えないといけないな」
 つぶやいて立ち上がるとふらついた。血の気が引いて重心が定まらない。共感覚の戻った反動だろうか。ひどく疲れていた。頭を振って両膝に力を入れる。小皿を神棚に戻してコザを出た。縁側に出しっぱなしにしていた弁当を持ってドマへ向かう。約束どおり桶に水を張って容器をつけた。
「これは次回に持ち越しだな」
 さつま揚げを口の中に放り込んで、使わなかった醤油壺を片付ける。
 重い体を引きずってデイの隅に移動した。畳んだ布団の上に倒れ込む。下りてきた瞼が視界を閉ざすよりも早く眠った。

「サク。サク、起きて」
 目を覚ますと夜になっていた。
 明度の増した電球の下でスーツを着たテンコが覗き込んでいる。
「来てたのか」
 瞼越しに両目を揉みながら体を起こした。肩から毛布が落ちる。乾いた目を瞬かせながら壁の時計に目を向けた。八時十分。部屋が明るいのでよく見える。
「電球、変えてくれたんだな」
 白い光から目を離して微笑む。
「いつもこんな遅くまで働いているのか?」
 スーツ姿を眺めながら尋ねると、テンコはいろいろ雑用が多くてねと小さく笑った。
「河原さんに聞いたよ。ずいぶんとやり手なんだって?」
「まぁね。役場の誰よりも働くわよ」
「さすがは典子様だ」
 笑いながら返すと、テンコは口を尖らせた。
「それも早苗さんに聞いたのね。止めてって頼んでるのよ。聞いてくれないけど」
「そういやまた怒られるって言ってたよ」
 二人して笑い声を立てる。
「いい人だよな」
「ええ。お世話になりっぱなし」
 テンコは頷いて笑顔を引っ込めた。
「ねぇ、サク。なにかあった? 昨日と感じが変わってる」
「河原さんに美味い飯を食わせて貰ったからな。それと」
 物部を見る目を見返す。
「蔵で見つけた漆器の記憶を味わったからだろう。五年振りだったよ」
「やっぱり」
「やっぱり? 記憶を味わえなくなったのは中谷にも話してないぞ」
「それでもわかるわ。私はあなたの文章を読んでるもの。サクの書くものは五年前を境に精彩をなくしていった。共感覚を失ったんだとすぐに気づいたわ」
 返す言葉が詰まった。書き手にとって鋭い読み手はありがたくも恐ろしい。気を取り直して口を開く。
「君の方は変わりないのか?」
 眉が八の字に寄る。顰(しか)めっ面(つら)というよりも困り顔。
「重宝しているわ」
 物部はテンコの仕草を見て短く笑った。
「その癖、変わってないな。大学時代、君は匂うと言う度にその顔をしていた。政治家の嘘は臭いかい?」
 右の口角だけを上げてテンコも笑う。
「外側を整えているぶん余計にね」
 嘘つきは饐(す)えた匂いがする。
 十九歳だったテンコの言葉だ。
 嘘は内容に限らずどれも腐った匂いがする。でも臭いとは限らない。果実と肉の腐った匂いが違うように嘘の匂いも違うらしい。テンコが言うには誰かのための嘘は酸っぱいながらも甘い香りが残っていて、自分のための嘘は屍骸(しがい)の悪臭がするそうだ。
 初めて聞いたときはよくできた冗談だと思った。
 だったら君の言葉はどんな風に匂うんだろうね。
 そう言って、同い年の物部はテンコをからかった。
 洒落の聞いた話に洒落で返したつもりだったが、興信所のアルバイトで共に行動するうちに半信半疑になった。テンコが多くの嘘を見破ったからだ。
「サク、どうしたの? ぼんやりして」
 三十二歳になったテンコが首を傾げる。
「君の共感覚を信じた日を思い出していた」
「興信所の事務室ね。懐かしい。あの頃はいつも三人一緒だったわね。失せもの捜しのサクに、遠眼鏡いらずのナカちゃん、そして浮気調査の得意な私」
