できることはそんなにないけどあればする

あまり僕のことをよく知らないで、なんとなく色々とやってそうだと思っている人はすごい人だという大変な誤解をすることがあるけれど、ある程度の付き合いをしてくれれば、「ポンコツ」であることがすぐにわかってもらえることができて、さらに深く知っている人は「誰かが助けてあげている」ということも知ってくれて、実はあんまりできることがないってことが解ってくれるので、非常に限定的なできることだけを僕に任せてくれる。


これは、本当に本当にありがたいことである。


なぜなら、非常に限定的にできることはさすがに「できる」ので、それだけは一生懸命に、いやまあ別にそれは呼吸するように出来るようなことなので特別頑張ることもなく普通にやればできるわけだが、それで喜んでくれる。


これは本当にありがたいことであるが、勇気が要る。しょうもないやつだということを、まずは自分が認めること、これは割とそれなりの人が表面的にはできている気がする。

謙虚な人というのはそれなりにいて、腹の底から謙虚な人もいれば、実はまあそういう態度の方が嫌われないから謙虚なフリをしているタイプの人もいるわけで、まあそれをしていたからといって、決して楽に生きていくことはできないので自分で責任を取って耐え抜いて生きていくしかないのである。


でも真剣に謙虚で本当に自分が何もできないと思っているタイプでも、次に自分が本当に何もできないということを意思表示し、実際にできないことをできない状態を示すことがめっちゃ難しいわけである。

これは僕も実は最初からそんな風に出来ているわけではなく、自分なりには出来るんじゃないかと思って、プライドもあってそれなりにやってみようとしてみるわけだが、絶望的に出来ないことが白日のもとに晒されるということを何度も繰り返して、諦めてやっとそうなったのだ。


最近なんて、忘れ物したくないなと思ってきちんと準備したのに、神様の計らいで航空会社がミスって、荷物だけを北京に置いてくるという事態が起こるので、こちらでどれだけ努力しても忘れ物が発生するということもある。

もはや、これは自分の特性であり、それに気を病んでいても無駄だということに気付けば、そのことについて思い悩む必要がないということまで言い切れてしまうようになるし、そうなったほうが開き直って清々しいものだ。


本当に理解ある僕の仲間たちは、僕がミスをしたり、忘れたり、うっかりしたことについては「周りがちゃんと見てあげなかったのが悪い」という認識まで至ってくれるし、実際に「それはいたるさんにやらせたらあかんよ」という言葉でもって、僕を守ってくれる優しい人たちなのである。


聞きようによっては「徹底的に諦められている」のであるが、僕はそんなことは一向に構わないし、むしろ大歓迎で、理解してくれて幸せ者だなと思うくらいなのである。かけらでもプライドがあると、なんて言い草だと思ってしまう人もいるかもしれないが、小さなことを気にしてちゃもったいない。


やはり諦められて、呆れられて、落胆されて、絶望されて、それでもなお、これはさすがに出来るっしょと思われて任されたもので輝くことさえできれば、もうそれで僕の役割は十分に果たせるし、それでなんとか生きている。


もう完璧な仕事がして欲しいなら他に当たってくれ、ってなもんである。


そんな寛容な人たちに恵まれて今日も生きている。そしてわずかに限りある自分の役割だけは果たし、なんとか今日も生きているのであった。


ああ恵まれている。ありがたい。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。