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栗は果物 メロンは野菜

知識量は賢さに直結しない。

それに気づいたのは、中学二年生のときだった。

授業の冒頭、先生の提案でレクリエーションが行われることとなった。六人ひと組の班に分かれて、順に果物の名前を挙げていき、思いつかなくなった班は脱落となり、最後まで残った班の優勝というルールだった。当時は知らなかったが、いわゆる「古今東西」だ。果物の生産量や生産地を学ぶ授業の前置きだったのだと思う。

一週目は、各班それぞれが時間内に答え、脱落チームは出なかった。

二週目が回ってきた。急かされると思考が働かなくなる僕は、ほとんど役立たずだった。リンゴやブドウ、桃といった、すでに挙げられた果物のイメージに囚われてしまい、別のものを発想することができずにいた。

こんな序盤で負けてしまうのか。それも、一番早く。己の不甲斐なさを痛感し、諦めかけたそのとき――。

「栗!」

同じ班の女子が言った。成績もトップクラスの優等生だ。

教室は静まり返った。何を突然。追いつめられて、やけになったのか? ――そんな空気だった。

「オッケー! 栗は果物です」

男の先生は、両手を頭上で重ねて大きな輪っかをつくった。

「木になる実は果物だからね」

どよめきが起きた。「すげえ」「さすが」「そうだったんだ~」「マジかよ、栗は果物だったのかよ」――その中には驚きや、優等生への称賛の声が交じっていた。

僕もみんなと同じように、優れた知識を持っていた彼女に関心していた。しかしそれと同時に、正体不明の違和感をおぼえてもいた。

ゲームは続行となり、柿やザクロなどが挙げられていった。栗ほど意外ではない一般的な果物は、まだたくさん残っていたのだ。

僕のいる班は、四週目で脱落した。優勝にはほど遠い、中途半端な順位だった。優勝した班は、というようりもすべての班が、聞けば誰もがわかる果物を出していた。

通常の授業に戻ってからも、違和感は消えなかった。僕はその正体について考えていた。なぜ自分は、優れた知識を持っていた彼女を、両手放しで尊敬できないのだろう。そして授業の終わり間際、謎は解けた。

彼女は「栗」という、おそらくほかの誰も知らなかったであろうウエポンを、あの早い段階で使うべきではなかったのだ。もっと温存しておき、一般的な果物が尽きるのを待ち、ここぞというタイミングで投下すべきだったのだ。そういった駆け引きができる頭脳こそが、賢さなのではないか。

この世界では、いくら優れた知識を持っていようとも、その使いどきを誤れば、賢さを疑われてしまうのだ。

その後僕は、メロンやスイカが野菜なのだという知識を得た。たぶん兄からだったと思う。

僕はそれを隠し持ったまま、機を待った。またあのレクリエーションが、野菜をテーマに行われる可能性は充分にある。野菜の生産地の回も、きっと予定されているはずだ。自分は彼女と同じヘマはしない。このウエポンを使いこなしてみせる。クラス中が喝采するようなタイミングで、鮮やかに決めてやるのだ。しかも彼女とは違い、自分にはウエポンが二つもある。一般的な野菜が尽きてきたころにメロンで大ダメージを与え、スイカでとどめを刺す――完璧だ。

しかし、そんな機会は訪れなかった。その知識を使うことがないまま、僕は大人になってしまった。

仕事上の飲みの席で、フルーツの盛り合わせが運ばれてきたとき、僕はメロンを指さして言ってみた。もちろん、あのときの野心などなくなっていたわけだが。

「メロンは野菜なのに、これ『フルーツの盛り合わせ』でいいんですかね?」

「まあそうだけど、そういうこと言い出すと面倒になるだけじゃん」

そう。大人になると、僕がウエポンだなどと思っていたあの知識も、「当然」の中に含まれてしまうのだ。事実、メロンは野菜だ。だがそれを知った上で、みなフルーツとして扱う。そのほうが、スムーズに事が運ぶからだ。僕が手にしたウエポンは、いつのまにかガラクタになっていた。

彼女は、正しかったのだ。賢かったのだ。中学二年生というあのタイミングで、栗が果物であるという知識を披露し、クラス中からの称賛を得られたのだから。



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