「捜索のサクで呼ばれるようになったのもあのときからだ」
「私だってそうよ。テンコなんてあだ名は初めてだった。あの頃のサクは失せ物を見つける度にこっそり口をつけてたわよね。それで喜んだり悲しんでたりしてた」
「勘弁してくれよ」
 構わずにテンコは続ける。
「その姿を見てピンと来たの。私と似たような感覚を持ってるかもしれないって。あのときと同じように教えてくれる?」
 上げた右手が漆の小皿を握っていた。
 物部は笑うのを止めた。
「後悔するかもしれないぞ」
 テンコは小皿に視線を移して、数秒見据えてから物部を見直した。
「それでもいい。聞かせて」
「わかった。コザへ行こう。あそこで味わったんだ」
 神棚の正面で向かい合って座る。間に小皿が置かれた。
「昼の弁当にさつま揚げが入っていてね。醤油につけようと小皿を洗ったんだ。そのあとだったよ」
 最初の炎から最後の炎までの記憶を語る。
 テンコは黙って話を聞き終えた。薄い唇から息がこぼれる。
「君は養女として稲本家にきたのか?」
 尋ねてから後悔した。家族の話は不味い。共感覚が戻って気持ちが緩んだか。平静を装いながら相手の出方を窺う。
 テンコはゆっくり頷いた。
「そうよ。私には二人の父と二人の母がいるの。実の父は前村長の稲本儀造で、実の母は比嘉(ひが)千加子。義理の父が永山征二で、義理の母が稲本道子」
 千加子と征二は結婚していなかったのだろうか。それともあえて苗字を別に告げているのだろうか。
 堪らず口にした。
「儀造さんと千加子さんの関係は?」
「不倫でしょうね」
 吼える征二の姿が浮かぶ。
「ただの不倫じゃないだろう? 征二さんは儀造さんを殺そうとしていた。それを止めようとして千加子さんは埜子さんの名前を口にした。埜子さんはテンコのお姉さんだろう。なら征二さんと埜子さんの関係は? それと莉子さんというのは誰だ?」
 疑問が疑問を呼び寄せる。
 そこに熱があるのが不思議だった。
 これまでは記憶を味わっているときも味わったあとも傍観者でいたはずなのにどこか違っている。五年前は翻弄されたことなどなかった。共感覚が戻ったからか。もの書きの虫が騒いだからか。最後の炎の中で千加子と直に混じり合ったからか。
「その人達を知りたいのなら記憶を味わうのが一番よ。蔵の右棚に平たい木箱が保管してあるわ。中にあるのは手鏡よ。明日はそれを味わって欲しい」
 眉間に力がこもる。
「どういうことだ。その漆塗りの小皿。僕が手にするとわかってたのか。小皿を舐めたら共感覚が戻るのもわかっていた? どこまでが君の掌の中なんだ」
「人をお釈迦様(しやかさま)みたいに言わないで。私はただ私のやりたいこと、やるべきことをやっているだけ」
 糸目で直視しながら声を通らせる。
「焦らなくても六日後には多くを知っているはずよ。この小皿はサクの好きにしてくれていい。捨てても壊しても蔵に戻してくれてもいい。明日の夜も来るから話があったら聞かせて」
「その口ぶりは僕が味わうと思ってるみたいだな」
 冷ややかに言ってみるがテンコは動じない。
「思ってるというより願っているわ。今日は帰るわね。それと早苗さんからの伝言よ。夕飯はそこの戸棚に仕舞ってあるから食べてください」
 毛布をかけてくれたのは早苗だったようだ。
「わかったよ」
 一言だけ返すとテンコは頷いて、深い暗闇を帰っていった。

 水曜の朝。
 早く目覚めた物部は風呂場に向かった。
 脂気の少ない体質なのでもう二、三日は平気だろうが、今日も早苗やテンコと顔を合わせるのでそうも言っていられない。
