被無関心という生きやすさ。

被(こうむる)無関心

無関心でいてもらえる。

この心地よさを最近感じている。
よくyoutubeやpodcastをやっている人は無関心が一番怖いというが
それはフィードバックを得ることができないからである。

でも物理的に近い距離の人からは比較的無関心であって欲しいなと思う。
好・嫌・憎・愛などなど程度の差こそあれ他人に対する心情は様々あるが
無関心は0である。
0であり包容力の宇宙感もある。
僕はこの包容力のある無関心が楽だなと思う。
無関心の愛って一見論理的に破綻していて共存できないような言葉の組み合わせである。

農家にいた時僕はおそらく関心されていた、いやしてもらっていたと思う
こんなことができるあんなことができる。
そんな風でハウスの図面を書いたり、マルシェの旗を作ったりさせてもらっていた
多少期待されているような感じがあった。
話すのが好きだからコンサルに向いてるかもねとか、、。

でもその微量の期待でさえ僕には心臓を掴まれるほどきつかった。
それに応えることができない。
作用反作用の関係であるこの感じ。
返したらまた強くなって帰ってくる。
恐怖。

でも今の状況の被無関心は決して嫌われているとかそういうものではない。
”放牧”に似ている。
いい意味でほっとかれているけども、危険がないように柵があるし、食べ物はある。
この被無関心はこれであるな。
ないのだけどあるので被とついている。

このfieldを提供してくれているこの感じ最高に走りやすい。
ありがたい。
僕はこのfieldで自己の過去と向き合い、今と向き合い、体軸調整を行い
活動ができる、、。

いつかこの被無関心を提供してくれているこの人の
この人による場づくり、才能発揮の素地作りに無意識になっている
この人のすごさをもっと語る回を作らなくていけないね。

僕は明日もこの被無関心のなかで頑張るよ。


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