見出し画像

魔除けの効果

「こんど富士の樹海に行くんだけど、板倉興味ない?」

劇場の喫煙スペースで、先輩である芦澤(あしざわ)さんが訊いてきた。

「え、ちょうど僕行きたかったんですよ!」

僕は興奮して答えた。

無意識に声が大きくなってしまったのには訳がある。
当時、『蟻地獄』の構想を練っている段階にあり、樹海をこの目で見てみたかったのだ。しかし一人で行く勇気が持てず、どうしようかと考えていたところに、まさかの誘いを受けたからだった。

「よかった。この前〈はりけ~んず〉の新井さんと、一回も行ったことないなって話になって、ほかに誰かいないか探してたんだ。板倉いつ空いてる?」

僕は興奮しながらその日を答えた。

樹海には、僕の車で行くことになった。
コミック版『トリガー』の1巻に登場する、シャコタンのシーマだ。

当日、劇場の駐車場にシーマを停め、僕はいちど車を降りた。

「おう、竹ちゃん」

同期の芸人である竹永くんが、すでに待っていた。
樹海に行く日にちが決まってから、僕が声をかけたのだった。

「いや~、どうも~!」

いつもどおり妙なテンションで言いながら、竹ちゃんは近づいてくる。
季節が何であれ、彼は半ズボンだ。

「腹減ってんだけど、先輩たち来るかもしれないから頼んでいい?」

「OKでしょ!」

竹ちゃんが快諾してくれたので、代金を渡し、マクドナルドで食料を適当に買ってくるようお願いした。

先輩二人がやってくるより前に、竹ちゃんは戻ってきた。

いい匂いが漏れ出している袋を開け、僕はチーズバーガーやポテトを急いで食べはじめた。運転しながら食べるのが得意ではないからだ。

まもなく先輩二人が到着し、竹ちゃんも加わったことを伝えた。

4人でシーマに乗り込み、まずは首都高の乗り口を目指した。

マクドナルドの食料は先輩たちのぶんもあったのだが、二人ともそれほど空腹ではなかったらしく、僕の後ろに座っている竹ちゃんが、いい匂いのする袋を膝に載せていた。

「いやあ、楽しみですね」

一人では怖くて行けなかったが、これだけの人数ならピクニック気分だ。
気が大きくなっているせいで、僕の想像する樹海は、スイスとかの美しい森になっていた。

「ほんまや。どんなとこやろ。楽しみや」

後部座席から新井さんが応えた。

中央道をしばらく走り、富士山が大きく見えてきたあたりで、不意に芦澤さんがカバンを開けた。

「これ、いちおう渡しとくわ」

助手席から差し出されたのは、白い小さな包みだった。

「え、何ですか、これ」

僕はハンドルから片手を放し、それを受け取る。

「清めの塩。まあ、気休めだけど」

芦澤さんは応えると、もう一つの包みを取り出し、身をよじって後ろを向く。

「新井さんも、これ」

「おう」

新井さんも受け取ったようだ。

ふたたび前を向いた芦澤さんが言う。

「ごめんな、竹ちゃん。3人だと思ってたから、竹ちゃんのぶん用意してなくて」

「いや、全然大丈夫です!」

竹ちゃんは陽気に応えた。

「まあ、気休めですしね」

僕は笑って言った。

「そうそう」

二人の先輩も同意する。

白状すると、清めの塩を受け取った僕は、すこぶるビビっていた。

清めの塩なんて出されなければ、いまもピクニック気分でいられたことだろう。

しかし、僕の頭の中に浮かぶ樹海は、もはやダークカラーで描かれた魔界となっていた。

そして、ビビッているのは僕だけではないことを、車内の沈黙が物語っていた。


富岳風穴の駐車場にシーマを停め、僕たちはいよいよ樹海に足を踏み入れた。

すぐ入り口には看板が立っていて、自殺を思いとどまるよう訴えかけるメッセージが書かれている。

寒気がしたが笑い飛ばし、奥に歩いていく。

まだ陽は落ちていないというのに、あたりは薄暗かった。

遭難防止目的で使われたらしいナイロンテープが何本も、折れ線を描きながら前方に延びている。

国道を走る車の排気音が聞こえなくなったころ、木の枝にかかったハンドバッグを見つけた。

薄汚れた、ルイヴィトンのハンドバッグだった。

これはヤバい——。

僕は直感した。

この近くで、命に係わる何かが起きたに違いない!

3人に事態を告げ、しばらくみなで考察したが、何も解決しなかった。

薄暗い森の中を、僕たちはさらに進んでいく。

僕の胸は恐怖でいっぱいだった。

不意に前を行く芦澤さんが、懐から何かを取り出した。

清めの塩だ、と僕はすぐに気づいた。

そうだ! あれがあったじゃないか!

僕もポケットから白い包みを取り出し、握り締めた。

これで霊的な攻撃は無効化できるはずだ。

横を見ると、新井さんも包みを手にしていた。

みな恐怖が限界に達しているのだ。

そういえば、竹ちゃんはどうしているのだろう?
彼は清めの塩を渡されていないはずだ。

振り返ると、竹ちゃんは胸のあたりにマックフライポテトを持って歩いていた。赤の中に描かれた黄色のMの字が、彼のエンブレムのようだった。

たしかに、塩けは充分にある。

僕は竹ちゃんの機転の利き具合に関心し、心配するのをやめた。


日が暮れる前に、僕たちは駐車場に戻った。

全員無事に帰還することができたのだ。

その後何か月と経っても、誰の身にも不吉な出来事や怪奇現象は起こらなかった。

これはつまり、マックフライポテトの塩けでも、霊的な攻撃から身を守れることの証明といえるのではないだろうか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?