それが実現できるということについて

インド滞在6日目となった。主にオーロヴィルを回って、その近くにあるという自給自足を実現しているといわれるサダナ・フォレストを周ってきた。


今日の気づきは非常に深いものだったし、その場で見たものと、そこにずっと起こり続けてきたことを知ったことによって、世の中で起こることというのはなんなのかということついても、確信を持てるものであった。

実のところ、たぶん今回掴んだ感覚が本当に事実と体験をもって自分のものになるのは、もう少し先になるだろうと感じている。ただし、その感覚自体は必要な人にきっと伝えられると信じ、ちと気合を入れて書いてみよう。


すこし長くなるけどお付き合いを。もうこんなに書かない。



まずは今日は朝から起きて、昨日の夕方にも体験したちょっと強めにポーズを要求してくるヨガの先生の朝ヨガからスタートであった。


セッションスペースまでの道では、朝から今日もスタッフの人が掃除をしてくれていて、毎日いつも掃除をしていてくれるからこそ、この森の中で綺麗な場所が保てているんだということを今さらながら実感する。

掃除が苦手なんじゃなくて、本当にその掃除が大事だと思ったことがなかったからこそ、自分が避けて通っていたのかもしれないと感じたが、どうなのかはまだこれからの人生で確かめていくしかない。

ただ、明らかにメンテナンスによって守られる大切なもの、そして与えられる印象や、伝わる覚悟というものがあるということを感じてきている。

自分がその場所を本当に大切にしたいとき、本当にその態度をとることは自分を好きになれることと言えるだろうか、という問いを自分に問いかけられるようになると、もしかしたらこれまで出来ないと思っていたこともできるようになるかもしれない。これは挑戦してみたいと思う。


さて。


朝ヨガは昨日の夕方に比べればずいぶんと優しいものだったように感じたが、まあ相変わらず強めのポーズを要求するタイプである。しかし、自分が普段から慣れているゆるやかで落ち着いた呼吸のヨガと違うものを体験するのも、とてもいい勉強になるので、いろんなところで今後も学ぼうと思う。



宿泊している施設は、木々に溢れた自然豊かな場所にあり、昨日の夜も美味しいゴハンを食べさせてくれたが、今日も美味しいものが出てきてしまって朝からガッツリ食べた。ここは基本的にベジタリアンフードである。



朝ヨガとゴハンを終えたら、まずはオーロヴィルのエリア内を探索するべく、レンタル自転車で3人で出掛けることにした。エリア内の施設は遠いところで、20分くらいかけてチャリンコを漕いでいくような距離にもあり、なかなか広いのであった。そこそこの運動になるのだが、天気がよくてむしろ心地がいい。



エリア内にあるものがなんなのか、すべてのことは分からないし、どうしてもそれを知りたいという気持ちではない。


ただ、あきらかに人を惹きつける独創的な違和感をもったものが、この自然あふれる大地に建造されていることが、このエリア内で起こっている不思議な出来事の色を示している気がする。自由で創造的で美しくて挑戦的であるということだ。




正直なにがしたいのか分からないものだってある。ただ、そのひとつひとつにも意味があるのかもしれないが、それよりもエリア内に漂う自由な空気をそれぞれのモニュメントや施設やイベントの創造性によって、決してわざわざ主張するわけでもなく示し切っていることが本当にすごいことだ。


この場所に生きている人たちが楽しくここで遊んでいる。
人生の楽しみ方のひとつとして、人生をかけて遊ぶんだ、表現をするんだということを示していることに、本当におどろく。




次の写真は、エリア内にあるユースヴィレッジという施設にあった集会所のようなものだ。エリア内には目的を持った施設や、各国のことを示すパビリオンや、なにか象徴的な価値観を示すようなモニュメントもあれば、ユースヴィレッジはオーロヴィルという小さな自治地域内にあるひとつの村づくりの実験場みたいなものだと感じた。村の中に小さな集落があるイメージだ。




