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人を信じるという事とは

ちょっとまあ思うところあっての言葉を綴ろうと思うので「興味ないかなぁ」「今はそんな気分ではないかなぁ」と思う方は回れ右を。自分という人間はどーしよーもないなぁ、なんて思いながらも綴っているがそういう人間だから仕方なしと開き直……れたら良いのかどうかは不明だけども。今回のテーマはタイトルの通り「人を信じること」です。相変わらず個人の考えなのと、過去のあれこれが出てくるのでとだけ。











【以下本文】

他人を信じたいと思うことは愚かなんだろうかと思いつつ、それでもこの人を信じたいなぁというか「この人とは信頼関係を築けたら」と思う事がある。それは付き合いの長さだったり短いながらにやり取りしていると、色々な人がいる。

しかし私の「(人としてどうなんだそれと思わない限り)否定はしないが(かといって否定しても視野を狭めるし、本心だのなんだのは分からんしなぁ。愚痴ったりするのは肯定が欲しいんだろうな、ただそれは筋が通っていればでありそれ以外は)肯定もしない」という部分が災いしてなのか、相手によっては勝手な色眼鏡で見てきてその通りの人間でないとらしくないと否定されるし、自分の都合のいい相手でいて欲しい場所(Twitterならその人とよく会話するアカウント)にいないとこちらの気分が微妙になるような声のかけられ方をされたりする。その結果、都合のいい存在として見てこなくなった相手とは信頼関係は築けないなぁと思った。

その中でもここ数年で信じたいと思ったとある相手には「うん?」と思う事をされ、そして縁を切って半年以上経ってからお気持ち表明の文章を頂いたが、どうやら彼女からすれば私は甘やかしてくれる相手という認識だったようだ。が、当の私は甘やかす気もなけりゃあ寧ろその手の類いとのエンカ率が高すぎたのもあり二度と関わりたくないが本音である。

まあ、そんなこんな縁を切って数日か一週間ならまだしも半年以上経った頃に送られた文章に関してはあれこれあったが……お陰でというか彼女が私の話に付き合ってくれたりしたのは「自分のため」の事だったんだろうかなぁという不信感まで過るようになった。なんせそういうケースにしょっちゅうぶち当たっていたので(最初は最低限の配慮やらがあってもだんだんとなくなる等)、我ながら何故学習しないと思いつつ悲しくなって泣きたくなるし、人を信じるのが嫌になりつつある。

嫌になりつつというか、人を信じようとする自分が嫌になるのが正解なのかもしれない。その辺りは大分青臭いなぁと思うのだ。しかし色々思い返したりしんどくなって泣くのはどうにかしたい。

だからといってそれを悲劇とは思っていないし、まあ人生そんなこともあるよなとは思っている。そもそも悲劇ぶるのは嫌いなのだ。……が、とりあえずそんなことは減って欲しいなと思いながら生きるのである。

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