 何よりするべきことがある。
 風呂小屋の木戸に手をかけて、中に踏み込む。
「狭いな」
 石と砂で固めた一畳ほどの浴室に、鋳物(いもの)の浴槽は半畳分。期待はしていなかったが予想以上に古い。屋敷の広さに反比例している。煮炊きほど必要の迫られない場所だからだろうか。湯の用意に手間のかかる当時はこれでも良い風呂だったのだろうか。脱衣所はなく服を入れる竹篭があるのみだ。
 湧き水の蛇口を捻って、楕円(だえん)の浴槽に水を張った。
 小屋を出て、両手に竹と杉の薪を抱える。竈の前に運ぶと、腰を下ろして煤(すす)けた鋼の扉を開けた。中の灰が小さく舞い上がる。
「まずは着火か」
 杉の皮を鉈で削いで、灰の上に重ねる。
「火。火?」
 周りを見回してみるが、それらしきものはない。家の中に戻って、戸棚を手当たりしだいに探した。
「おっ、マッチ箱」
 中身は六本。握って風呂場へ戻る。踏み出す度に小箱は乾いた音を立てた。竈の前に座り直して、再び杉の皮を削ぐ。先ほどより細かく裂いて手前に盛った。
「慎重にいかないとな」
 つまんだマッチを小箱の背に乗せ、短く走らせる。灯った。消さないように静かに運ぶ。小指のほどしかない火の種は、裂いた皮に燃え移って広がり出した。火が炎になっていく。急いで細めの竹を丸ごと一本焼(く)べた。外側を踊るように炎が囲む。暗かった風呂釜の奥が赤々と色づく。手が熱い。顔も熱い。もう一本。さらに一本焼べた。奥に流れた煙は煙突を通って昇っていく。竹が弾けて鳴った。火花が跳ねる。
「おおっ」
 中の空気が温まって破裂したらしい。
「竹は割ってから焼べるんだな」
 三度割って六本焼べた。続けて皮を削いだ杉の薪をバツ字に四本焼べた。炎は燃え盛りながらも竈に収まっている。小皿の記憶で見たのとは違う穏やかな焔(ほむら)だ。
「始末をつけよう」
 物部はポケットに仕舞っておいた漆の小皿を取り出すと、炎の中へ放った。
 燃え盛る赤の中で漆の赤が融(と)けていく。小皿はすぐに小皿でなくなった。
 目を瞑(つむ)って千加子の最後を思い出す。
 しばらくそうしたあとに竈を薪でいっぱいにした。
 立ち上がって、鞄のあるデイに向かう。
「石鹸とシャンプーは簀子の上にあったな」
 歩きながら頬を指先でなでた。
「髭剃(ひげそ)りは、なかったか。夜に頼むか」
 着替えとタオルを持って浴室の戸を開けると、温かく湿った空気に体を包まれた。戸に手をかけたまま振り返る。濛々(もうもう)と湯気が外へ流れ出た。
「いい感じだ」
 戸を閉めて脱衣。竹篭の中に落として、濡れないように隅へ寄せた。
「こちらはどうだ?」
 右手を伸ばして湯につける。
「ァチッ! 」
 素早く引いたが中指の先は見る間に赤くなった。焚き過ぎたらしい。左手を伸ばして蛇口を捻る。流れ落ちる湧き水に右手を入れて冷やしてから手桶で浴槽を掻き混ぜた。溢れさせてはもったいない。水とお湯の混ざる部分を汲み出しながら体を洗った。洗い終わると、いい湯加減になったので、早苗に言われた通り簀子を足で沈めた。底が熱ければ縁も熱いかもしれない。浴槽に腕や尻が触れないように首まで浸かった。心地よい痺れが皮膚を走っていく。油断して浴槽の縁に肘をつけてしまったが、鋳物だからか熱くない。安心と弛緩(しかん)とで締まりのない声が漏れた。背中を倒して縁に頭を乗せる。目を閉じたまま言った。
「これでいい」
 小皿の始末はこれでいい。
 のぼせるまで湯に浸かって風呂小屋をあとにした。
「湯加減はどうでした?」