いまはアフリカパビリオンとか、チベットパビリオンとかがあって、各国の文化を伝えるための活動が行われているようだ。日本のパビリオンはあるかというと、設計図だけはずいぶん前に出来ているらしく、日本のことを紹介する立て看板はあったものの、実際の施設建設に至っているわけではないようだった。


ただ、立て看板はかなり立派なものだ。
重要な部分だけを読んでも素敵な紹介をされている。

日本は「美しい国」であると知られている。
そして人々は、目に見えるものと見えないものを含め、すべての物事や流れや現象に対して、神の存在を感じる力を持っている。


この場所に集う人々に、私たちがそういう国だと信じてもらえていることは非常に光栄なことであり、これからの時代のことや世界が向かっていく方向性を考えれば、本来ある日本や日本人の中に潜在している可能性を開かせていくことが、いまある世界のために力を発揮することになり、自分たち自身を幸せな存在として認識することになると感じる。本当に。



オーロヴィルをまわって、次はサダハ・フォレストに向かった。

インド旅の困りごとをほぼほぼ引き受けてくれている、今回の旅のパートナーのひとりである景俊(けいしゅん)さんが、「せっかくオーロヴィルまで来たなら是非ともサダハ・フォレストにいくべきだよ」というオススメを、まさかの昨晩にたまたまされたご縁でいくことにした場所である。


チャリンコでいくのもいいが、午前中でけっこう迷いながら走り回ったのでトゥクトゥクに3人乗りでいくことにした。



トゥクトゥクで飛ばして15分ほどで到着。
おそらくチャリンコだったら30分くらいだろうが、往復1時間だったらキツかったなと今になって思うので、この判断は良かったと思う。


ここはサダハ・フォレスト。水やエネルギーを自ら生み出し、自分たちの力で自給自足を実現している人たちの暮らす村だ。そういう活動だからこそ、環境問題に関しても強い関心と深い洞察と多大なる知恵と実践があり、村の中ではいろいろな活動が行われていた。


ちなみに、この小屋では捨てられたゴミをつかって、施設内が便利になるようなものを作ったり、アート作品のようなものをつくることによって、そのもの自体を再活用できるようにして、外貨を稼ぐ手段にもしているようだ。



本当に幸運なことだったのは、この場面に出会えたことだ。
なにかというと「昼メシ」である。もちろんお腹が空いてたから嬉しいとかそういうことではなく、この場所でこんな食事の機会を開いていて、それがどんな雰囲気だったのかを目の当たりにしたということの幸運さを感じ、本当に奇跡的なご縁でこの場所に導かれたように感じられた。



たまたま到着してみると「ようこそ!どこからきたの?」と、アポもなにもない僕たちを完全に歓迎してくれた。


そして「今からちょうどお昼ご飯なんだけど、もしあなたたちさえ良かったら、ランチを食べていかない?」って、いきなり誘ってもらえたので、それはとてもありがたいなーと思って、そこで案内されたのがこの光景だ。



何をしているのかというと、50人ちかくの人々みんなでゴハンを食べる準備をしていたのだ。いきなり集会をしている感じである。なんじゃこりゃー!と思ったが、とりあえず誘導されるがままに座り、みんなで食べるランチをいただくことになった。


こんな感じだった。


ざわざわしていた場を、リーダーが「みんなー、それじゃ始めるね!」っていう一声で場を沈めた。

正直ぜんぜん聞き取れなかったが、「今日もみんなでゴハン食べます。今日も新しい仲間が来てくれていて、ひとりずつ名前だけ自己紹介をしてもらうから、みんないつも通りおねがいね!じゃあ、どうぞ!」っていう感じで、まずは20代くらいの若い女の子が指名された。

そしてその女の子が「私たちは大学生でボランティアに来ました。これからいろいろと勉強していきます。よろしく!」みたいなことを行って、その後に、それぞれゲストに来ていた個々人が、自分の名前を言っていく。

「Hello! I'm David!!」
「Welcome!  David!!」

「Hello! I'm Kei!!」
「Welcome!  Kei!!」

「Hello! I'm Itaru!!」
「Welcome!  Itaru!!」

こんな感じで、名前を呼ばれて歓迎されていく。これによって8名くらいが、今日新しくきたゲストとして迎えられ、そしてゴハンを食べ始めた。

つまり残り40名以上はみんなここに暮らしているか、少し前から関わっているような人たちばっかりだということだ。尋常じゃないな、なんだここ!


