大切な人に会う時間だけで人生は埋まる

これはうまく表現することは難しいことだけども、もしも、自分にとって、なにか居心地の良い人との時間が少ないのだとすれば、きっとそれは大切な人に会う時間が少ないということではないかと思う。普通のことだけど。

でも意外と本当に大切な人ってのはわからない。ここが難しい。

売上につながる人が大事という人もいるだろうし、一生それが大事なんだって信じられる人もいるのだろうけど、少なくとも僕はそうじゃないし、お金がどれだけ豊かにあったとしても、心地よい人たちと過ごす時間が少ないのならば、それは大切な人生の時間を、無目的なままに使い道のないお金にとりあえず換金をしているだけなのだと思う。


今日はインドから帰ってきたステキ姉さんとの飲み会だったわけだが、久々にお会いすると元気いっぱいで、ちょっとだけこれからのことに悩んでいた前とは違って、どーんとこれからやっていくパワーに溢れていた。

「よこちんが言うてた通り、わたしもう無理するんやめることにした!」

そう言ってくれたので、インドでいろいろな時間を過ごす中で、これまでの人間関係の中にあった無理して付き合う時間を、極力減らして行こうって、きっと思えたんだなあという風に感じて嬉しかった。


身を粉にして働き、身を粉にして学び、身を粉にしてつながりをつくり、それで生まれるものが「年収」やら「役職」なのだということを知っているのに、それを大切にも思うわけでもないのに、他に追いかける指標もないからなんとなくそれをとりあえず大事にしようというのなら、それはあまりにも人生の大切な時間をなんとなく使いすぎていると僕は思ってしまう。

いや、結局は、だからそういう暮らしができていないだけだな、僕が(笑)

そう、そんなよく分からない換金行為を繰り返してお金を貯めるより、少しでも目の前の人ときちんと話がしたいし、それで普段話せない話が少しでも出来たのなら本当にそれはめちゃ嬉しい時間じゃないかよと思うわけで。

でもそんなのなくても生きていけるタイプの人は、僕とはまったく違う生き方ができる能力と考え方を持っていて、人生に対する豊かさの感度が違うという点でものすごく興味深いし、尊敬の念すらが生まれる存在である。


でもそれはやっぱり、僕にはむりだな。


僕はどうしても大切な人と時間を過ごしていたいし、それを大事にしているだけで時間が過ぎ去っていく。それで人生が終わっていくのがいい。むしろそれだけで時間が埋まっていくことにほぼシフトしているといえる。

そして無理にしんどい人と会うと、ほんのちょっとの時間でも大きなダメージを喰らって、かなり回復に時間がかかるものだと思う。会いたい人に会うと体力はむしろ回復するのに、会うとしんどくなる人に会うと、どれだけ体力があってもズドーンと消耗し、数日の回復時間を要することだってある。


効率よく生きることについてそこまでこだわっているわけではないけど、それでも、やっぱり生きる時間は有限だ。会いたくない人、会うとしんどい人に会う時間に割いて体力と気力を消耗し、回復時間を大きくとる事になり、会いたい人に会う時間を削ってしまうのは大変もったいない気がする。


それができたら苦労しねえよ、って人に勇気と機会がないのはわかってる。


だけど事実としては、もう嫌な人とは会いたくないって、我慢して付き合うのはやめますって、決めた人からそうして生きていくことが始まる。そしてそれは誰のことも傷つけないし、誰も困らないし、みんな嬉しくなるのだ。

世界平和のためにも、一人でも多くの人が大切な人と会う時間が増えていきますようにと心からただただ願う。合掌。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。