 縁側で涼んでいると、朝食を持った早苗が現れた。
「焚き過ぎましたがいいお湯でした。薪の風呂はお湯がまろやかになるんですね。温まって和(やわ)らぎました」
「そうでしょうそうでしょう」
 小刻みに頷く早苗と連れ立って囲炉裏の側へ移る。
 今朝のおかずは白菜の味噌汁に五目豆だ。胡瓜の漬け物も添えてある。朝から風呂を焚いたので腹が空いていた。そそくさと腰を下ろして両手を合わせる。
「いただきます」
 まずは味噌汁を啜った。今朝もいい出しだ。喉を鳴らして息をつく。刻んだ白菜は絶妙の煮加減で、口の中に控えめな甘さを広げた。もう一口飲んで、五目豆に手を伸ばす。飴色に煮こまれた大豆に人参、ごぼう、こんにゃく、どれも美味い。ひときわ甘い昆布は、胡瓜の漬け物へ箸を移らせた。白飯を続けざまに掻き込む。今朝も箸を止めずに食べ終えた。
「今日もおいしかったです。ごちそうさまでした」
「それはよかったです。おそまつさまでした」
 お茶を一杯啜って、昨夜の礼を言う。
「毛布をありがとうございました」
「驚くほどぐっすりでしたね」
「面目(めんぼく)ないです」
「夜は冷えるので風邪を引かないでよかったです。お弁当は昨日と同じ場所に置いておきますね。脱いだ衣類を渡して貰えますか。洗濯しておきましょう」
「いま持ってきます」
 素直に従い取りにいく。
「ドマで待ってますね」
 汚れた服と下着を持っていくと、早苗は手提げ袋に衣類を仕舞った。右手にかけて、昨夜の食器と朝食の食器を重ねて持った。
「それではまた夜に来ます」
 緩やかな足取りで帰って行った。
「僕も動くか」
 和鍵を持ち出して蔵へ向かう。重い扉を開いて中に入ると、右棚に体を向けた。
「これだな」
 両手で平たい木箱を引き寄せる。蓋を外すと、丸い手鏡が現れた。柄(え)を握って持ち上げる。
「これも破損品か」
 映った顔の頭頂部から左眉にかけて罅(ひび)が走っている。裏返すと、黒い漆に白い蒔絵で薄(すすき)の原っぱと満月が描かれていた。
 手にしたまま蔵を出る。
 水につけるのは少し心配だったが、流し台で洗っても罅は広がらず、裏の模様も剥がれなかった。水気を切って、デイまで進む。鞄からタオルを取り出して注意深く拭った。これでも記憶が味わえたなら濡らしたままでなくてもよくなる。タオルを仕舞ってコザに進んだ。両手に持ち直した手鏡を神棚に置いて息を整える。
「よし」
 いったん下ろした両手を伸ばして丁寧に持ち上げた。一歩下がって正座する。両肘を引いて舌を出すと、映る自分の顎先から頭に向かって舐め上げた。
 滑らかな無味。
 視界が青色になった。
 
 水の中を泡が昇っていく。
 連なる泡が征二の口から溢れている。
 差し込む光は弱々しく、泡が向かう水面以外は暗い。
 激しく流されている。
 完全な生身であれば物部も必死に藻掻(もが)いていただろう。冷たさと息苦しさに耐えながら意識を乱れ散らさないように見続ける。
 征二の泡が浮かなくなった。
 手鏡を握り締めたまま暗い水底へ沈んでいった。

 駐車場に窓を開けた軽トラックが止まっている。周囲は高原で、晴れた日差しを受けている。運転席に征二が座って、助手席に女が座っている。
「埜子。俺はまだ見習いで稼ぎも少ない。三ヶ月かけてこんな手鏡を作るのがやっとだ。もっともっと修行して職人になる。だから」
 二十二歳ほどの征二は握った手鏡を助手席に差し出した。
「俺と結婚してくれ!」
 埜子は軽く目を見開いて静かに声を上げた。
「征ちゃん」
――この人が埜子さんか。
