ひととメシの話

この一ヶ月だけ京都で何度か仕事をする。あと4日くらいかな。


ずっと温めていた丹波のリトリートプログラムづくりをはじめとして、研修の仕事をしてみたり、創業支援とか、小商いとか、面接の仕事とか、色々な仕事をしていて飽きっぽい僕だけどおかげさまで楽しくやっている。


ほんとに週5日同じ仕事してたということが信じられない暮らしだし、もう二度とそういう仕事をする気にはならない感じである。すぐ飽きてしまう。


ちょっと前なら、いや、今でもわりと十分に、まともな社会であれば立派な社会不適合者である。しかしエッジが効いているからなのか、いろんなご縁が繋がってなんとか暮らしをさせていただいている。ほんと嬉しい限り。


ありがたいのは、こんなよくわからない飽き性を全開で暮らしをすればするほど、周囲の人たちが「勇気が出る」とか言ってくれるし、うっかりと忘れ物をすればするほど「癒される」「安心する」と言ってもらえるし、じゃあどうしたら困るのかというくらい困らない。自己否定する要素がない。


いやほんと、否定する人たちはいくらでもいると思うんだけど、もはやそういう人たちは気分が悪すぎて僕のブログを読む対象者ではないから、なにも言ってくる要素がないし、言ったとて「そうなんすよねぇ。でへへ。」と、聞いているのか聞いてないのかよくわからないふざけた返ししかしない僕に呆れてしまって、何度かそういう落胆を経て、「こいつは言っても無駄だ」と判断されてしまって、立ち去ってゆかれることになる。


昔は、自分の耳に痛いことを言ってくれる人を大切にしないとひどいことになるぞと脅されるようなことがあったけど、いまも別に耳に痛いことは聞こえてくるけど、そうはいっても「しゃーないやつやで!」と言いながらも、なんやかんや助けてくれる人たちに世話になって今日も生き永らえている。


よほど僕よりきちんとして生きている、頭のいい人たちが悩む姿を見るにつけて、「幸福度と頭の良さは関係がなさそうだ」と思ったりもするし、僕にできることは効率を上げることとか、論理的に正しいことをどうのこうのとするよりは、まあべつに生きてたらええんちゃーうと鼻クソをほじりつつ、「とりあえずハラ減ったからご飯食べようか」って言いながら、一緒に飯を食うて話すくらいなんだろうなと思う。それがいいし。


例えばメシひとつとっても、どんだけ悩んでも苦しんでも、なんせハラが減るという不思議。悩むのにも苦しむのにも、なんやかんやとハラが減って、それで食うてエネルギーを溜めて、また苦しんだり悩んだり、ということをしてて、人間というのはまことにおもろい。

さらにメシでいえば、ハラが減ったのに悩んでたり苦しんでたりすると、せっかく美味しいゴハンを、なんか作業でもするかのようにかっ込んでしまうってのも全くもったいない話だなと思う。人間は環境の良し悪しや、気分の良し悪しで、いま食べているゴハンが美味しく感じたり、不味く感じたりするのもまたおもろい。


願わくば、せっかく今日出会うあらゆる食べものは、すべて何かしらの生命があってこそそこに出会う。だからこそ、どんなゴハンもありがたく美味しく頂けるような、気持ち良い心持ちで日々を生きていたいものである。


最後の晩餐が、気分が悪くて台無しなんて避けたいものである。


急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。