古民家を社会家族をつくるための拠点のように出来たらいいな、なんてことを書いたのはそんなに前ではない。そしてそれを目指してインドにきたわけではなく、たまたまここにたどり着いたのは、ほんとに無関係に見えるような縁があってのことだ。

ただ、あきらかに実現している。まさに社会家族に近いものを実現し、ここで集う仲間がひとつ想いをもって関わり、この場所を少しでも居心地の良い場所にしていくために、そして個人が気付きを得るための時間を過ごすために、この場所に集まって暮らしているのだ。


しかも、それらは15年前にフランスから移住してきた、小さな子供たち二人を抱えたフランス人夫婦がつくった、たった4人の家族から始まっていた。


そしてそのつながりは、いま15年経って大きく繋がっていき、電気も水も、料理も食糧も肥料も、もちろん寝床も集合場所も、イチから自分たちで作り出し、それを学べる場に成長したことで、それをイチから実現できる人までもを生み出してきたことがわかった。


15年前など、今ほどSNSもそこまで大きく普及はしていなかった時代でそれが実現したということは、自分にとってものすごい大きな衝撃を感じさせたし、なんてことを15年も前から始めていた人たちがいたんだ!ということに加えて、それがいまこうした未来をつくったという事実に対して、心の底から感動した。


小さく始まり、うねり、巻き込み、人が集い、定まり、伝える力を蓄え、いまや人を育てる場所に昇華していった。それが、わずか15年で世界から人が集まり、たまたまだけど自分もそこに足を運ぶこととなった。その事実に。



彼らは好きで好きでたまらないことをやっているのだが、その結果として、ものすごくよく勉強していて、そのノウハウも素晴らしいし、知識もとてもとても深く、聞けばいろんなことを教えてくれる。


実際に上の写真に記載されていることは、それぞれの食材を1kg生み出すために必要な水の量はいかほどなのかが記載されていて、いかに水が貴重だということかを、おそらく経験を通じて痛いほど学んだのだと思う。だから、食堂に常にわかりやすく掲示し、本当に水を大事に使わなくてはいけないんだということを伝え続けていることも、そうした生きたノウハウの一つだ。


英語があまり上手でないために、深い話を聞けないことに悔しさは感じたが、いまはその情報がどうというよりも、これだけのことが実際に15年の間に、知らないうちに起こっていたことを受け止めるだけで十分な成果だ。


そして、彼らの哲学のようなものが集会所に掲示されていた。育てていこうと書いているので、これらは発展途上であり、ずっと時代に沿って変化し続けていくことを念頭においてあるものであることが伝わってくる。



学びのためにこれらを僕なりの言葉で書いてみよう。

・森と私たち個人の物語をともに語り合おう
・この森を好きになり、この森の恵みを分かち合おう
・愛するだれかに木を贈ろう
・どんな小さなボランティアでもいいからやっていこう
・使わない道具はなんでも持ってきてほしい
・写真やビデオの撮影やシェアはご自由に
・家に帰ったら、オンラインでボランティアできるからね
・集会所の入り口に寄付の箱があるよ
・オンラインショップで免税商品があるよ
・是非あなたらしい貢献を


ということかな。よくわからんけど、とりあえず感じるまま書いてみた。
これらも、もしかすると来年には違うものになっているかもしれないし、きっとそういう変化していくことを望んで出来ているものなのだろう。


ここまでが起こったことであり、その時点で感じたことである。

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こうしたことを通じて、いま感じていることがある。
書くのには正直なところ勇気が必要だが、書いてみようと思う。


なにを恐れているかというと、目に見えないものを信じない社会風潮には、なかなか受け入れ難そうなことを大っぴらに書くことで、ヤバいやつだったと思われることを恐れているのだ。ただ、そろそろ書くべきだと思う。