 肩で切り揃えられた黒髪に、垂れた目許。もの静かな佇(たたず)まいに品がある。二十一歳ぐらいだろう。
 物部はすばやく逆算した。目の前にいる征二と沈んでいた征二の年齢差は約十八年。これから見る手鏡の記憶は十八年の中で起きた出来事になる。
 埜子が手鏡を受け取って「はい」と頷いた。
「いいのか? 本当に? 一緒になってくれる?」
 微笑みもう一度頷く埜子を、征二が強く抱き締めた。
「絶対幸せにする」
 征二の右肩の上で埜子の瞳が潤む。

 白く明るい病室。ベットの上で半身を起こした埜子が抱えた赤ん坊を手鏡であやしている。先の景色から一年が経ったようだ。
「莉子ちゃん。りーちゃん。自分のお顔が見えるかな。この鏡はお父さんから貰ったお母さんの宝物ですよ」
 鏡に映るのは閉じた瞼に毛のない頭。顔も腕もまるまるとした女児だ。血色のいい肌は見るからに健康そうである。
 勢いよく扉を開いて征二が現れた。
「産まれたか!」
 突然響いた大声に莉子が泣き声を上げる。
「元気だなぁ。抱いていいか? 大丈夫か? おお、柔らけぇ。首が取れそうだ。よしよし、泣け泣け。好きなだけ泣け。俺がお前の父親だ」
 泣いている莉子も、笑っている征二も、埜子も、命を輝かせている。
――それがどうして。
 疑問と呼応するかのように景色が歪んだ。

 薄暗い和室。手鏡が供えられた仏壇の前に埜子がへたり込んでいる。
 遺影の莉子は四歳ほどだ。膨よかな頬肉と垂れた目許に赤ん坊の頃の面影が残っている。
 埜子の隣に征二が正座した。
「しっかりしてくれ埜子。莉子はもういない。どこにもいないんだよ。あの子が遭難(そうなん)してから一年経つ。遺体が見つかってからは十ヶ月だ。もう生きちゃいないんだよ。あの子は優しい子だった。俺達が泣いていたら莉子も泣く。それなら……」
 征二は下唇を噛んで、埜子の両肩に両手をかけた。
「それなら莉子の弟か妹を作って、莉子の分まで育てよう。莉子のためにも、俺達にためにもだ」
 埜子は征二を見ない。畳に向けられた目は焦点が合っていない。
「駄目(だめ)」
「埜子?」
「駄目。駄目。駄目駄目駄目。莉子じゃなきゃ駄目なの。あの子以上に愛せる子なんていない。代わりはないの。私は莉子がいいの。莉子が全てなの」
「埜子……しっかりしてくれよ」
 征二の震える唇から食い縛った前歯が覗いた。

 同じ和室に物部は立っていた。
 埜子はいない。仏壇の前で頬の痩(こ)けた征二がうな垂れている。喪服姿だ。二十八歳ぐらいだろう。遺影が一つ増えている。
「莉子。今日、お前のお母さんを火葬してきたよ。いまは一緒にいるんだろうな。お父さんもそちらに行こうと思ったけどな。止めたよ。悲しい追い方をするのはお母さん一人で十分だ。お父さんはもう少しこっちで頑張ってみる。この家を出て、一からやり直す。ここはお前のおじいちゃんの持ち物だからな。前からよく思われてなかったようだけど、今日は目さえ合わせてくれなかったよ。この手鏡を一緒に燃やして欲しいと頼むので精一杯だった。断られたけどな。手鏡はここに置いていくよ。莉子、ごめん。埜子もごめん。駄目な父親で、駄目な夫でごめん。ごめんなぁ」
 大粒の涙を落としながら謝り続ける征二を物部は歪むまで見つめた。

 三日月が浮いている。
 淡い月光を一人の男が浴びている。
 眉間の皺の深い白髪頭の男。手鏡を見下ろした三白眼は三日月以上に鋭い。年齢は七十一歳ほどだ。
 辺りは暗い林に囲まれて水音(みずおと)が轟(とどろ)いている。
――滝が近くにあるのか?  この人は儀造さん?
