だいたいは程度の問題である

気分というのは人間であれば誰しも、上がったり下がったりするもんなのだが、気分の上げ下げが極端に行き過ぎると「双極性障害」つまり「躁うつ病」ってな診断がいってしまうわけで、そこをコントロールするかしないか、というところが人生の妙ここにありだなと思うのである。


できるかできないか、ではないのである。
するかしないか、なのである。


コントロールすると意思決定してしまえば、そのための考え方を学び、必要な行動をとり、すると気分が落ち着き、感動することの危うさに気づくようになるので、反射的に起こる極端な一喜一憂から距離を置くようになる。

穏やかで暖かな幸せに包まれる感覚は受け入れることがあっても、極端に刺激的な快楽からは距離を置いておかなければ、それがなくなった時に生まれる喪失感から自分の気分を落とすことに察しがつくからである。


嬉しさと悲しさの度合いは、相対的なところにある場合が多く、絶望的に空腹していて死にそうで、しかももう本当にお金もなくて、お願いする機会すらも与えられて居ないときに、もしもちょっとカビが生えたパンがあれば、「こんなところに食べ物が!!ありがたい!!」って思って喜んで食べるように、状況において、その存在自体の価値判断も変わるものである。


嬉しいものもまた移り変わってしまうため、おちおちその嬉しさに浸ってもいられないと分かれば、そこに執着することに気をつけようとする。
さらに、悲しいものもまた移り変わることも受け入れられるようになると、その悲しみを生み出す元凶となった状況もすぐに変化して消えさり、必ず状況は流転して違った状況になるものであると理解ができるようになるもの。


すると、いちいちひとつひとつの状況がずっとそのままであるわけがないということに気がつくと、嬉しさも悲しさも、極端に上がったり下がったりはしないということになる。


が、人生の妙はそこにあると僕は思う。


それじゃ味気ないじゃないか、というわけである。人間として生まれた以上は、その嬉しさも悲しさも、味わい深いものとして全力で味わい尽くすことが人間らしさじゃないかと、そういう判断をする人もいるわけである。

ただ、それはひとりで楽しんでもらう分には良いものの、周りにもそのテンションの上げ下げが影響を与えることは間違いない。

類は友を呼ぶという言葉はほんとうにそうだなと思うわけで、その生き方に共感できる人がその周りにワンサと寄ってくるので、その影響を与えた人は周りにそうした上げ下げを楽しもうとする人たちが寄ってくるので、大騒ぎして人生を過ごしていくのである。


まったくそれは構わないが、ずっとそれは疲れそうだなあと思う。


やはり個人的には落ち着いた感じで生きていきたいし、悲しみは少しでも癒していけたらなあと思うし、悲しみの原因となるくらいの嬉しさは、それはつまり執着にひっついている場合がほとんどなので、そういうのは少しずつ苦しみの原因になるから取り除くといいよってオススメしていきたいのだ。


とはいえ僕も相変わらず、上がったり下がったりはするもので、特にゆるやかに「うーん」って思う時期と、「おし!」って思う時期とが繰り返されているわけで、当然ながらテンションが上がってくるとなんだか色々とやる気に満ち溢れて頑張ろうかなと思ったりするものである。


というわけで、けっこうやる気に溢れている。いま。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。