僕は運がいい人間だと思っているが、運がいいということ自体は主観によるものと言えるものだろうし、それは誰がどうということが証明しづらいものであると思ってる。運がいいという、そもそも主観的で証明も出来なさそうなことを信じるのは、目に見えないものを信じると同じ意味と考えている。


そういうわけで、そもそも運がいいと思っているわけだが、それでもすこしは恐れがあったし、いまもなお恐れを手放しきれてこなかった自分のことをちゃんと自覚していて、それを手放すんだということに挑戦している。

世でいうスピ系、というものについて、自分なりにちょっと引くわ〜と醒めた目で見ている部分を持っているが、そうは言っても説明のつかない部分がどうしても出てくるものがあることを認めている。


いろんな人に「人の目はほとんど気にならないっす」と言いつつ、自分の中でもちょっと社会的に完全に隔絶される可能性があることは言わずに、上手にやっていったほうがいいんじゃないかと思い、人の目を気にしているという言行不一致な部分があるところを、すこし置いてけぼりにしてきた自覚がある。バランスと言えば大人な言い方だが、ちょっとせこい部分である。


でも運がいいと思っているから良いことが起こっているというのは、かなり本気で思っていて、そうして良いことが起こると、ほら!やっぱり!でも、めっちゃ感謝してる!!!みたいな生き方をずっとしている。


いよいよそういう、よくわからない説明のつかない部分を、ちゃんと信じているんだということを言い始めていこうと思ったのは、それをちゃんと信じているんだということを認め、世の中にいる「そういうのホントないし、まじで引く」っていう人からマジで引かれることを恐れていたことによって、無駄に削いでしまっていた強い想い、強く信じる力を、もう解き放っちまいたいと思ったからだ。


ここで、もしこんなことを思った人がいたら、それはぼくの自己認識が不足していたと思うから、それはほんと勇気を持って教えてほしい。


「いまさらどうした。オマエの生き方なんか不思議なことしかないやろ。」
「え、そもそも目に見えない力だけで生きてるんでしょ。知ってたし。」


いや、そうやねん。でも、それなりに努力したきたこともあったし、それなりに説明のつく範囲で出来ることが世の中にあって、それを積み上げてきたから出来ることがあるねんでっていう世界でまともに生きてきたつもり。


だから隠してきたつもり。でも実はこういう考え方。

いや、まじでどうしてそうなるかわからんねんけど、なんかうまくいくとしか思えへんからやっているし、わかるように説明せよと言われるから、なんかそれらしい説明はするけどさ、そんな心配とか、常識で考えるとどうだ、とかマジでどうでもいいから、絶対それは良い結果につながっていくから、もう手伝ってくれ、そうじゃなきゃ黙って放っておいて、まじで。


そう思っていた。けど、そこには恐れがあったなと自覚した。僕は、きっと人に本当はわかってもらえないかもしれない。そして、そのことで僕は少しなりとも傷ついて、悲しい気持ちになり、それを辛いと感じるかも、と。


でも、なんかもう今回のことで馬鹿らしくなってきた。

インド人が、まじで時間とかルールとか約束とか、かなり適当過ぎるのに、人の目を気にすることなく、それぞれを尊重していて、結局なんか幸せそうに生きていたりしたことは、僕に強い勇気を与えてくれた。

カルマの解消とかいう、ど真ん中スピリチュアルな現象について、割と熱心な人でも障壁があったり、時間がかかったり、スムーズにいかないことがあるらしいのに、全くなんの障害もなく導かれるように機会に恵まれたことは、今が気づきを得るタイミングであると明確な確信をもたせてくれた。

オーロヴィルを立ち上げた創始者が、90歳でこのエリアを建設していくプロジェクトに取り組み、わずか5年でこの世を去っていたこと。そして脈々とその想いを継いでいく人たちによって成し遂げられた結果と、しかも実は生まれるずいぶん前からそんなことを真剣に取り組み、巻き込みまくった取り組みだったことを知ったこと。それらが、いかに常識的なことに囚われることに意味がないか、またいかに強い想いが過去と未来をつなぐ力があるのかを教えてくれ、勇気を与えてくれた。

