つながっていくとき

最近またどんどんいろんなものがつながり始めている。


なんのためにやっているのだろうと思うようなことも含めて、我ながら色々と何でもかんでもやっているのだけれども、なんとなくずっと仕掛けてきたものが急にパチパチとつながり始める時がある。


たまにこうしてつながっていくことがあるし、そういうことを通じて結局いま生きることができている糧になっていたりするので、先の読めないことに時間を割くことが楽しくて仕方ないしやめられないのである。


まあ究極のところ、結果につながるからやるとか、儲からないからやらないとかいうことではなく「そのときやれる状況にあるからやる」のであって「やろうとしてもできないからやらない」のである。意思はない。

これも昔はもっと「やろうと思うからやる」のだったし、「やりたくないからやらない」だったのだが、もう一歩進んだ境地である。意思がある。


たくさんのことを見聞きして、話して、たくさん教えてもらっても後から後からこぼれていくし、伝えたことすら忘れてしまっているけれど、見計らったようにするするとすべての情報がつながり始めるといろんなことが進んでいく。努力しているとかいないとかそういうことはあんまり関係がない。

いくつかやっていれば、ものごとが進んでいくときはこうして誰にも止められようのない必然的な縁でもって、そのことが実現していくことが信じられる。自分がやっているように思えても、それはそういう風に成るようになっていただけで、それをただその時にやっているだけのことだと思う。


インド哲学はとても不思議だが、ものすごく正しいことを言う。


結果にこだわるやつは聖者ではないし、何度でも輪廻を繰り返してなさい。聖者は結果にこだわらず、能動的行為はしない。あるがままを受け入れる。


この世の中のルールに従えば、結果にこだわらないっていうのはとても理解しがたい世界観である。そもそも人間は生き残りたいという欲求が善であるという前提で生きているのだから、輪廻(繰り返す生死)を終わらせる方が善という考え方とは真反対の考え方になってしまうのは仕方ないのである。


だから、結果を出すのが素晴らしいという価値観が当たり前なのに対して、結果にこだわるから聖者でないのである、と言い切る価値観がある。

そして、価値を出さなければ意味がないし生きていけないという価値観が当たり前なのに対して、価値はないどころか自我にこだわるから価値なんてものに心が執着してしまうのだよ、と言い切る価値観がある。


いかんいかん。すぐ適当にインド哲学風にものごとを解釈する。


でもやっぱりそんなものだと思う。だからこそ行為をするのではなく、ただそこに在るように、また流れてきたものはそのまま流し、とどまるものはそっとしておくのだから、目の前に流れてくるモノゴトはさっと自分の役割として果たして流していくだけであり、それが得意なことはすぐにできるし、苦手なことは苦しんだ割に結果も出ないので、結果的に得意なことが残って苦手なものが手離れしていくといった流れは自然にそうなるようになる。


なにせお気楽にいたいものである。流れてきたものは流し、ふととどまろうとするものを無理には流さないが、また流れていくものは流せばよい。


そこには所有という概念もなければ、自分が成したという行為や結果への執着も離れ、そのことによる競争意識や嫉妬からも解き放たれていく。


そんな風である。


なのでうまく流れていくときも、ものごとがパチパチとつながっていくときもあれば、とどまったり、停滞したり、なにも動かないときもあるけれど、それでもただ果たせることを果たして日々を送るうち、いろんな景色が変わっていくのであって、それをニマニマと眺めて美しい世界を愛でるのだ。


たぶん。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。