なんと言われても感謝の日々

インドに旅に出てから、つくづくずっとこうである。

タイミングはすべて必然であるということについては、大学1年生のときからずっとそれを信じて生きてきたが、日々起こるすべてのことがその確信を深めさせてくれ続けるような生き方をしてきたような気がする。


それが36歳の3月に、短いけれど確かな旅であったインドで過ごした時間によって、より見えやすい形で示されていくことが示されて理解した。


近づいては離れていく縁もあるし、遠くにいったように見えていても、結局はなんだかんだそれなりにつながっていく縁もあって、人とのご縁であったり、旅や機会とのご縁であったり、家や土地とのご縁であったりもする。

なんでこんなタイミングなんだろうってことはなんにもなくて、結局は必然のタイミングですべて起こっているのであって、それについてどうこう言う必要もなく、ただただそのタイミングで起こることを受け入れるだけ。


そして、ある意味ではそれは車窓から見える景色のように、なにが起こるかなんてことは予測もつかないし、その日が雨なのか晴れなのかも分かることはないが、ただその日その場所で見えた景色に意味づけすることはできる。

その意味づけはとても自由で、残酷なストーリーに仕立てることもできるけれど、大体の場合は本気で取り組めば、なんだかんだと楽しめる仕様になっているし、そうなるためのヒントは散らばっているものだ。


自分が恵まれているなあと思うのは、そうしたことが起こることについて、どうしたってその時にはそういうことが起こるもんだよってことを伝えても理解してくれる人が周りにいて、そうして何回も上がったり下がったりを繰り返していくことが生きるってことなんだと、一緒に飯を食ったり、お茶や酒を飲んだり、サウナに入ったりしながら、味わい深いものだね〜なんて、ニヤニヤしてくれる友達が十分にいてくれるってことだ。


ずっとそんな話をすることは、きっと不安にさせてしまうと思い込んでいたけれど、もうそのことに勇気すら持たなくても大丈夫なほど、僕には大切な会話ができる確信も居場所も時間もあって、とても安心して生きている。


きらめくように、弾けるように、いろんな巡り合わせに恵まれ、人として生きる時間をいただいて、面白かったり、嬉しかったり、腹立たしかったり、悲しかったり、切なかったり、それがすべて有り難いことなのだということであり、そういうものがあって然るべきなのが生きるということでもある。


いま心にあるいろんな感情をうまく言えないが、それでもやっぱり、起こるすべての鮮やかさ、彩り、味わい深さに感謝しかすることがない。


きっと伝わりますように。
心から合掌いたします。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。