そして今日のサダナ・フォレストで出会ったこの情報は、いま自分がこれから取り組んでいけたら本当にすごいことだし、やってみたいな、と思っていたことが、まさに「ごめん、それもやってるで。全然できるで。」って、その場で示されたような事実であって、そんなもん、ここでこのタイミングで示されて出来へんわけあるかい、って思うのに十分な勇気を与えてくれた。

そして古民家こまったと言い始めて、2ヶ月ちょい経って、出会えてきている人たちとの対話と、カルマ解消の儀式が終わってからのタイミングと、ここにきてインド旅で出会うすべての情報にあまりにも強いシンクロニシティを感じていて、しかもそうしたシンクロニシティは自分とそうした目に見えないものを信じる力によって引き寄せることをどうも認めざるを得ない。


調子に乗るとか乗らない、ではなく、自分が本気で信じたものが信じたように、世界に現れていくのだという確信をした。そして、それは自分だけではなく、あらゆる人に当てはまるんだということも確信をした。

それが事実とどうだ、という人と議論する時間に興味がなく、そうして物質的な状況証拠を、短期的にどうだからこうだ、ということにこだわって生きていきたい人たちとは、本当のところではまともに会話できないし、今後はしても疲れるだけで、お互いに意味がない時間になるのだということ。

でも実は、そんな恐れは僕が感じていただけで、大半はわかっていて関わってくれていたのに、今さらどうしたのっていう人もかなりいてくれて、僕は安心して生きていけるようになっていくんだということ。
わずかばかりの「あ、いよいよ頭がおかしくなった」と思う人との距離が、少しずつ離れていっても、それらに僕は鈍感で気付くこともないこと。

そういうことなんだと確信した。


だからもう、えいやーっと書いてしまうことにした。


思ったより周りにはマトモなところがあると思わせる作戦がうまくいっていたと自分で思い込んでいたが、実はそうじゃなくて、思ったより変なやつだと思われていたことを認めていなかったのは自分だったのだと思う。

そんなことはわかりきって関わってくれていた人がいたとしたら、わけのわからない常識人ぶって逃げていたことを、カミングアウトするまで我慢強く、もしくは知ったこっちゃねえわ、というくらいにして暖かく遠いところから、近いところから見守ってくれていてありがとうございます。


今後はもっともっとオープンマインドでちょっとわかりづらいことを、直球で投げることが増えると思います。すぐにはどなたかにとっては、まったく理解しがたいこともすると思いますがよかったら見守っててください。

ぼくは、そういう目に見えないものがあるってことを確信していて、それが実現していくことが説明がつかないんだけど、つかないのにやってのけて、よくわかんないけどああいうヤツがいると、証明しづらいことが増えるから邪魔だよねって思われる存在になるんだなと思います。


こんな生き方なのにずいぶんと怖がっていてすみませんでした。
もっともっと信じる力を持って進んでしまえるようになります。
心から興味をもって聞いてくれる人には伝わるように説明します。


そして奇跡的なことはもっと起こっていって、もうよくわからんけど、またなんかどうせ実現するんでしょう?って思わせることが増えると思いますが良かったら一緒に生きていってくれると嬉しいし、一緒に生きてくれる人を出来るだけ幸せにしていきたいし、たくさんの人を信じて、愛していく自分でありたいと思っています。


こんだけ書いても、今日までの気づきがまとまってはいません。


いろんなことはこれから、自分自身の中に生まれている変化と、それを伝える言葉と、示す行動と、その源泉にある想いによって、結果も伴って示せるようになると思いますので、よくわかんないけど面白いからこれからもよろしくね、っていう人は、ほんとよろしくお願いします。


もう、ちょっとすごい引いちゃったのでいよいよ付き合ってらんねーわっていう人は、もうむしろこれまで関わってくださってきたことを心から感謝しています。いつかどこかで、なんか言ってたなと思うことがあれば、いつでもいいのでまたご連絡ください。


ほんとそういう感じです。
2時間もかかって、8000文字超えたわ。引くわ(笑)

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。