「そろそろか」
 儀造は右腕に巻いた高級腕時計を見てつぶやくと、水音の方へと歩き出した。
 あとを追う。記憶の品物と離れ過ぎてはならない。景色が乱れ散ってしまう。
 周りの木々が減り出して、鉄の吊り橋が現れた。長さも高さもよくわからない。月明かりで見えるのは一メートルほどの橋幅と右側の白滝だけだ。霧状の飛沫(しぶき)が届いて髪を湿らせる。
「来たか」
 手鏡を握った右手が上がる。そのまま上下に大きく振った。三日月や滝の残像が映り込んでは消える。
 声がした。吼えている。
 小さな灯りが揺れながら近づいて、橋の向こう側で止まった。左手に握る懐中電灯が男の姿を浮かばせる。四十歳の征二だ。右手には包丁がある。肩で息をしながら鉄の橋を踏み締めてきた。
 儀造は薄笑いを浮かべて、手鏡を振る手を止めた。滝音に掻き消されない大声で言い放つ。
「私の愛人と娘はどうだった? いい仕事をしただろう?」
 橋の途中で征二が立ち止まった。包丁と懐中電灯が小刻みに揺れる。両手とも握り締めている。
「あんたはっ! そこまでして俺を苦しめたいのか。俺がそんなに憎いのかっ!」
 征二の怒号に儀造は乾いた笑い声を上げた。
「憎い? さぁ? どうだろうな。私はただ自分がやられた仕打ちをお前にやり返さなきゃ気が済まないだけだ。長く考えたよ。この屈辱をどうやってお前に味あわせようとね。お前が置いていった手鏡を見ながら考え続けた。どうだ?  私の倍返しは堪えただろう?」
 征二が駆け出した。えらが張るまで噛み締めて、目を剥き出している。
「殺すっ。殺してやらあああ!」
 三白眼は冷ややかに襲いかかる征二を見ている。包丁が振り上げられた。儀造は動かない。
 刺した。
 思った直後に征二の足元が抜けた。とっさに伸ばした左手で征二が吊り橋の床を掴む。反動で包丁が落ちた。両手で体を支えようと征二の右手が上がる。
 儀造は容赦なくその手を蹴り上げた。バランスを崩した征二が儀造を見上げる。続けざまに儀造は左手も蹴り上げた。
「準備していたんだよ」
「ギッ、ギゾウォォォォォ」
 征二は叫びながら落ちていった。
 儀造は橋の下を一瞥して右手を振り上げると、手鏡を手すりに激しく打ちつけた。
「ようやくこいつを捨てられる」
 鏡に映った三白眼が顰(ひそ)められ舌打ちした。
「最後まで気に食わないガラクタだ」
 罅が一本走っただけの手鏡を橋の穴に放る。
 物部は見下ろす儀造を一目見て、橋の穴に飛び込んだ。
 景色は歪まない。
――まだいける。
 小さな水しぶきを上げて手鏡は着水した。
 物部は大きな水しぶきを上げた。儀造は気づかないだろう。ほかに誰がいても気づかない。物部がそう感じただけだ。
 水流に揉まれながら目を凝らす。
 冷たく暗い水中で必死に藻掻く征二の腕が手鏡を掴んだ。ひときわ大きな泡が上がる。
 見届けると同時に口の中に滑らかな無味が広がった。体が歪む。物部は征二に引きつけられ混じり合った。

 流れる。流される。青。揺れている。
 ギ、ぞ。
 意識が遠のく。景色が歪む。青い水面は闇へと消えた。
 
 瞼を開くとコザに戻っていた。濡れていない体を起こす。手鏡は鏡面を上にして転がっていた。長いため息がこぼれる。
 千加子に続いて征二も死んだ。二人が死ぬ前に莉子も埜子も死んでいた。征二を殺した儀造も、早苗から既に死んだと聞いている。
 人は死ぬ。
 当たり前で忘れがちな出来事を実感していた。
 八歳で記憶を味わい出してから死に接した数は少なくない。それでもやはり重くなる。心身ともにだ。
 小皿に続いて手鏡も始末をつけるべきだろう。だがテンコが手元に残したいというなら反対はしない。昔のように者より物を優先する気は失せている。
 気になるのはテンコの目的だ。手鏡の記憶を味わい、わかったのは家族の背景だけで、テンコのやりたいこと、やるべきことは未だにわからない。
 約束の期限は残り五日。
「もう少し様子を見るか」
 手鏡を神棚に置いて、物部はコザを出た。

 夜。コザで向かい合ったテンコにまず伝えたのは風呂焚きの話だった。
