カルマ解消してきた

さて、いよいよ今回の旅の大きな目的であったものについて触れてみようと思う。なぜなら、ほぼ今日一日それしかやってないからだ。


いやー、じゃあ前日まではなにをしていたのかといえば、「移動」だけしていたのであるが、その移動は何のためにしていたのかといえば、もう今日の日を実現するためであったから、まさにインドにきていろいろと珍道中をしてきた一旦の目的がこれだったわけである。


ティルナゲスワラム。タミルのお寺。


さてここは、タミル人が住まうタミルナードゥ地域。写真のような建物が2000年〜3000年前にすでに寺院として建てられていたと言われていて、高い文明と文化の存在を感じさせる象徴的な建物だ。おおっと、なんか番組のナレーションみたい。でも本当にゲームとかアニメとか漫画の世界で見てるような世界が、祭壇が、祠が、現実の目の前に広がっているような感覚。



いや、しかしこの石の文化はすごい。ひとつひとつ細かい彫刻がされてて、多くの石工がここにいたことも、またその腕のいい石工たちが日々を費やしながら、丁寧に一つ一つの柱や天井に彫刻をしていったのだということをどんな鈍い人でもさすがに感じることができるだろう。



そして、歴史の前に呆然と立ち尽くす男。





いつもの帽子と、いつものTシャツと、いつものモンペと、いつものがま口チームたちとともにやってきた。地元の人が変人を見る目で、見る見る。


不思議だけどこんなところにひとりでやってきちゃったし、来れちゃった。そして、まさか前世のカルマを解消する儀式を、あれよあれよと導かれるままに執り行うまでに至ったわけで。いやー、人生はほんとわからない。笑





嘘みたいに重厚なつくりで、どうやって造ったのかもあんまり想像ができないくらいに立派な寺院に予約を取ってもらって、1時間にひとりずつの特別なお祈りを捧げていくことで、前世のカルマの解消をしていくという儀式となっていて、地元の人たちはその合間に儀式に参加したり、今回はどこからきた人がどんなお祈りを捧げるのかなーなんてことを見学していたりする。


ズラズラときている人たちが、自分の儀式のために時間を割いて参列してくれるということを知ると、たまたまそこにいてくれる人たちと何かしらのご縁があったようにも思えてくるから不思議だし、人間は環境に触れてひとつ思い込むだけでそんな風に受け入れられるもんだな〜とも思う。


そしてそれは決して悪いことでもないなと。まあ、そういうご縁があってもええんちゃうー?っていう感じの気持ちを持つことができる。

そして特別なタイミングで特別な場にふと居合わせてくれたことに対して、なんとなくみんなに感謝したいような気持ちになってくる。

あ、さすがに大事なところは写真撮っちゃいけないのでご容赦を。




彼は寺院のお坊さんで、儀式の周り方をサポートしてくれた。





お祈りが終わると、白い粉や赤い粉が渡されるが、僕は不慣れなのがわかってもらえているので、祈祷する人から直接粉をつけてもらった。


つけたまま、ランチへ。今回の旅で最もちゃんとしたレストランで南インド料理を味わう。まだまだヘタクソだけども(でも滞在四日目)、わりと右手だけで食べることにも慣れてきたから才能ある気がする。




ランチしたあとにいろいろと案内役のラビさんとお話をした。


こうした案内を日本人向けにずっとやっていることと、世界中で見て日本が心理的な悩みを持つ人があまりにも多い状況になっていると感じていることなどを聞かせてもらった。

インド人で鬱病になる人とか見たことがないらしく、日本人からの相談話を聞いていると鬱病になっている人がどんどん増えているらしい。


僕の周りでも、気持ちが落ち込んでしまう人たちが増えているけれど、それは個人の問題ではなくて社会全体の雰囲気によって生み出されている気がしてきている。濁流のような思想が、感受性の高い人の頭の中に入り込んでいって、その人自身が壊れてしまう前にシャットダウンさせようとしてる。

身体はよくわかっていて、自分がしたくもないことを無理やり頑張っていると心がどんどん辛くなってきて、身体はそれを素直にもうダメだよという風に表現をしてくれる。


なんでこんなに自己嫌悪で苦しむ人がいるのかというと、自分のことに対して寛容じゃない自分がいるからだと思う。でも自分自身が、自分に寛容であるということは、自分を甘やかしているということになってしまい、自分に甘えちゃいけないって教えられ続けているから、それは自分を堕落させるんだって自分の首を絞めて、苦しめば苦しむほどいいんだと言っているように聞こえるけど、いやそれはきっと自虐型のSMプレイやで、なんて思う。


いや、むしろSMプレイに失礼かなと。わざわざ羞恥心を楽しみに行っている娯楽と、ただの苦しみとは、似て非なるものかなと。SM的自虐行為。


んー。しかし、ちゃんと生き永らえるべく、みんなが心地よくすべく、極端に潔癖なまでにルールを厳密にしていった結果が、経済合理性と消費者思考のゴリゴリの社会が生まれたことの皮肉さよのぅ〜と思っている。

