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「グレープフルーツ」というネーミングはひどすぎやしないか

世の中にはたくさんのフルーツが存在する。

リンゴ、メロン、キウイ、レモンなど、それぞれに名前がつけられている。

その中で明らかに浮いているのが、グレープフルーツである。

私はこのグレープフルーツのことが不憫でならない。

どこもグレープ(ぶどう)らしくないのに、なぜ「グレープフルーツ」という名前がつけられたのか。

調べたところ、グレープと同じような感じで木になるフルーツだからだそうだ。

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こんなにひどい話があるだろうか。

果実そのものが似ているならまだしも、「木になる様が似ているから」とは、私なら到底耐えられない。

フルーツでありながら、フルーツというワードを盛り込まれるのも堪えるはずだ。

そんなふうに念押しされてしまっては、まるで自分がフルーツではない何かであるように思え、

「え? それわざわざ言わないとわからないかな?」

と、自己の存在そのものに疑いを持つに違いない。

種類を名前に組み込むなど、侮辱と言ってもいい行為なのだ。

私がグレープフルーツなら、こうも感じるだろう。

「みんな俺のこと『グレープフルーツ』って言うけど、グレープがもうフルーツだから!

フルーツをフルーツでたとえるなど、そんな非道行為が許されていいはずがないのだ。

グレープフルーツは、グレープより後に発見されたばかりに、大変な目に遭っているのである。

その痛みを理解してもらうために、一つ例を挙げよう。

もしもあなたが、あるマンションに引っ越したとする。
その一室には、間取りと家族構成が似ている田中という人が住んでいた。それを根拠に、マンションの住人たちはあなたのことを、あなたの名前ではなく、

「田中人間」と呼ぶ。呼ばれ続ける。

どれほどつらいことか、おわかりいただけたと思う。

グレープという、別のフルーツを名前に組み込まれることで、こんな弊害もあるだろう。

誰かがグレープフルーツを食べて「おいしい」と言ってくれても、手柄の何割かをグレープに搾取されたような気分になるはずだ。

つまりグレープフルーツに限って、たとえ果汁100%だったとしても、手柄果汁は70~80%に減衰してしまうのだ。

グレープ側は労せずして、自身の株を上げられるのだから理不尽である。

たとえばあなたが善意から、マンションの共用廊下を掃除したとする。しかし住人たちは「『田中人間』がやってくれた!」というふうに感謝するのだ。

見返りなど期待していなかったとしても、心の中にモヤモヤしたものが残るのは明白だ。

「ピンク・グレープフルーツ」などという名前が生まれたときの気持ちを考えると、胸が張り裂けそうになる。

「グレープフルーツ」という名称は当然のように使用され、派生した言葉が誕生したのだ。人々のあいだに浸透し、広まってしまった不当な名は、もう変えられないと絶望したことだろう。

どちらかというとレモンやオレンジに近いのに、「グレープフルーツ」などと呼ばれるようになってしまったことに対しても、何も感じなかったはずがない。

レモンやオレンジにちなんで、「砲丸レモン」や、「やや酸っぱオレンジ」と命名されたほうがまだ納得がいっただろう。

レモンにしてもオレンジにしても、本来、他人事ではないのだ。

もしもグレープフルーツより後にレモンが発見されたなら、
「楕円グレープフルーツ・フルーツ」になっていたかもしれない。

もしもグレープフルーツより後にオレンジが発見されたなら、
「小ぶり橙(だいだい)グレープフルーツ・フルーツ」になっていたかもしれない。

それなのに彼らは、とても幸せそうに暮らしている。

レモンに関しては、米津玄師が歌にしてから調子に乗っている節さえある。

このままでいいはずがない。
少なくとも、私はそう考えている。

もしも同じ気持ちを持つ人がいるなら、私からお願いしたいことがある。

たとえ広まらなかったとしても、「は? 何言ってんの?」と馬鹿にされようとも、どうか今後はグレープフルーツのことを、こう呼んでやってほしい。

「リトル・ムーン」と。

グレープフルーツ時代にはありえないことだったが、これなら米津玄師が歌にしてくれる可能性すら秘めている。

これでグレープフルーツに、いやリトル・ムーンに希望を持たせることはできたはずだ。

しかしじつのところ、救うべき悲惨な果物はもう一つある。

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「ドラゴンフルーツ」である。

これはさすがに悲惨すぎて、手の差し伸べ方が見つからない。

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