「小皿は燃えたのね」
「ああ。もう存在しない」
 頷くテンコに尋ねる。
「良かったのか? 君が望めばこれからも小皿を眺められたんだぞ。もしも後悔しているなら手鏡だけでも残したほうがいい」
 電球の明かりを受けた黒髪が横に振られる。
「文句はないわ。自分じゃできなかったから良かったとさえ思ってる。ねぇ、サクが始末を選んだわけを詳しく教えて。やっぱり母が焼け死んだから?」
「それもある。けど一番の理由じゃない。あれは千加子さんの物で、千加子さんは君の大事な人だ。大事な人が大事にした物は蔑ろにされるべきじゃない。半端に受け継ぐくらいなら持ち主を変えないまま始末をつけた方がいい。そうしないと」
「障(さわ)りが出る」
 先回りしてテンコが発した。そのまま物部の話し方を真似て続ける。
「安易な受け継ぎは双方にとって害になる。受けさせた者と受けた者に継ぎの意志がなければ恨みが溜まる。それはとても気持ちが悪い」
「よく覚えているな。大学時代そのままだ」
「印象的だったもの」
「昔は気持ち悪いのが嫌で、持ち主の許可なく勝手に始末したりしたけれど、いまは現在の持ち主を優先するよ」
「丸くなったのね」
「エゴを突き通すのに飽きたのさ。恨みといっても、実際には受け継いだ者の些細な不満があるだけだ。使えないなと思うだけ。呪(のろ)いや祟(たた)りといった大袈裟(おおげさ)なものじゃない。若かった僕は幻想を抱いていたんだよ。受け継がせた者の思いもあり続けると思っていた。けれども年を取り、分別を覚えて、僕が味わっているものは記憶でありながらも記録でしかないと気づいたんだ。記録は誰も恨まない。生きていると訴えない。僕は自分の共感覚に溺れて真実を見失っていた。味わえても、実感できても、過去の持ち主が生きている証明にはならない」
「死者より生者というわけね」
 頷いて答える。
「もちろん現在に生きている持ち主が、僕の意思も考慮してくれるならそれに越したことはない。味わった記憶から過去の持ち主の人生に沿って始末をつける。生きていない過去でも僕にとっては現実と同じ価値があるし、気持ち悪いのはやっぱり嫌だからね」
「そこは変わらないんだ」
「そりゃそうさ」
 視線を交わして笑い合う。
 良かったなと思った。場が和んでいれば辛い気配は薄れるだろう。慣れない早口を使ったかいもある。
 笑い終えたテンコは息をついて、物部を見た。
「手鏡の記憶を聞かせて」
「わかった」
 立ち上がって、神棚に置かれた手鏡を取る。テンコとの間に置いて物部は語った。
「最初と最後は水の中だったよ」
 征二の死。征二の求婚。埜子の承諾。莉子の誕生と死。埜子の死。そして再び征二の死。
「父と父は憎み合っていたのね」
 聴き終えたテンコは声を潜めてつぶやいた。
 物部は答えない。
 憎しみはあったと思う。だが悲しみもあったようにと思う。一つに絞れないのは傍観者の甘さだろうか。
 テンコも口を閉ざして何かを考えている。
 雨が降り出した。
 木戸を閉めるために立ち上がる。縁側に立ち、二枚閉めたところでテンコが近づいて来た。
「手伝うわ」
「ありがとう。それじゃ、デイの前を閉めてくれ。僕はツボネとウチネの方をやる」
「了解」
 全ての木戸を閉め終えてコザに戻ると、テンコが訊いてきた。
「手鏡の始末はどんな風につけるの」
 腰を下ろして答える。
「まだ決めていない。ただ、水は使うだろうね」
 テンコは頷いて屋根裏を仰いだ。釣られて見上げる。
「雨音、しないでしょう。茅葺が吸い込むのよ。だからこの家は大雨が振っても静かなの。代わりに梅雨明けの一ヶ月は湿気が残ってしまうけどね。乾燥を待つ時期は部屋中に独特の匂いが広がるの。茅と水と囲炉裏の煙が混じった匂い。癖が強くて苦手な人もいるけれど、私は嫌いじゃない」
 物部は仰いだまま目を閉じた。確かに雨音はしない。庭から聞こえてくるものは木戸が遮っている。
 静かだ。
 内の言葉に合わせるようにテンコが息を吸った。音が細い。口ではなく鼻だろう。開いた目を正面に向ける。テンコは反った胸を戻して言った。
