これはゲームなのか?展#1ごあいさつ

ごあいさつ
これはゲームなのか?展によせて
主催 ニルギリ(するめデイズ)

 現代美術は、見終わった後に日常世界の見え方を少しだけ変えてくれる。それが救いだった。

 高校時代、世界は全体が発光しているように見えて、ピカピカキラキラしていて、大変だった。なにも日常生活に特別な何かがあったわけではない。どちらかというと、客観的にいって自分自身の生活は充実していなかった部類に入るはずだ。
 でも、自身のことは置いておいて、世界が滞りなく、毎秒毎秒存在しているということそれ自体が奇跡に感じられて仕方無かったのだ。
 人間が見つけた自然のルールである、物理学をはじめとした自然科学や、人間が作った社会のルール、法学をはじめとした人文科学、そういった無数の見えないルールが完璧に噛み合って信じられないバランスで成立しているのがこの世界だった。それはとても危うく感じて、いつも、それからはみ出す何かが、たとえば次元の裂け目がいきなり現れるんじゃないかとハラハラしていた。
 だから、日常が平凡でつまらない、と嘆く人の気持ちが全く理解出来なかった。こんなに面白いのに?本気で?学校をさぼって、かといってやることもなく、昼下がりにぼんやり川岸から眺めた対岸の街のなんと美しかったことか。

 大学時代、世界のルールを覗こうとして私は物理学に挫折した。物理をやるには圧倒的に足りない数学の能力を抱えながら卒論でうんうんうなっていると、世界はぴしっと完璧に整ったルールで運用されていて、もう自分などにはどこにも入り込む隙間などないように思える瞬間が良くあった。
 そんなとき、心からの救いになったのが現代美術だった。美術雑誌を開いたり、美術館に訪れたりすると、作家の皆さんが必死に、文字通り人生をかけて、奇妙にすら見えるかたちで風穴を開けようとしているのだった。作家の、その発想の多様さに心の底からワクワクしたし、必死さにクスリとした。
 そして雑誌を閉じ、または美術館から出てくると、さっきまで完璧さに溢れて息苦しかった世界が、少し違って見えるのだ。威厳に溢れていた世界という顔に、こっそり現代美術家がいたずらっぽく笑って落書きをしていったような、そんな気がした。

 その後、現代美術のおもしろさに夢中になったけれど、色々な作品を見続けているうちどうにも共通して気になる部分があった。作家は自分の世界の見方を作品によって表明している。だから、当然なのだが、それは全部、見る側からすると他人事なのだ。どこまでいっても、作家が見た世界をお客さんとして見るだけで、たまに寂しくなったり、もどかしく感じたりすることがあった。もっと効率的に、100%、作品に入り込める手はないのだろうか?

 ボードゲームは、ルールという共通理解を通して、世界を作り出す。そこが面白かった。

 大人になって、ボードゲームに出会った。平均的日本人の例に漏れず、アナログなゲームは幼少期にやめてしまい、その後デジタルなゲームの発展に夢中になった自分からすると、現代的なボードゲームの進化は圧倒的だった。こんなに自由で、こんなに多様なゲームを作る場があったのか。

 その後、ボードゲームにのめり込み、遊んだり、それに飽き足らず作ったりするようになった。そのうち、自分にとって何が特に面白いのか、わかってきた。それは、以下のような理解だった。
 ボードゲームは、ルールを共有した人との間で世界を作り出す遊びだ。たとえば、あるゲームを遊んでいる人達の間だけでは、ただの木のコマが鉄に見えたり、羊毛に見えたりする。ルールを共有する人達の間で作られた世界の中で起こることは、いわばその人たちだけの共有体験であり、共有の秘密、それを自分事と感じる力はもの凄いものがある。
 ボードゲームという仕組みには可能性がある。現実世界で、自分が、自分の手を通して遊ぶということには、物語を現実において自分事として感じられる力がある。

 ボードゲームの持つ圧倒的な自分事力を、どこか他人事に感じられる現代美術に対して使ってみたら、一体どうなるのだろう?「ルール」という共通項で、ボードゲームと美術を繋げられれば、現代美術、ボードゲーム、どちらにとっても新しいものが生まれる、かもしれない。

 これが、今回、企画展をしたいと考えた時に、私が考えていた事だった。

 ひとしきり遊んだり、見たりしたあと、皆さんそれぞれの世界の顔にちゃんと落書きがされていますように、と願っています。

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