サウナのインスピレーション

ぼくは何を隠そう、サウナーというやつである。近しい存在の人たちは僕がサウナーであることを知っているし、恐れ多いことであるが伝えたサウナの入り方が伝わり、師匠として仰いでくれる存在すらいるほどのサウナーだ。


今日はサウナーしかわからないことを書く。
感覚的で非常に個人的なので意味不明なこともあろうがご容赦頂きたい。


ぼくがサウナと水風呂の交互浴のあとにやってくる、”あの瞑想状態”において気づかせてもらえたことというのはたくさんあるのだが、今日も今日でいい感じでやってきたのであった。

ちなみに”あの瞑想状態”に入るとき、僕の身体ではだいたい「ちょっと頭がぐるぐるして酔ってる?」くらいに近い感覚であることが多い。水風呂から上がる直前で、だいたい目眩がしているくらいの感じであり、呼吸はかなり深く、心拍数は秒速1回を切るくらいになっていて、軽い酸欠状態になっている場合が多い。このままいくと死ぬんだろうなという感じである。


まあそんな感じの、大変安全でかつ極限状態において見えてくるビジョンというのは、およそ常識的な理解ではよくわからないものが落ちてくる。


これまでで一番意味不明だったがとてもいい感じであったビジョンは、両手に生まれたエネルギーを合掌しておもいきり押しつぶしてみたときに、両手の隙間から光の粒が弾け飛んでいって、摩擦のない空間を無限に飛び散っていくなかでひとつの宇宙が生まれていったことを確かめることができたので、この宇宙もまた大いなる存在の合掌の中で生まれて消えていくのだなということがスッと肚に落ちたという、到底理解できないものだった。


そういうわけで、サウナで仕上がっている中でそういうビジョンをよく見るわけだが、意味がわからなさすぎてなかなか書いたりはしないのだが、戯れに文章にしていくこともまた面白いなということでここに記している。


今日はひとつの呼吸のうち、吸う間に宇宙が生まれ、吐く間にその宇宙が閉じていくというビジョンが見えたので、果てしない世界のどこかには大いなる存在の呼吸のうちに生まれて消えていく宇宙があるのだろうなと思って、場合によっては僕のひとつの呼吸にもまた小さな宇宙が生まれて消えたのかもしれないとも感じて、いまを生きることがいかに儚く、短く、それをまた自覚できることのいかに尊いかを味わったのであった。



書いてみれば、つくづく意味がわからない。



ただ、こういうビジョンが頭に浮かんでいる時に感情的にはとても幸せな気持ちに包まれているという不思議さが、この身体にはあることは確かだ。



想像力に限界を設けるのはダレだ。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。