人と人じゃないもの

まれに「ああ、もうこの存在は人じゃないな」と思うような、いわゆる「人」がいる。この人はもはや妖精かなというのもいるし、生きる菩薩さまやな、とか今世は明王さまの役割かなとか、まあ本当にいろんな振る舞いの中に、「人らしくなさ」というものを感じる。


人らしくない人が、その存在らしくもなく人らしく悩みを抱えているとき、本来その存在が果たすべき役割を全うしてないなぁって感じで面白い。

その存在に与えられた人間としての配役にハマり過ぎて、人間らしくやりすぎやで、っていうことがちょっと面白いくらいだなと思うときもあるほど。


もちろん段階的に人が人らしく生きていく中で、徐々に自我を手放していくプロセスを経て、徐々に楽になっていくことを見かけることはある。

それでも多くの人は悩み、苦しみ、その苦しみを自分自身が生み出していることには思い至らずに、誰かを恨んだり、環境に愚痴をこぼしながら、自分の捉え方以外の何かが悪さをしていると思い悩む。ずっとそうして生きる。


それでもまれに、嫉妬をするわけでもなく、顕示欲も感じられず、ただただ人が本来あるべき嬉しさに素直に向き合えるよう道を指し示すような生き方をしようとする人がいる。

本人は意識もしないが、それはもう六道のうち、人道から少しずつ踏み出していって、天道に足を踏み入れていく最初の最初を歩き出していると思う。


それでもなおその存在が人間らしい悩みをもつとき、しかも自身がもしかして普通の人間じゃないのかもしれないと思っているとき、「きみ、ちょっと人間らしくしすぎやで」と思うことがあるのである。もう人外の存在に踏み込みつつあるくせに、しかも自分自身もまたそれを意識しているくせに、「いつまで人間らしい悩みごとを抱えてんねん、キミ」ってなもんである。


こういうことを言うのはまあまあ勇気がいる。まあ間違いなく変人であることをこちらが認めたうえで、相手との距離を詰めることになるからである。

しかし、やはり「オマエ、俺が見えるのか?」っていうやりとりが行われるとき、人は本当に孤独から解放されて嬉しい気持ちになるもの。

自分自身が大きく見立てを外したとしても、踏み込んでその孤独に寄り添う覚悟を持つべきときもあると信じているのだ。


そこではもう本当に強く信じる力が必要になる。こちらが相手の意図をくみ取ったように相手もまたこちらの意図をくみ取ってくれて、私たちは分かり合えるし、その喜びを分かち合おうよって思う愛と勇気なのだ。


いよいよ伝わらんことを書いている気がするけど、きっと届くよ合掌。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。