美しいと感じる言葉に埋もれてしまいたい

時間と環境が許せば言葉の響きが好ましい存在の言葉を追いかけていたいと思う時がある。小説や児童文学、漫画や音楽だったり、後はブログとか一次創作界隈で「ああ、この人の言葉選びが好きだなぁ」という人の作品を読み漁りたい。読み漁ったところでなんになるのかというと、そりゃあまあ脳への刺激だったり心への栄養になるんだろうなと。

好ましかったり美しい言葉選びは好きだ。計算された言葉選びも好きだけれども、それは計算されているのが分かりにくい選び方限定になる。分かりやすく計算されたそれは小説などならいいが、対人とのものだと「ああ、この人は自分の為に選んでいるのだな。つまりこう返してほしいのだろう」と思ってしまい萎えてしまう。逆に計算しているというのが分からない計算された言葉は楽しい。次はどう言葉にしようか、こう返したら相手はどう考えるか――そういう楽しみ方をしたがる事もある。

けれどもまあバカ話も好きだし、ゆるーい話をするのも好きだ。そういう時はそういう時で言葉を選ぶけれども、何もまあそこまで真面目じゃなくても良い。が、相手によってはそんな会話の中で好ましい言葉で返してくるのだから「ああ、この人と会話をするのは楽しい」となるのだ。理性的、感情的、その辺りで如何に相手を考えて言葉を選べるかもその人を表すだろう。

感情のままに言葉を選ぶのは悪い事じゃあないけれど「ああ、そう思いますか。オーケー、私は貴方に対する信頼はなくなった」となる場合がある。その言葉というのは内容になっては不信の種となり積み重ねた事が水として降り注ぎ、しまいには芽を出すのだろう。「思わず言ってしまった、本音じゃない」と言われても「本音じゃなくても、頭の中で思わなければそういう発言は出ないだろう」となるのである。一時のそれを後悔しても遅いのだと、けれどもそういったのは自分にも言える場合もある。だからこそ理性的でいたいけど、理性を上回る感情が出たらどうなんだろうなぁなんて思うのであった(しかし相変わらずまとまりがない、回転数を上げるにしても足りていないな、これ)

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