みんなはみんなのことを幸せにしたくて、自分が幸せになりたくて、きっとこれが正しい道なんだって思って走っているし、走らせているけど、ただ全然その道のりの先に幸せは見えてきてないんだろうなあと思う。


インドにきて、このテキトーさと、寛容さが織り混ざっている感じがとても生きやすそうに感じている。天才と犯罪者が真横に並んでチャイ飲んでる感じだ。それをルールとかで縛ろうとすると、笑い飛ばされそうな感じがして、めっちゃいいなあと思うのだ。


適度に放置してくれて、道が分からなくて聞けば、お節介なくらいに教えてくれて、うまくいったら一緒に喜んでくれるような暖かさを持っている。だからといって過度に干渉するわけでもなく、汚らしさもそっと尊重し、そこで暮らす人たちの事情があるんでしょう?って感じで受け流している。

それは犯罪を犯すことになった人の、その人生の背景も含めて、そんな感じで受け流せそうな感じもするくらいに。いや知らんけど。


インドが好きな人は、今さら言ってんじゃないよっていうかもしれないし、君もようやくそれに気づく段階に来たか、と言われるかもしれないが、インドのことなんか知らないで生きてきたから、36歳で気付いてしまった。



熱くなりすぎた。
さて、お祈りに戻ろう。



プティスワラム。タミルのお寺。


ほんと空も青くて、天空に伸びていくような寺院の門。こんなところに人生で訪れる機会があるもんだなあとしみじみ感じて満たされたときの写真。


そんな素敵な寺院の入り口で寝るおじさんもいる。まあ、通行の邪魔にならないようにちゃんと横で寝ている分、お行儀はいいよね。問題は次。



2メートル真横で寝るワンコ。ちょうど暖かい日の夕方に、陽をさけて上手にいいところで寝ているんだが、おい道のど真ん中だぞとも言う気にもなれない。心から安心して寝ているのがわかる。ええなぁ。


なんだかもう、いろいろちゃんとしているのが馬鹿らしくなりそうで、ほんとニヤけてくる。




寺院の中は改装が行き届いていて、数億ルピーが寄付されたことで実現したらしい。めちゃくちゃきれいで、はっとする。


ただ、造りはずっと昔からの古いもので、色を塗りかえただけで、基本的な建築はすべてそのまま。いかに技術・装飾・彫刻のレベルの高い建築をしていたのかということを感じさせる。





ここではドゥルガという、一説によるとインドでも最強の女神が祀られていて、過去生のカルマやいまの諸々の嫉妬や邪魔をする存在を、消し去ってくれるような強い力があるとのこと。しかも日曜の夕方16時以降が最もその力を発揮する時期であったということで、まさに最強の女神様の最強のタイミングでお祈りをすることができたのは幸運だったと素直に喜んでおきたい。



はい、カルマが解消されたであろうニューいたるです。こんにちわ。




なにかが変わったということはないけど、ここまでのインド旅で受け取ったものと、今日の時間と、ここから帰国までに過ごす時間の中で確信できそうなことが生まれてきている。まだちょっとうまく言語にできないけど、自分自身がなにを大切にしたかったのかということと、その道がきちんと輝いていて、開かれている感じがしているっていうことだな。


ぼくはいわゆるスピリチュアルな話は、ぜんぜん受け止めることが出来る。自分で積極的に発信していくことはしてないし、現実の中で生きることから手を差し伸べていかないと、という気持ちを持って生きてきているつもり。

だからこそ、お金を稼ぐことやら、まちの活動に一歩踏み出すことや、自分の人生がいろいろと不安にあるときに背中を支えたり、背中を押すような、そんなことを生活の中で実践することが重要だと考えていきている。


ただ、わかりやすい言葉にすればするだけ、具体的になっていくと、その言葉に引っ張られ過ぎて本当に伝えたいことがイメージでは伝わらず、物質的なイメージのみに引っ張られてしまうとき、表現の難しさにぶつかるときがある。ちょっと違うけど、行為を通じて気づきがあることを願うしかない。


そうして願いを引き受けてくれる人がみつかるときに、崇拝される存在にもなるときもあれば、人知れずさっと解脱していった聖人もいるだろう。



世界遺産を見てから、そのあとどローカルバスに乗ってポンディシェリまで帰るときに、酒に酔っ払った上機嫌の兄ちゃんが、陽気に話しかけてくれるのはいいんだけれど、お酒くさいのと、話しかけるときに声が届かないのがまどろっこしいのか耳に口を当てて話しかけてくるのは勘弁してほしかったが、いやほんとそれが生きるということだなと思った。




いつかそんな話だけをするためだけに、丹波に人が集まってくれるような場所をしたいと思っているのだ。

古民家こまったブログっぽく帳尻お合わせるために書いてるわけじゃなく、本当にそう思ってるだよ!嘘じゃないんだよ!

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。