「滝はどうかな?」
「えっ?」
「手鏡の始末をつける場所。滝はどう?」
「記憶と同じ滝かい? 近くにあるのか?」
「関尾(せきお)の滝と言ってね。三十分ほど歩いた場所にあるの。ここから南に下って、突き当たりにある川岸を遡(さかのぼ)った所。滝の前に掛かった吊り橋は人が落ちて以来、定期点検されているから安全よ。ついでに言えば橋を渡って、十分ほど歩いた場所が私の家」
「征二さんはそこに向かってたんだな」
 人が人を殺した場所。知らないで行くのと知って行くのとではわけが違う。
「その滝は手鏡の最も強い記憶の場所だ。僕が記憶を味わう出入り口にもなっているし、始末をつけるには最適だろう。ただ、そこへ誘う君に引っかかっている。テンコ。君は僕に何か隠してやしないか?」
「隠してないわ」
「匂うぞ」
「それはサクでしょ」
 嘘が匂うという嘘をテンコはすぐに嗅ぎ分けた。見据えるテンコの糸目から物部も視線を逸らさない。嘘の匂いなんてわからないが、嘘をつくことで見えてくるものがある。細い瞳には月曜の夜に玄関で見たのと同じ激しさがあった。テンコは何かを成し遂げようとしている。予測はつかない。わかるのは細く鋭い眼差しが死に際の千加子に似ているということぐらいだろう。親子の類似ではなく覚悟の類似。
 視線を伏せて息をつく。改めて見つめ直すと、ほんの一瞬だけ見返す瞳に怯えが走った。
 どうやら昨夜の言葉は嘘ではないらしい。
 お釈迦様みたいに言わないで。
 あのときのテンコは物部を直視しながらどこか哀しげだった。全てが計算ずくではないのだろう。
「明日は久しぶりのウォーキングだな」
 笑って告げると、糸目が緩んだ。
「朝食を済ませたらすぐに手鏡を持って出かけるよ。何事もなく終われば午後には戻って来れるだろう。散策や風呂焚きで体を動かすのも悪くないけど、そろそろ本が読みたいな。適当に見繕(みつくろ)ってきてくれるかい」
「わかった。ほかに必要なものはない?」
 そうだなと一日の出来事を思い返す。
「髭剃り。あとたわし。いや、デッキブラシが欲しいな。風呂掃除に使いたい」
「本と髭剃りとデッキブラシね。早く届けられるものは早苗さんに頼んでおくわ」
「よろしく。僕からの話は以上だ。そっちからは何かあるかい?」
「あるわ」
 頷いて、推(お)し量(はか)る。
「明日味わう品物だろ。蔵の右棚? 左棚?」
「蔵には行かなくていいわ。あそこにあるから」
 長い人差し指が向こう部屋を指した。
「どこだ?」
「ツボネの壁際よ。ついてきて」
 立ち上がったテンコのあとに続く。
「これよ」
 四段重ねの箪笥に掌が置かれた。古民家の家具にしては色合いが明るい。黄みがかった茶色。
「木材には疎(うと)くてね。箪笥には桐が多いと聞くけれど、複数の木材を合わせたりもするのかい?」
「杉よ。杉だけで作ってあるわ。小皿や手鏡と違って大きいけど大丈夫?」
 下がる眉尻を見て答える。
「どうかな? 大きい品物は人目を引くし長持ちだからね。記憶が混在しやすいんだ。やってみないとわからない」
「無理はしないでね」
「わかってる。先の二つのように目立った傷はないみたいだな。それが吉と出るか。凶と出るか。明日も忙しくなりそうだ」
 テンコの眉は戻らない。
「本当に、無理しないでね」
「わかってるって。そっちも忙しいんだろ? 雨も降り出したし、そろそろ帰ったほうがいい。傘は……そう言えばここに来て一度も見てないな。さっきの道具に追加しといてくれよ」
 笑って言うと、ようやく眉が上がった。
「車に二本あるから一本置いていくわ。明日も雨なら必要でしょ」
「それなら車の所まで送ろう」
 二人並んでドマに下りて外へ出る。雨の中を一緒に駆けた。受け取ったビニール傘を開いて、乗り込むテンコの上に差す。
「それじゃ、また明日来るね」
「ぬかるんだ路面に気をつけて」
 わかったと笑顔でドアが閉められた。車は泥を跳ねないように走り出し離れていった。

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